その地には守護者が住んでいた。
 長い永い時の中、人々の営みを見守り続けてきた、一人の女性が。
 名を、上白沢慧音という。



「ういーっす。邪魔するよ、慧音」
「ん……」

 戸板をガタガタと鳴らしながら、藤原妹紅は内にいるであろう相手に声をかけた。

 ――油を差してやらねばならぬだろうか?

 そんなことを、妹紅は考える。
 滑りが悪ければ閉じるも開くも時間がかかるし、何より力が必要となる。
 加えて冬の冷たい風は体に毒であるから、彼女がそのように考えたのは至極当然のことだっただろう。

「やあ、妹紅」

 それを迎える慧音は布団から上半身を起こした格好で、今まさに起きたところといった様子である。
 着ているものも寝巻きのままであるから、恐らくはその通りなのだろう。

「ん、寝てたか? 五月蝿くして起こしたようなら、済まん」
「いや。することもないし、横になっていただけさ」

 頬にかかる髪を手櫛で梳く姿に、妹紅は少しばかりの罪悪感と、少なからぬ無力感を覚えていた。

「どれ、茶でも淹れようか」
「ああ待て待て、そのくらい私がする」

 布団から這い出ようとする慧音を制し、妹紅は急いで上り框を飛び越える。
 そうして上がりこんだ家の中、もう昼になるというのに空気は未だ冷たく、

「……慧音。お前、朝メシちゃんと食ったか?」
「妹紅、女の子がそんな言葉遣いを……」
「食ってないんだな?」
「……うん」

 それはつまり、慧音が今の今まで眠っていたということの証左でもあった。

「そんなことだろうとは思ってたが、全く……」

 うなだれる慧音の姿に、妹紅は溜息一つ。
 しかしすぐに気を取り直し、腕まくりをすると、

「少し時間かかるけど、粥でいいか?」
「ああ。そのくらいがありがたい」
「分かった。それじゃ、台所借りるぜ」

 冷えた空気を肩で切りながら、調理場へと向かうのだった。



 慧音は、老いた。
 聖獣・妖獣の類であれば今以って衰えることなく、むしろその力は高まってすらいただろう。
 だが彼女は半獣……それも後天的に、そうなった存在に過ぎない。
 歳と共に老いさらばえるのは必然だったのだろう。
 詰まるところ、上白沢慧音は、あまりにも人間過ぎたのだ。

「この歳にもなって、人に世話をしてもらう破目になるとはなあ」
「そんな歳だから、の間違いだろ? ったく」
「ははは。私より年上のお前が、それを言うか」

 そう言って笑い合う二人の髪は、どちらも白い。
 一方の髪は艶を持ち、ともすれば銀に見えるが、もう一方は痩せ衰え、乾ききっている。
 無論それは、両者の外見にも表れている。

「……ありがとう、妹紅」
「なんだよ、藪から棒に」

 不意に妹紅の手を取り、慧音が言った。
 枯れ枝のように頼りないその手を握り返して、妹紅は問う。

「別に、このくらい、礼を言われるようなことじゃないだろ」
「いいじゃないか。言われて減るもんでもなし」
「薄れるんだよ、ありがたみが」

 そっぽを向いて呟く妹紅に、慧音は微笑む。
 面倒を見てくれてありがとう。
 そのような意味も多少は含まれていただろう。
 だが、それだけではないことに、そこに込められた万感の思いに、妹紅は気付いていた。

 果たしてどれだけ、祝福と哀悼を繰り返してきただろうか?
 新たな命の誕生を、旧知の友の永眠を、同胞たちの営みを。
 人は、泣きながら生まれ、笑いながら死んでゆく。
 少なくとも、彼女らが見守ってきた者たちは、そうだった。

 故に妹紅は、微笑むなと叫びたかった。
 死に逝く者の笑みなど、どうか浮かべてくれるなと。






「妹紅。済まないが、一つ、頼まれごとをしてくれないか?」
「ん? なんだい、そんなに畏まって」

 時は少し遡る。
 慧音がまだ、守護者としての役を果たせていた頃のことだ。

「最近、夜の見回りが大儀になってきてな。ちょいとばかし手伝ってもらいたいんだ」
「なんだ、そんなことか。任せときなって、お安い御用さ」
「……ありがとう、妹紅」
「いいっていいって。何なら、全部受け持ってやろうか?」
「それはとても魅力的だが……怠けてたんじゃ、お天道様に顔向け出来ないからね」

 けれど、辛くなったらその時は、と。
 互いに笑い合いながら、そんな言葉を交わした。



 果たしてその時は、思いのほか早く訪れた。
 慧音が流行り病を患ったのだ。

「おい、馬鹿。メシが出来たぞ。食え」
「妹紅……。お前は女の子なんだから、もっと言葉を選んで」
「馬鹿に説教される筋合いはない」
「むう」

 正確には、里に流行した病を慧音が喰らい、代償として、病毒に冒された。
 その甲斐あって、里の者たちは恙無く暮らせているが、

『慧音様のお加減は、どうでしょうか?』
『これ、お見舞いです。どうか慧音様に渡してくださいまし』

 とまあ、慧音が自発的に行ったこととは言え、多くの者は、やはり気に病んでいた。
 だが、自らが見舞いに赴き、患えば、慧音の行いが水泡に帰してしまうのもまた事実。
 ならばせめてと、皆は妹紅に思いを託した。

「ったく。よくもまあ、今までそんなやり方で体がもってたもんだ」
「まだまだ頑張れると思ってたんだがなあ。年寄りの冷や水だったらしい」
「それが分かったんなら、もう、無理はするなよ。今はアイツんとこの薬師だって居るんだからさ」

 言葉と共に押し付けられたのは、小さな巾着袋だった。

「薬、貰ってきたヤツ。後でちゃんと飲んどけよ」
「ん……ありがとう」

 手をひらひらとさせて応える妹紅を、変わったな、と慧音は思う。
 以前の妹紅は、あまり人と関わろうとしなかった。
 恐らくは、彼女が不死であるが故に。
 それが、今はどうだ?
 慧音のために仇敵の従者を頼り、薬を貰い受けてきたではないか。

 妹紅は変わった。
 誰かの幸せを願うことが出来るようになった。
 ただ、仇敵を殺すことだけを考えていた少女は、今はもう居ないのだ、と。

 そして、ならば、と慧音は思う。
 今の妹紅ならば、人を、この里を、守り抜いてくれるのではないか、と。

 この期に及んで尚、慧音は他人のことばかり案じていたことを、妹紅はまだ知らない。



 それから少ししたある日の朝、妹紅は里の様子に違和感を抱いた。
 誰も妹紅に、慧音の様子を尋ねなかったのだ。
 無視をされている気配はなく、むしろ挨拶は向こうからしてくれる。
 全てはいつも通り。
 だからこそ、違和感を覚えた。

「起きてるかー、慧音」
「ん……、妹紅か。おはよう」
「珍しいな。慧音がこんな時間まで寝てるなんて」
 
 皆の問い掛けは、純粋に慧音を慮ってのものだったのだろう。
 妹紅もそれは理解していた。
 そこに妹紅を責める色合いなど、含まれていなかったことは。
 だが、誰に問われるたび、他の誰でもない、妹紅自身が己の無力を責めていた。
 故に、

 ――或いは、皆は全てを己に託してくれたのかもしれない。

 この時はそう結論付けて、目を逸らしてしまった。
 正常であるという異常に、気が付いていながら。



 さらに異常が際立ったのは、翌朝のことだ。

『あ、妹紅様。もうお体はよろしいのですか?』
「……は?」
『え? 私、何かおかしなこと、言い――……あれ?』

 不死の身が病など患わぬことは、皆が知っているはずなのに。

『えっと……御免なさい、変なこと言いました。妹紅様はご病気なんて、なされませんよね』

 妹紅を見かけた者たちは、その悉くが、妹紅の身を案じたのだ。
 まるで話している相手が、慧音であるかのように。

 そうして妹紅は、ようやく気付いた。
 気付かなかった振りを、やめた。

 天を仰げば、そこには月も星も無く、ただ太陽だけが燦々と輝いている。
 だが妹紅の脳裡には、確かにそれが見えていた。
 まあるいまあるい、十五夜の月が。
 歴史を創る、半獣の姿が。

 刹那湧き上がった感情を、果たして何と呼ぶべきか?
 理性がそれに名を付けた瞬間、しかし妹紅は戸惑った。
 それは無二の親友に対し初めて抱いた、殺意にも似た憤りだったのだから。



「慧音!!」

 激しく打ち付けるように、戸板が開かれる。
 だが、開かれた空隙から入り込んだものは冬の冷気などではなく、

「やあ、妹紅」

 怒りに震える、業火の化身だった。

「お前は何を考えているんだ」
「ふざけるのも大概にしろ」
「生きてるうちから腑分けなんて御免だ」

 慧音に浴びせられた言葉は、おおよそそんなところだったろうか。
 叫び、喚き、胸を掻き毟りながら、妹紅は慟哭した。
 文字通り、思いの丈をぶつけるために。
 それを受ける慧音は反駁する様子すら見せず、ただ静かに、耳を傾け続ける。
 妹紅の、一言一句を逃すまいとするかのように。

 やがて妹紅は心の裡を吐露し終え、若干の落ち着きを取り戻した。
 それを見て取ったのだろう、
 慧音は此処に至って、ようやく口を開いたのだった。

「なあ、妹紅。……人を、里を、守ってはもらえないか?」
「なっ――」

 紡がれたのは弁明ではなく、願い。
 お前に全てを託しても良いかと問う、切実な嘆願だった。

「馬鹿、言うな! 守るのは、慧音の務めだろうが!」
「こんな形になってしまって、本当に済まないと思っているよ、妹紅。でも、頼める相手は、お前しかいなかった」
「ひ、人の話を……っ!」
「大丈夫、お前ならやれるさ」

 床に叩き付けられた妹紅の手を、慧音の細い皺だらけの指が、そっと覆った。

 病を患った身で歴史を喰い、その間隙に新たな歴史をねじ込む。
 どれだけの覚悟のもとに、どれだけの代償が支払われたのか。
 想像することさえ出来ぬはずの妹紅は、しかし、触れ合った指先に、気付いてしまった。
 支払われたものが、慧音自身の命であることに。



 それからというもの、妹紅はただ甲斐甲斐しく、慧音の世話を焼き続けた。
 慧音の余命は幾許もない。
 なれば、より多くの時間を友の為に捧げたいと、彼女は思ったのだろう。
 それでも住処を共にしなかったのは、慧音の愛した日常を守るためか、それとも最後の意地か。

「ういーっす。邪魔するよ、慧音」
「ん……。やあ、妹紅」

 愚直に、一途に。
 誰一人、他に訪れる者のない家で。
 穏やかな日々を、二人は過ごしていった。



 そうして、慧音は。
 人を愛し、守り続けた守護者は。
 たった一人、最愛の友に看取られながら、永劫の眠りに就いた。



 不死の炎に舞い上げられ、高く、高くへ灰は行く。
 後には何も残さずに。
 骨の欠片も残さずに。



 慧音が背負っていたものは、その全てが妹紅の手に委ねられた。
 形あるもの、形なきもの。
 それら一切合財が。

 逆に言えば、慧音は何も持っていかなかった。
 思い出も、絆も、誰かの悼みでさえも。

 ……否。
 他者の背負うべき痛みだけを、彼女は持っていってしまった。
 ただ一人。
 妹紅にだけは、全てを残して。






 ――その地には守護者が住んでいる。
 長い永い時の中、人々の営みを見守り続ける、一人の女性が。
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