夜の闇、月明かりの下。  人も獣も植物も、眠りに沈む真夜中に、しかし山道を行く影が一つ。 「……ここは、どこかしら?」  影の少女、マエリベリー・ハーンは意味の無い問いを口にする。  ふと思い立ち、ふらふらと散歩をした先で黒猫を見かけた。  こちらを導くように何度も振り返りながら道を行く猫を彼女は追いかけ続け――  黒猫が消えた場所で見つけた境界線を、好奇心に負けひょいと跨いでしまった。  彼女の経験上、たとえどれほど非常識な世界に迷い込んだとしても世界を形作る根源的な法則に差異は無く。  また、危険に晒されたことは数あれど、致命的な状況に追い込まれたことは未だ無く。  故に境界線を越えるということは、彼女にしてみればフロンティアスピリット溢れる散策に等しかった。  では何故、彼女は「ここが何処であるか」などという疑問を抱き、それを言葉としたのか。  理由は一つ。  境界を越える以前、天には太陽があった。  それが今、金色の月と瞬く星を浮かべた夜の空に摩り替わっていたからだ。 「これだけ時差があるってことは、裏側辺りだと思うけど……」 「ここはマヨイガ」  不意に、疑問に答える声が響いた。  振り返れば、そこには黒猫を抱きかかえた女性が立っており、 「遠路はるばる、日本へようこそ。――と言っても、人っ子ひとり居ない、寂しい場所ですけれど」  怪訝な顔をするマエリベリーを、大仰な仕草で歓迎するのだった。    * 「……ニホン?」  マエリベリーは相手を眺め、視線を上下に数度往復させ、ようやくその一言を発する。  その言葉に女性は髪を揺らして頷き、 「極東、と言った方が覚えが良いかしら?」 「――ああ」  それなら分かると、マエリベリーも髪を揺らした。  極東の島国・日本。  それは衰退して久しい国の名前である。  人口減少が云々という記事をどこかで見たなと、マエリベリーは思い出していた。 「だから人が居ないのね。目の前に一人いるけど」 「あら。ここで暮らしてるように見えるのかしら?」 「いいえ全然。想像もつかないわ」  外見だけで言うならば、この胡散臭い女性、どこからどう見ても東洋人ではない。  話す言葉も、マエリベリーの国で公用語に指定されているものだ。  彼女の背後に見える屋敷も確かに立派ではあるが、彼女には似つかわしくない外見である。  しかし、だとすれば。 「それじゃああなたは、ここに住んでいない人? それとも、住んでいる『人以外』?」 「さあ、どうでしょう? もしかしたら、住んでいない『人以外』かも」  問いをはぐらかすように笑いながら、女性は猫を地に下ろし、 「今日はもうお帰りなさい。望月の夜は危ないのだから」 「あ、ちょっと」  それまでは無かった境界線の向こうへと、消えた。 「――」  後に残されたのは、少女と黒猫。  その猫も一声鳴くと、屋敷の中へと消えてしまい、 「……はぁ。帰ろぅ」  最後の一人も帰り、マヨイガには誰も居なくなった。    * 「あら。また来たのね」 「またここに繋がるとは思ってもみなかったわ」 「本当に?」 「実は、ちょっとだけ思ってた」  それから数日後。  月明かりの下、二人は二度目の邂逅を果たした。 「そう言うあなたはどうしてここに?」 「あなたが来るような気がしていたからですわ」 「本当に?」 「実は、来ること知ってましたわ」  先と似た問答を、立場を変えて二人が交わす。  そしてマエリベリーはくすりと笑い、 「変な人ね」 「そのお言葉、そっくりお返し致しますわ。生憎私、人ではありませんの」 「そう、やっぱり」  ……やっぱりこの人、人じゃなかったんだ。  奇妙な思考だと思いつつ、疑問が解消されたことに頷きと笑みを作っていた。 「私の名前はマエリベリー・ハーン。よければ私と、お話しない?」 「私の名前は八雲紫。人ならぬ身の、私でよければ」    *  マエリベリー・ハーンは胸中にて、密かにガッツポーズを作っていた。  このような地で、話が通じる相手と出会えることは滅多に無い。  大抵の手合いは地上に居ないか、あるいはこちらを警戒して姿を見せず、  会話か可能な距離まで接近したところで、殆どの場合、言葉が通じない。  侵入者と思われたのか、襲われた経験も一度や二度ではなかった。  故に、こうして腰を据えて会話に臨める相手は貴重であり、 「それじゃあ紫、まずはこの場所、日本について聞いてもいい?」 「分かったわメリー、それじゃあこの国についてお話しましょう」  ……メリーって、私のこと?  思いはすれど、機嫌を損ねてもいけないと思い、好きに呼ばせておこうという結論に至った。    * 「そう。そんなところなのね、今の日本は」 「ええ。そんなところなのよ、今の日本は」  幾つかの昔話と幾つかの今話を聞き、マエリベリーは嘆息する。 「想像してたのと全然違ったわ。どこもこんな風なんだろうって思ってたんだけど」 「ここは特別なのよ」  言って二人は、風景を目に映す。  やはりここにあるのは生い茂った木々と大きな屋敷と、背後にそびえる山のシルエットだけで、 「そうね。マヨイガを詳しく知りたいのなら、この本を読んでみるといいわ」 「この本は?」 「遠野物語。そちらで言うところのフォークロアよ」 「……私、日本語わからないんだけど」 「言葉の境界なんて飛び越えちゃいなさいな」 「そんな無茶な」  ……この本を読めば、今、目の前でウインクしている紫のことも、少しは分かるのだろうか?  そんな益体もないことを考えながらマエリベリーは本を開き、しかし、すぐに閉じるのだった。    * 「どう? 本は面白かった?」 「読むだけで一苦労よ。面白いとか面白くないとか、それ以前の問題」 「あらあら」  くすくすと意地悪く笑う紫に、マエリベリーは苦笑を作る。  辞書を探し、目次と格闘し、マヨイガではなくマヨヒガとして書かれていることに気付き、  微妙におかしな言い回しに惑いながら、どうにか読みきったのがつい先日のことだ。  マヨイガについて語られている部分がさして長くなかったことだけがせめてもの救いか。 「でも、あの本のせいで余計に分からなくなったわ」 「あら、それはどうして?」 「だって……」  マヨイガというものは、本の記述を信じるならば、日本の特定地域に伝わる民話であり、 「私の暮らしている辺りには、似たような話なんて全く無いんですもの。これじゃあまるで」 「まるで?」 「……神隠しみたいじゃない。人が、どこか遠くへ放り出されるなんて」  言うか言うまいか少し迷い、しかしマエリベリーは言う。 「ねえ紫。あの境界は、あなたが作ったものなのね?」 「さあ、それはどうかしら」  紫はそう答えたが、マエリベリーは確信していた。  間違いなく、あの境界は紫が設置しておいたものなのだと。  その証拠に、 「どうして紫は、いつも私を出迎えられるの?」 「それはね、メリー。私が物知りだからなの」  だが、問いははぐらかされてしまった。  ……妖怪との会話って、やっぱり難しい。  そんな思いを得た瞬間、 「――あ」  不意にぐらりと体が沈み、 「けれど、そうね。あの境界はもう、閉じてしまいましょうか」  頭上に紫の声を聞きながら、 「次は極東で会いましょう」  マエリベリーが気付いた時、彼女は境界の失せた道に立っていた。    * 「あら。本当に来たのね、メリー」 「ええ。本当に来たわよ、紫」  数ヶ月の後。  マヨイガでの再会は果たされ、今宵もまた月明かりの下、二人は語らう。 「大変だったわよ、色々。手続きとか、言葉とか」 「国境、言葉、文化、そして民族の壁。色々な境界線を越えてきたのね?」 「越えられないものがあるんだけど、それ。特に民族」 「帰化しちゃいなさいな」 「そういう問題?」  相変わらず無茶を言うなあと思いつつ、しかし変わらぬ紫にマエリベリーは安堵していた。  マヨイガへ訪れるだけならば、旅行だけでも事足りる。  だが、紫との継続的なコンタクトを望むのであれば、日本に居を構える必要がある。  ……紫みたいに、境界を操る事が出来れば楽なのだけれど。  しかしそれは無いものねだりでしかない。  あるいは、紫に師事すればそういった能力も得られたのかもしれないが、それをする前に分かたれてしまった。  故に、マエリベリーが取り得た手段は少なく、 「大学の試験なんて、よく通ったわね?」 「頑張ったのよ。……だって、紫みたいに話の出来る手合いって、正直珍しいもの」  最終的には日本の学生となることに決め、それを実現していた。 「メリー……。あなたって、随分と物好きなのね」  紫に言われるまでもなく、何故ここまで熱心になってるのかと自分でも思うマエリベリーではあったが、 「あなたほどじゃないわよ、紫」  京都なんかに入り口作って待ってたヤツには言われたくないなとも思い、しかし、 「ひょっとして、さ」 「?」 「私が京都に来るってところまで、織り込み済みだった?」 「さあ、それはどうかしら?」  ……実は全て紫の手のひらの上なのではなかろうか?  全く思惑の読めぬ笑顔に、そんな邪推さえ浮かんでくるのだった。    * 「ねえ、紫」 「なあに? メリー」 「下らない質問なんだけど……どうして紫は、私のことをメリーって呼ぶの?」  日本にもある程度馴染んできた日のこと。  ぽつりと呟くように、些細な、しかし気になって仕方なかったことを紫に尋ねてみた。 「ひょっとして、気に入らなかった?」 「や、そういうわけでもないんだけど」  問い返されたマエリベリーの胸中で、一人の少女がにんまり人懐っこい笑みを浮かべる。 「大学で知り合った子がね? 何度言っても、私のことをメリー、メリーって呼ぶのよ」 「――そう、そんなことがあったのね」 「その子はこっちの方が呼びやすいから、なんて言ってるんだけど……。じゃあ、紫はどうしてかな、って」 「私もその方が呼びやすいから、かもしれないわよ?」 「……あなた、東洋人じゃないでしょうに」 「うふふふふ」  はぁ、と、マエリベリーは溜息を零す。  もっとも落胆などはしておらず、真面目な答えを期待してもいなかったのが実際のところではあるのだが、  ……あるいは本当に、東洋系の血が流れているのかもしれないけれど。  相手は人ならざるものである。  そのような常識に当てはめたところで測れるはずもないのだと、マエリベリーは痛感した。 「その子、蓮子っていうんだけどね……。メリーって呼ばれた時は本当にびっくりしたわ」 「じゃあ今度、私も大学に紛れ込んでみようかしら」 「いやー、それはやめてもらえるとありがたいかなあー」  意図も目的も、何もかもが不明ではあったが、  ……分からないなら分からないなりに付き合えばいっか。  これがきっと、紫との正しい付き合い方なのだろう。  そう思うことにして、 「あ、そうそう。その子に誘われてサークル活動をする羽目になったんだけどね?」  色々教わった分、私も色々な話を聞かせてあげよう。  何故かそんな気持ちになるマエリベリーだった。    * 「ねえ紫。蓮子もここに連れてきていいかな?」  ある日、マエリベリーは問いかけた。  ここへ他者を連れてきても良いだろうかと。 『時々捕まらないことあるんだけどさ。夜中、何処行ってるの?』 『んー。……実はマヨイガっていうところに――』 『え、マヨヒガ? あの、御家繁盛で有名な?』 『あー、うん。多分、そうだと思うけど』 『……ねぇメリー、そこに私もついていっていいかな? っていうか、ずるいよ、ずっと秘密にしてたなんて』 『えっと……ごめん?』  風呂敷を用意して色々を持ち帰る気満々な辺り、  サークル活動というより空き巣というべきものになるのではないかとマエリベリーは考えていた。  故に、問う。  そんな盗人予備軍をここに連れてきて良いものかと。 「あら、どうしてそんなことを私に聞くの?」 「だってここは紫の私有地……みたいなもの、じゃないの?」 「違うわよ? ここはただの、飼い猫の遊び場ですわ」 「あ、そうなんだ」  じゃあ、問題はない、か。  呟くマエリベリーに、しかし紫が「あ」と声を上げて忠告する。 「もし散策するつもりなら日中にしておきなさいな」 「え? でも紫って、昼は寝てるんじゃ……」 「誰も居ないからこそのマヨイガですもの。そこに誰かが居たんじゃ、ムード台無しでしょう?」 「いや、それは別に――」 「それに、」  気にしないんだけど、と言おうとしたマエリベリーを制し、紫は続ける。 「夜は猫の活動時間ですから。……化け猫の、ね」  紫の指が示す先、屋敷の門へと視線を飛ばせば、闇の中、光を放つ瞳が一対。  それはこちらをじっと見つめていたかと思うと、門の向こう側へと消え、 「無事に帰ることが出来れば富を手にし、帰れなければ餌食となる。それがマヨイガの真の姿」 「え……じゃあ、夜に来るのって本当は……」 「ええ、とても危険なことですわ」  しかし、何者かに見つめられている気配は依然として消えず。  マエリベリーはこの時初めて、マヨイガの本当の恐ろしさを知ったのだった。    * 「うわぁ……。本当にあったんだ、マヨヒガ」 「何よ蓮子、私が嘘をついてるとでも思ってたの?」 「いや、そうじゃなくてさ。地理的な問題だよ、地理的な」 「ああー。まあ、ねえ」  時と人を変え、マエリベリーは再びマヨイガの土を踏みしめていた。  目的はこの場所の――というよりも、ここにある屋敷の探索である。 「民話によれば庭には家畜が居るはずだけど……メリー、見たことある?」 「ううん。いつもはあの辺りまでしか来ないから」 「そっか。じゃあ、あそこは未踏の地ってわけだ」  だったらイーブン、平等ってことにしておいてあげるわ。  おかしなことを嘯く蓮子の後を苦笑しながら追いかけつつ、  しかし何か、落ち着かないものをマエリベリーは感じていた。 「? どうかしたの?」 「いえ、その……なんていうか」  漠然と感じる居心地の悪さ。  声無き声が押し寄せてくるような威圧感。  それはまるで、 「なんか、誰かに見られてるような気がして……」  脳裏に浮かんでくるのは、暗闇に浮かぶ獣の瞳。  紫の言葉を信ずるならば日中は安全ということになるが、それをどこまで信用してよいものか。  マエリベリーの胸中では『もしや』と『しかし』をぐるぐる連ねた不安が湧き上がってきていたが、 「そりゃあ、何かがいなきゃおかしいんじゃない?」 「え?」  蓮子がそれを、一言で切って捨てた。 「だって、誰かが家畜の面倒見なきゃいけないわけだし」 「……不思議空間に常識持ち込むのって、無粋だと思うんだけど」 「学者は神秘のベールをめくってなんぼだよ。……お、紅白の花」  記念に手折っていこうか? と微笑みかけてくる蓮子を思い留まらせつつ、  ……ひょっとして、紫はそのために足を運んでいるのかしら?  いやいやそれは無い無いと、マエリベリーは首を振りつつ屋敷へと踏み込んで行くのだった。    * 「浮かない顔ねえ。何かショックなことでもあったのかしら?」 「ええ、蓮子が肩落としっぱなしでね。……食費が浮くと思ってたみたい」 「現実はそんなに甘くありませんわ」 「だよねえ」  先日の家捜しの後、 『さあさあ、本当にお米は減らないのか否か!?』  マヨイガから持ち帰った椀を掲げた蓮子は、嬉々とした表情で精米の計量を始めたのだが、 『な……、変わって、ない……!?』 『変わってたら変わってたでケチつけるくせに、物理学的に』 『うあーん! メリーがいじめるー!』  米や稗といった穀物が減らなかった……という逸話は再現されず、勝手に失意のどん底へと落ちていったのだ。 「あれは確かに、結構な見物でしたわ」 「え? ひょっとして、見てた?」  問うと、紫は肯定も否定もせず、 「壁に紫、障子にメリー」 「いや、私は普通に見てたし」 「あら、まるで私が普通に見ないみたいな言い草」 「そうとしか見えないんですもの」  ……間違いなく、どこかで見てた。マヨイガで感じた視線も紫のものに違いない。  そんな確信を持たせるような笑みを作るばかりだった。    * 「紫のその力ってさ、正直、すごい便利そうだよね」 「あら、そう?」  この日紫は、空間の裂け目から上半身だけを出し、境界線上に肘を置いてだらけていた。  体調が悪いのか、それとも単に怠けているのかは判然としないが、今ひとつ反応も乗り気ではなく、 「そんなにいいものでもないわよぉ〜、便利すぎるのも味気ないだけだしぃ〜」 「持てる者の驕りとしか思えないんだけど、それ」 「む、今のはちょっと聞き捨てならないわね。そうね、例えば!」 「う、うん」  しかしメリーの言葉に、ずずいと身を乗り出し、語りだした。 「あなたはお友達と旅行へ行くことになりました」 「お友達……って、蓮子のこと?」 「それはご自由に。で、二人で行き先を決め、経路を調べ、荷造りし……、当日、旅行へ出かけることになるわけだけど」  一度そこで言葉を区切り、マエリベリーを見つめる。  数瞬の後、頷き返したのを見た紫は、更に続け、 「さて、メリーさん。ここで問題です」 「そんな羊飼いか都市伝説みたいな……」 「旅行の醍醐味とは、一体何でしょうか?」  問う。  一体どこから出したのか、如何にも見せ付けるように顔付き機関車をからころ転がしながら。  ちらりとそちらに視線をやったマエリベリーは、しかし、 「……旅館の微妙にかたいご飯、とか?」 「そんな醍醐味があってたまりますか。旅程の車窓の景色、友との語らい、その他諸々に決まってるでしょうが」 「なんか逆らいたくなる圧力があったから、つい」  あえて紫の意を汲まず、見当外れな答えを口にした。  紫の言わんとするところを口にすれば、それは紫の持論を肯定することに他ならないからだ。 「天邪鬼。碌な大人にならないわよ?」 「そんな玩具で遊んでる大人に言われたくないかなあ」 「いいのよ、私は。後は優雅な余生を過ごすだけですもの」 「怠惰の間違いだと思う」  不敵な笑みを二人は交わし、奇妙な沈黙が場を満たす。  しばらくからころという音が響いていたが、不意にその音が途絶え、 「あなたが望むなら、きっと私みたいな大人になれるはずよ」  満面の笑みを作りながら、紫は機関車を差し出し、 「お断りします」  その手を押し返しながら、マエリベリーは全力辞退した。 「あら、何処へだって只で行き放題よ?」 「さっきと言ってること変わってるし。でも、そうね……宇宙旅行が出来るっていうなら考えてもいいかな」 「残念。月面旅行が関の山ですわ」 「それも立派な宇宙旅行のような……って、行ったことあるの!?」  夜空に浮かぶ玉兎を肴に、談話はさらなる盛り上がりを見せてゆく。  夜は更ける。  いつ尽きるとも知れぬ、興味と共に。    *  それから暫くの間、マエリベリーと蓮子はサークル活動と称し、あちらこちらへ旅行をして回っていた。  都市伝説の舞台や心霊スポット、有名観光地に鄙びた寒村……  ありとあらゆる曰く付きの場所を巡る旅は、傍からみれば唯遊び歩いているだけであったが、  二人にとっては必ずしもそうではなく、蓮子の言葉を借りるならば、 『先人たちの見聞きしたものを現地で学んでるんだ。言うなれば課外活動』  ということだったらしい。  当然、遊びに現を抜かしていると思われぬためにも学業を疎かにするわけには行かず、 「ゆかりんおひさしぶりー」 「メリーおひさしぶりー。ふぁ〜……」  マエリベリーの足はマヨイガから遠のき、遂には月に一度会うかどうかといった状況になっていた。  ふらりと立ち寄る度に紫が待ち受けていたが、そのことに疑問を抱くのはもはや無粋の領域である。 「目が赤いわね? 寝不足かしら」 「レポートが溜まっててねー……。内容は簡単なんだけど、形式が面倒で面倒で」 「あなたにとっては特にそうでしょうね。母国語ではないわけだし」 「あはは、うん。こればっかりは仕方ないんだけどね」  ふああともう一度欠伸するマエリベリーを、目を弓にして紫は見つめる。 「言語とは――」 「んえ?」  かと思えば、瞼を閉ざして唐突に口を開き、 「人に与えられた、最も越えやすく、埋め難い境目である」 「……何の話?」 「バビルの塔」 「それを言うなら、バベルの塔……」 「その昔、人は一つの言語の下に、その意思を束ねることが出来た」  紫は何かをそらんじるように朗々と語り、マエリベリーは少し引き気味になりつつ姿勢を正した。 「“天まで届く塔を建て、全地に散らされることのないようにしよう”  神はそれを良しとせず、人の用いる言葉を分かち、彼らの心は別たれた。  別れた心は言語と共に、全地へ散らされ行きました」 「でもそれって伝説でしょう? 旧約聖書の」  問いに紫は頷き返し、 「今、この話で重要なところは、異なる言語はそれだけで深い溝を持っているということ」 「それは、まあ」 「では。それらを軽々と超えられるのは、どのような存在かしら?」 「え? えーっと……マルチリンガル!」 「不正解。答えは言語を分かった神よ」 「あぁん」  バッテンと呟きながら、空間の裂け目から取り出した筆でマエリベリーの頬にペケ印を書き記した。 「んでもー、それと私のレポートと、一体何の関係が?」 「あら、まだ分かってない人間なの?」  空いた片手で墨の付いていない頬に触れ、紫は告げる。 「分かった神になりさえすれば、言語の線引きなんて超越出来るということよ」 「――」  一体何を言ってるんだ、こいつは。  そういった表情を一切隠しもせず、マエリベリーは、 「レポート如きで神になれなんて、一体何を言ってるの、紫は」  思ったままを言った。  しかし紫は、穏やかに微笑むだけで反論もせず、ただじっと見つめてくるだけで。 「……さてと、レポートの続きしなきゃ。それじゃ、またね。紫」 「ええ、頑張んなさい」  ……なんか私、悪いこと言っちゃった?  居た堪れない気分になったマエリベリーは、そそくさと退散するのだった。    *  ある満月の夜。  紫は一人、マヨイガで静かに瞑目していた。  辺りには獣の気配も、風すらもなく。  まるで何かを恐れるかのように、空間は停滞していた。 「――時間ね」  だが、彼女が口を開くと同時。  不意に空間が揺らぎ、裂け目を生み、吹き込む風と共に転がり込んでくる姿が二つ。 「う、あ……」 「く……、しっかりして、蓮子……!」  もつれ込むようにして地に臥したのは二人の少女。  うち一人は胸と背に大きな傷を負い、虫の息といった有様である。  素人目に見てもそれは致命傷であり、もう長くはないと分かるほどのものだ。  その体を支えるもう一人の少女は、しかしそれを理解していながらも、縋るべき何かを求め、 「助けて……!」  叫ぶ。  友を救いたい。  ただ、その一心を込めて。 「助けて、紫――!」 「どうかしたのかしら? メリー」  果たして、声は届いた。  境界の妖・八雲紫へと。 「あら。そちらのお嬢さんが蓮子さんかしら? お初にお目にかかります、八雲紫と申しますわ」 「紫! そんなこと言ってる場合じゃないの!」 「……どうして?」  頬に手をあて小首を傾げる仕草に、メリーの感情はこれ以上ないほどに逆撫でされ、しかし、 「早く病院まで連れていかないと、蓮子が、このままだと……」 「死んでしまうのね?」 「っ、……そうよ。だから紫、力を貸して欲しいの。あなたの持つ、何処へでも行ける力を」  努めて冷静さを保ち、要求だけを口にする。  それ以外の、感情的な言葉を喉の奥に押し込めて。 「それは別に良いのだけれど。メリー、あなた本気なの?」 「何が?」 「あなたにも見えてるはずよ? 蓮子がもう、生と死の境を」 「――うるさいっ!」  が、悠然と喋り始める紫に、遂にマエリベリーの感情が言葉となって爆ぜた。 「お願いだから、四の五の言わずに、さっさと空間を繋げてよ!」 「助からないわよ?」 「助けるわよ!」 「どうやって?」 「どうもこうもない!」 「神でさえ、黄泉返らせることは出来なかったというのに」 「知ったことじゃない! それに、蓮子はまだ死んでない!」 「けれど、死ぬ」 「死なせない! もし、蓮子が死ぬというのなら――」  瞳を射抜かんばかりの意思を込め、宣言する。 「腕を引っ張ってでも、こっちに連れ戻すわ!」 「……そう」  ふう、と溜息を吐き、紫は瞼を閉じる。 「分かりました。覚悟があると言うならば、私が道をつけましょう。そして」 「――あ」  再び瞼が持ち上げられると同時、マエリベリーは地面の消失を感じた。  いつかの別れと同様、支えを失った体は傾き、 「情で道理を曲げたなら、只では済まぬと知りなさい。……高い買い物になるわよ」  もう二度と、この地を踏むことはないのだろう。  マエリベリーは、心のどこかでそう感じながら落ちていった。    * 「……はぁぁ〜」  二人を送り出し、見届けた後、八雲紫は長く息を吐きながら地べたに座り込んだ。 「あーもう、なんだってこうなるのよぉ〜……」  問い掛ける相手もなく、問わずとも答えは知れて。  八雲紫の干渉によって宇佐見蓮子は一命をとりとめ、マエリベリー・ハーンは人ならざるものとなり、  現世を追われた一人の少女は、全てを悟り紫となった。  因果なものだと、紫は思う。  これを始めた最初の自分は、一体何を思い、このようなことを始めたのかと。  蓮子を救いたいと思うのならば、過去の自分に干渉しないか、同じことを繰り返すしか無い。  そして紫が干渉せずに居られなかったのは、  ……蓮子には、私のことを覚えていてもらいたかったから。  化生となって、なお引き摺り続けた感傷の為だろう。  しかし如何な八雲紫とて、理性と感情の折り合いをつけられぬこともある。  そして今が、まさにその時だった。  頭を抱えたかと思えば地面を叩き、転がりながら地団太を踏み、何度もそれを繰り返し――  やがて気が済んだのか、土埃にまみれたままスックと立ち上がり、 「酒でも呑まなきゃやってらんないわね……!」  堅く拳を握り、天を睨んだ。  所謂、ヤケ酒である。  そんな紫の挙動に、腫れ物を触るがごとく停滞していたマヨイガも普段の静けさを取り戻し始め、しかし、 「晩酌、付き合おうか?」 「へ?」  思わぬ客人までもが、風と共に現れた。    * 「えっ? なっ、ええ?」 「どうした?」 「ええーっと……もしかして、蓮子?」 「いえす、あいあーむ。久しぶり、メリー」  帽子を脱ぎ、胸元に当てながら仰々しくお辞儀をする。  服装や帽子の傷、纏う雰囲気から始まり目元口元の小皺の数まで、  紫の記憶にある人物像とは異なる点はあれこれと散見されたが――  だがそれは見紛うことなく宇佐見蓮子であり、彼女にとっての数少ない親友であった。 「それともあの時名乗られた通り、八雲紫、と呼んだ方がいいのかな?」 「あ、えっと……。んんっ、コホン。あなたが呼びやすい方でよろしくてよ、蓮子さん」 「そんな格好でカッコつけても無駄だよ? 埃まみれ」 「あっ、やだっ!」  指摘された瞬間、紫は消えた。  それから数分後、再び姿を現した紫はすっかり新しい服に着替えており、 「先ほどは見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでしたわ。では改めて、私の名前は」 「マエリベリー・ハーン、渾名はメリー。でしょ?」 「むぐ……」  威厳たっぷりに仕切り直そうとしたが、失敗に終わった。 「……はぁ。渾名って言ったって、蓮子が勝手にそう呼んでただけでしょ」 「だって言いにくいじゃん、マエリベリーって」 「言えてるじゃない。今、現実に」 「頑張って言えるようになったんだよ。お前を探して三千里、ってな具合だったからな」  からからと笑いながら告げられた言葉に、紫はぽかんと口を開く。 「虫が入るよ?」 「あ、うん。……って、そうじゃなくって!」  頤を持ち上げるように閉じられた口を再度開き、噛み付いた。 「なんで蓮子がここに居るのよ!」 「なんでって、そりゃあメリーがここに居るからに決まってるじゃない」 「え、そうなの? ……じゃなくってー!」  ……ああもう、嬉しいなあ!  内心では悶えつつ、努めてそれを表に出さぬよう平静を装う。 「私が聞きたかったのはどうやって、ということ。あなた、この時代の蓮子じゃないでしょう?」 「ん? ああ、そりゃ今の私は絶賛死にかけ中なワケだし」 「そんな、あっさり」 「これでも一応学者なもんで。それでだな、どうやってここまで来たかと言うと……」  息を呑み答えを待つ紫の前で、蓮子は目深に帽子を被りなおし、つばをクイと掴んで気障に言った。 「すべては恋のしわざ、だな」 「答えになってなーい!」 「おお、マエリベリー……お前は私の胸に傷だけを残して消えてしまったー。あと背中にも」 「むぐ」 「ま、そんなワケで嫁の貰い手も無くてな。何より、忘れろって方が無理ってもんだ」 「う……それは、ごめん」 「あぁ、別に責めてるんじゃないよ。サークル活動だって私が言い出したもんだし。で、も。」  ずずいと迫る蓮子。  気圧されるように仰け反りながら、間近に寄せられた瞳と唇を見つめ、紫は硬直する。 「勝手に抜けるのは、ルール違反だと思わない?」 「いや、あの、それは……」 「んん〜?」 「……ごめんなさい」 「よしよし」  頭を帽子ごと撫でくり回し、ようやく身を離し、さて、と蓮子は伸びをした。  その背を見つめ、紫は嬉しいような、哀しいような、複雑な表情を作る。 「けれどこれにて、秘封倶楽部は正式に解散、かしら」  勝手に消えたマエリベリーを追いかけて、宙ぶらりんな状態にケリをつけに来たのだろう。  それに、傷物にしてしまったのだ。今更親友面もあるまい――  出来ればひと思いにやって欲しいなと考えながら、紫は沈んだ声で呟く。だが、 「ん? 何言ってるの、メリー?」 「……え?」  鬱々とした思考は、いつもの調子で軽く一蹴された。 「これからお酒、呑むんでしょ?」 「えーっと……」  胸中を省みても、ヤケ酒を呷りたい気分は既に消えていた。  あるいは蓮子がこのまま去ると言うのならば、そんな気分もぶり返すかもしれないが、 「ほらほら。呑みに行かなきゃ、お酒は来てくれないよ」 「え、あ、ちょっと」  ……まあ、再会を祝って乾杯ってのも、いいかな。  今は意味も無く駆け出したくなるような心地が、掴まれた指先から湧き上がってきていた。 「もう、強引なんだから」 「そうでもしないとふらっと消えちまうかもしれないからな、お前は」  笑いながら振り返り、蓮子は告げる。 「今度は絶対、離してやらないからな」 「ふふ。期待してるわ、蓮子」  そうして残った二人も去り、マヨイガには誰も居なくなった。