月見をするにはいささか気の早い晩夏。
悪魔と魔女は月明かりの下、テラスで優雅にお茶会を開いていた。
「今夜の月は丸くて綺麗だわ。パチェもそう思うでしょ?」
「そうね……。少し風があれば、もっと良かったのだけれど」
傍らに控えるのは銀髪のメイド長と二匹の妖精。
静かに佇むメイド長とは対照的に、妖精たちはどこか落ち着きなくそわそわしている。
それもそのはずだった。
茶会のために供された紅茶は、彼女ら妖精メイドが淹れたものなのだから。
「……ふむ。今日のお茶は、そこそこ悪くないわね。まだまだだけれど」
「申し訳ありません。未だ至らぬところばかりで」
主の言葉にメイド長が頭を下げると、左右の妖精たちも慌てて頭を下げる。
妖精に理論を説いたところで、それは多くの場合、意味を成さない。
ならば形から入るべしと、自身の行動に順じるように教育を施した成果である。
「形になってるだけで奇跡だと思うけどね。正直、こいつらを使えてる時点で驚きだわ」
「それはもう、血の滲むような努力をしていますから」
魔女の言葉にメイド長が胸を張ると、妖精たちもエヘンと胸を張った。
これは教育の賜物ではなく、調子に乗っているだけである。
「……妖精に滲むような血があるのか?」
「試してみる?」
その姿をちらと見て、吸血鬼と魔女が意地悪く笑う。
妖精たちは調子に乗ったことを一瞬にして後悔し、萎縮する。
同時に『長よ我らを助け給え』という思いを込めて、つぶらな瞳でメイド長を見上げた。
が、そんな二匹を一顧だにせず、メイド長は言い放つ。
「そういった行為は是非、粗相をした時にお願いします。お仕置きの手間が省けますから」
擁護の要素など微塵も含まぬ、理にかなった提案だった。
『嗚呼、この世に神は居ないのか!』
妖精メイドたちはひしと抱き合い、天を仰ぐ。
無論、彼女らに救いの手を差し伸べるような神は居ない。
居たとしても、この館には訪れることなどないのだろう。
何故ならここは、悪魔の棲まう湖上の館――紅魔館なのだから。
「まあ、この話題はまた今度でいいんじゃない? 論じるべき本題は別にあるわけだし」
「それもそうだ」
「では、怠けているメイドは見かけ次第……ということで」
妖精たちをチラ見して、三人はうふふと笑った。
恐怖の視線に怯えながら、二匹は誓う。
お仕置きを受けないためにも、自分たちだけは真面目に働こうと。
とはいえ、記憶媒体が妖精の頭である。
誓いを立てたところで、寝て起きれば忘れてしまうのがオチだった。
「ねえ咲夜。試しに今ここでサボってみない?」
「あら。私は人間ですわよ?」
「今は幽霊でしょ」
「では元・人間ということで」
「幽霊の血は何色なんだろうねぇ」
暢気に脱線しながら、少女たちは茶会を楽しむ。
その姿が少しだけ浮かれて見えるのは、空に浮かぶ満月のせいかもしれない。
「そういえば死神が来ていたけど、あいつの血はどんな味がするのかな?」
「いけません、お嬢様。あれは肥え太っていますから、きっとお体に障ります」
「……肥えてて死神が勤まるものなの?」
「多分、胸の贅肉のことだろうさ」
「ああ……贅沢な肉」
「不要な肉、不肉ですわ」
「腐肉じゃあるまいし」
ひどい言われようである。
「腐肉――そうだ咲夜。折角だし、この機会にグールにでもなってみない?」
「いえ、アンデッドはちょっと……」
「食屍鬼か。私の親戚みたいなもんだな」
「パチュリー様、グールになるにはどうすれば?」
「お墓が必要ね。それから肉体と、精霊と」
「ああ、それじゃあダメだ。体は灰になっちゃったから」
「……レミィ。あなたまさか、カント寺院にでも持ち込んだの?」
「いや。夏場にナマモノは危ないかなと思って」
「あらら、残念ですわ」
どこまでが本気なのか、傍から見ている妖精たちには分からない。
悪魔と魔女、そして元・人間。
三人が繰り広げる奇怪な会話に加われない彼女らに出来るのは、目をつけられぬよう慎重に給仕をすることだけなのだった。
* * *
ある日の夕方のことだ。
咲夜が眠りから覚めると、どうにも体の調子がおかしいことに気付いた。
重力から解き放たれたのではないかと思うほどに、体が軽かったのだ。
はて、一体これはどうしたことか。
首を捻りベッドを振り返ってみれば、そこには横たわる自分の姿。
「あらまあ」
咲夜は絶命し、おまけに自縛霊化していた。
死因については一切が不明……というよりも、意味がないので誰も調べなかった。
「おお、咲夜よ。死んでしまうとは情けない。……色々言いたいことはあるけど、とりあえずお茶の用意よろしく」
「咲夜が自縛霊になったって? それは大変だわ。早く新しい買出し担当を決めないと」
悪魔にとっても魔女にとっても、死者の霊とは親しむべき存在である。
とはいえ、メイド長の突然死という事実は彼女らにもそれなりの衝撃をもたらしていた。
だが、死亡した当の本人が何食わぬ顔で給仕をしていたのだ。
感傷に浸る暇も何もあったものではない。
「大変です、お嬢様」
「どうしたの? 咲夜」
「お湯が冷水になるせいで、碌な紅茶が淹れられなくなってしまいました」
「……なるほど。確かに見事なアイスティー」
「急ぎ妖精たちを躾けますが……その間の紅茶は如何いたしましょうか?」
「夏だしアイスでもいいんだけどねぇ。ま、駄目出ししてやるから、淹れさせて持ってきて頂戴」
「畏まりました」
幽霊デビュー当日の会話がこれである。
もとより人間離れしたところがあった咲夜だが、肉体を失ったことでより一層の人間離れが進んだのかもしれない。
「咲夜もどこぞの亡霊みたいに食い道楽になるのかしら? 備蓄が心配だわ」
加えて言うならば、パチュリーはパチュリーで少しズレた心配をしていた。
* * *
ともあれ、咲夜の働きぶりは自縛霊になっても相変わらずであったため、紅魔館の日常に大きな変化は起こらなかった。
死神がやって来る、その日までは。
「や。久しぶり」
「あら、いつぞやの死神さん。こんな避暑地に来るなんて、やっぱり今日もサボタージュ?」
「いやいや、今日は仕事をしに……いや、休憩だって仕事のうちなんだけどね」
「そんなこと言って、ちゃんとお仕事しないと閻魔様に怒られますよ」
「怒られたから来たんだけどね……。しっかしまあ、アンタは死んでも忙しいんだねぇ」
「メイドですから」
「あたいにゃ一生無理そうだねぇ」
「それはまあ、そうでしょう」
死神・小野塚小町が紅魔館に乗り込んできた理由を、咲夜は違えることなく理解していた。
小町の受け持った仕事とは、妖怪退治でも、ましてや人を殺すことでもない。
死者の魂を舟に乗せ、三途の川を渡すことだ。
そして今ここには、死してなお自縛霊となり、働き続けるメイドが一人。
「素直に付いて来ちゃ……くれないよねえ、やっぱり」
「それはもう」
「実力行使は苦手なんだけどなぁ」
「荒事でしたら、外に出てからの方がありがたいのですが」
「ああ、構わないよ。下手に荒らして、後で恨まれても夢見が悪いしね」
「どうせならそのままお帰りいただいても」
「いやいや、それじゃまた映姫様に叱られちまう」
小町と共に玄関を抜けた咲夜は、地面に倒れ臥した門番を認め、嘆息した。
期待はしてなかったけどね、と言わんばかりである。
「あんな長物相手に素手で勝てるわけないじゃないですかぁ!」
それが、後に語られた美鈴の言い分である。
「さてと。ここなら無駄に広いし、問題なさそうだね」
「ええ。お手数をお掛けして申し訳ありません」
「そう思うんだったら大人しく付いて来て欲しいんだけどなあ」
「残念ながら、手ぶらでお引取り願うことになるかと」
銀のナイフと大きな鎌。
それぞれの得物と不敵な笑みを携え、青空の下で二人は戦いを繰り広げる。
時間を操る能力と、距離を操る能力。
似通った力を持つ二人にとって、互いの能力は絶対的なアドバンテージとは成り得ない。
故に咲夜は、時を狂わせ手数を重ねる。
故に小町は、距離を狂わせ必殺を狙う。
「やっぱりあんたと戦うのは面倒くさいねえ」
「お互い様」
幾度となく繰り出される白刃の応酬は、常人には到底理解出来ぬ領域にあった。
それほどに二人の戦いは常識離れしていたのだ。
「もう少し人間らしい戦い方をしてみるつもりはないかい?」
「冗談」
「だよねえ。全く、死神も楽じゃない」
軽口は剣戟に紛れて消える。
死線にありながら笑みさえ浮かべるその表情は、傍から見れば戯れているようにも見えただろう。
だからかもしれない。
「きゃん!」
「っ!?」
館より飛来した紅の槍が小町を吹き飛ばし、
「カチカチカチカチ五月蝿い……。咲夜も、何を遊んでるの……」
「っ、申し訳ありませんお嬢様。すぐに片を付けますので」
穿たれた穴から覗く一対の瞳が、咲夜を射竦めたのは。
* * *
「2対1じゃ分が悪いからね、今日のところは引き上げてやるよ!」
「もう来なくていいから、さっさと帰れ」
安眠を妨害され不機嫌最高潮なレミリアの登場により、小町はすごすごと退散していった。
「だけどこれで勝ったと思うなよぅ! これからも第二、第三のあたいが……きゃん!」
「ぴいぴい喚くな、小娘が」
力ずくで追い払われたとも言う。
「で、なんであんなのと真昼間から遊んでたのよ」
「どうやら私を彼岸に連れて行くつもりだったようですが」
「……ああそうか。咲夜、死んでたんだ」
寝起きで頭が回っていなかっただけなのか、それとも本気で忘れていたのか。
真相は定かではない。
* * *
「くぁ〜……」
「随分眠たそうですね」
「んん……まあね」
それから一週間。
度重なる襲撃は、この日四度目を数えていた。
その都度沸き起こる騒音に生活を乱されたレミリアは、不機嫌むき出しで呟く。
「うーむ、仕方ない。少し癪だけど、対策でも練るか」
「対策ですか」
「労働時間は知らんが、昼間しか働かない死神なんだろう? ったく。そんな時間に暴れられちゃ、ぐっすり眠ることすらできない」
「あれは昼間でも働かない死神ですけどね」
かくして、紅魔館の平穏とレミリアの安眠を守るため、
動かない大図書館を交えた対策会議という名の茶会が開かれるに至ったのだった。
* * *
「そもそも、侵入を許されなければ問題はないのよね」
「パチュリー様、美鈴にそれを期待するのは少々酷かと……」
「分かってるよ。距離を操るっていうのなら、リーチの差で一方的に不利だろうし」
「んじゃあ、門番に何か武器でも持たせてやりゃあいいんじゃない? 青龍刀とか、石柱とか」
「一応その辺りも試させてみましたが、どうにも相性が良くないようで」
「鎌と?」
「いえ、美鈴とです」
「……まぁ、拳法バカ一代だしなぁ。付け焼刃じゃどうしようもないか」
東の空が白み始める頃になって、会議はようやく本題へ。
順当に挙げられた第一の案『門前払い』は、悲しいかな、即刻廃案となった。
「となると、次の日中は出入り口を封鎖する方法ね」
「私はやだよ。それじゃあまるで、死神ごときに怯えてるみたいじゃないか」
「まあ、レミィならそう言うか。咲夜は?」
「是非もありません。お嬢様の意に反することは、私の望むところではありませんから」
「まあ、咲夜ならそう言うか」
続いて第二の案『出入り禁止』も即座に廃案。
「えーっと、後は死神をどうにかするか、閻魔を黙らせるか……」
「咲夜を引き渡すか、くらいしか無いか」
言い淀んだ先を、レミリアが継ぎ足した。
「……まあ、そういうことになるわね」
喋り疲れたのか、パチュリーはカップに口を付ける。
紅茶はとうに生温くなっていた。
「正直、閻魔はどうしようもないと思う」
「だろうね。頭の固さだけが取り得みたいな連中だし」
「そうなると、その下で働く死神も多分」
「……ったく、めんどっちい連中だねえ」
レミリアは溜息を吐き、不機嫌そうに頭を掻く。
「申し訳ありません。お嬢様。私がうっかり死んでしまったせいで、このようなことに」
「言っても詮無いことよ。どうせいつかは死んでたわけだし、早いか遅いかの問題よ」
「……」
主の言葉とは言え、咲夜が「はいそうですね」などと答えられるはずもない。
風のない湖上の館が、静寂に包まれる。
「……咲夜は、どうして化けて出てきたのかしら」
「ん? 何の話だい?」
それを嫌ってか、不意にパチュリーが口を開いた。
「人が死を迎えた時、三途の川や冥界へと辿りつくのが普通。けれど咲夜は」
「自縛霊になって出てきた、と。……ああ、未練の話か」
「ええ、そういうこと」
「そうだねぇ。咲夜のことだし、やり残した仕事が心残りで――とかいうのは?」
「だったらもう、消えててもおかしくはないわね」
「んじゃハズレだ」
幽霊となった今でも、咲夜は現役バリバリのメイドとして働き続けていた。
故に、茶坊主に任命された哀れな妖精メイド以外は、今もって奔放な働きぶりである。
「美味しい紅茶を飲ませるために、なんてのは?」
「だとすれば咲夜が成仏する日も近いわね」
「いやいや、まだまだ先の話だよ」
「存じ上げております」
「ああいや、今のは別に責めてるわけじゃなく」
「ふふ、それも存じ上げております」
「からかわれてるわね」
「うー」
妖精メイドたちはこちらに矛先が向くのではと怯えたが、それは杞憂に終わった。
簡単に及第点が与えられるほど甘くはないことを、誰もが理解していたからだ。
「ま、本人が居るんだから、直截聞けばいい話なんだけど」
「まーねー……」
「っていうか、レミィ。あなた、とっくに気付いてるんでしょ?」
「……」
問いには答えず、レミリアはティースプーンをもてあそぶ。
「未練を晴らすにしても、道理を曲げるにしても、私にできるのはこうしてお茶の相手をするくらいなものよ」
「ああ、わかってるさ。……わかってる」
深く、溜息を吐いて、天を仰ぐ。
あんなにも輝いていた月は、今はもう、薄っすらとしか見えなくなっていた。
* * *
『主の許し無くして、職責を放棄することあたわず』
それこそが十六夜咲夜をこの世に縛り付けた鎖である。
死してなお消えぬ忠義が、彼女を自縛霊たらしめたのだ。
咲夜をよく知る者であれば、ましてや主であるレミリアが、それに気付かぬはずもない。
「咲夜、あなたは……」
「はい?」
「――いえ。何でもないわ」
レミリアは、思う。
これほどの忠義心をもって仕える従者など、後にも先にも咲夜一人だろうと。
手放したくない――それが素直な気持ちだった。
だが、真に主足らんとするならば、そのような弱音を吐けるわけもなく。
「……寝る」
「畏まりました」
結局、かけるべき言葉を見出すよりも、寝室に辿り着く方が早かった。
寝台に身を投げ出しては見るものの、眠気は全く訪れない。
「……はぁ。全く、私らしくもない」
眠れぬ朝を一人悶々と過ごす。
対策など練るまでもなく、迎えるべき結末は見えていた。
ただ、気持ちに折り合いがつかなかっただけで。
「先が読めるってのも、考え物ね」
だけど、もう逃げない。
空を掻いていた手を握り締め、レミリアはそう決意した。
* * *
「やっば〜……。こりゃ来るタイミング間違えたかな?」
その日の昼。
門番を軽く叩きのめし、小町は五度目になる侵入を果たしていた。
だが、玄関ロビーで彼女を待ち構えていたは館の主・レミリア。
傍らには咲夜まで控えている。
「えぇと……昼更かしは体に毒? ですよ」
「誰のせいでこんな時間に目が覚めたと思ってるのよ」
「あー、あはははは……。ですよねー」
これまで三度に渡って行われてきた襲撃は、しかしその全てがレミリアの一撃により失敗に終わっていた。
小町にとってレミリアの登場とは、即ち失敗を意味しているのである。
「……それじゃ、あたいはこれで!」
恐るべき吸血鬼と、恐るべき上司。
刹那主義な小町の天秤は、素晴らしい勢いで眼前の鬼に傾いた。
三十六計逃げるに如かず。
即座に身を翻し、脱兎の如き逃走を開始する小町。
「待て。あんたに一つ、言っておくことがある」
だが、意外にもその背に投げ掛けられたのは問答無用の一撃ではなく、
「あんた、もうウチに来なくていいから」
問答無用の一言だった。
* * *
「失礼します、お嬢様」
「ああ、来たか」
話があるから、後で自室に来るように――
夕食の際に受けた呼び出しに応じ、咲夜は主の居室へと赴いていた。
「とりあえずそこ、座りなよ」
「いえ、お話なら立ったままでも」
「こいつの相手をして貰うんだ。立ったままじゃ落ち着かないだろう」
咲夜の言葉を遮り、レミリアは深緑のボトルを掲げる。
ラベルは無いが、日の光を遮るその色は、ワイン瓶に見えた。
「ワインですか」
「いや、ただのぶどうジュース」
「グラスはワイン用ですのに」
「これもひとつの形式美さ」
それに、酒を呑みながらするような話でもないしね――
呟きと共に杯を満たすレミリア。
咲夜も咲夜で「形式美なら仕方ありませんわね」などと頷いて見せる。
「……これ、本当にぶどうジュースですか? それにしては透明すぎるような」
グラスを受け取った時、咲夜はひとつの疑問を得た。
果たしてこれは、本当にぶどうジュースなのだろうか――と。
理由は、透き通った赤の色。
外見だけで判断すれば、それは紅茶やアセロラジュースにも見えた。
「あー、頭に山がついてたかも? 色が気に入ったもんでね」
「そうですわね」
とは言え、『カラスは紅いもの』とレミリアが言えば、片っ端から血祭りに上げるのが咲夜である。
この程度の誤差であれば、肯定することなど造作もない。
「それじゃ、乾杯」
「乾杯」
チン、と軽やかな音を響かせ、二人はグラスを傾ける。
が、一口含んだ途端、レミリアは眉根を寄せてしまう。
「んむぐ……酸っぱい」
「確かに、少し酸味が強すぎたようですね」
「って、咲夜は平気なの?」
「メイドですから」
「いやそれ、答えになってないし」
澄ました顔で杯を乾すばかりか、二杯目を手酌で注ぎ始める咲夜。
それを信じられないものを見るかのような目で、レミリアは凝視する。
「酸いも甘いも飲み干してこそのメイド道、ですわ」
「そういうもんかね」
「それに、お嬢様が用意してくださったものですから」
「……ふん」
少し嬉しくなって、レミリアも負けじと杯を乾しにかかる。
「んぐ」
「ああ、お嬢様。ご無理はなさらないで……」
「っぷはぁ、酸っぱい! もう一杯!」
が、やはり酸っぱいものは酸っぱいのであった。
* * *
「ねぇ咲夜」
「はい、なんでしょう」
「あなたと出会ったのも、こんな月の夜だったわね」
どこか遠くを見つめるような目で、レミリアが言う。
咲夜もまた、その視線を追うことで同じものを心に映す。
「月……ええ、確かにあの夜も十六夜月でした」
「あの時は、正直こんな風になるなんて思ってもみなかったよ」
「あら。私はてっきり、お嬢様の手のひらの上なのかと」
「しないさ、そんなことは。退屈になるだけだし」
グラスの液体を揺らめかせ、薄い笑みを浮かべてぼそりと呟く。
「……何でも思い通りってわけでもないしね」
「? 済みません。今、なんと」
「いや、なんでもないよ」
フッと一息吐き、緋色のジュースを呷る。
その味に呻くようなことは、もう、ない。
「――出会いが十六夜であったならば、別れもまた、十六夜こそが相応しいだろう」
空のグラスを、半ば叩き付けるようにしてテーブルへ。
その行為で何かを吹っ切ったのかもしれない。
咲夜の瞳を正面から捉え、レミリアはこう告げた。
「今、この時をもって、あなたを従者の任から解き放つ。在るべき流れへと還りなさい、咲夜」
答えを得るまでの僅かな空隙。
時を刻む針の音が、レミリアの胸に突き刺さる。
「承知いたしました、お嬢様」
果たしてどれほどの沈黙があったのか。
主がそれを窺い知るよりも早く、咲夜は立ち上がり、一礼する。
彼女の体は、承服を述べた瞬間から透け始めていた。
「もうメイドじゃないんだから、お嬢様もないだろう」
「そういうわけにも参りません。私にとって、お嬢様はお嬢様なのですから」
「ふん、好きにしろ」
投げつけるような言葉とは裏腹に、レミリアは表情を緩め、穏やかに微笑んだ。
咲夜がレミリアという主に対し、死を超越するほどの忠義を抱いたように。
レミリアにとってもまた、咲夜という従者は特別な存在だったのだろう。
「それでは、お嬢様。咲夜はお暇させていただきます」
「ああ。今までご苦労様」
労いの言葉をかけてやると、最後にもう一度お辞儀をして、咲夜は消えた。
彼女の名残は、もはや空になったグラスのみ。
それはあまりにも呆気なく。
だからこそ、感傷に浸り過ぎなくて済む。
そうさ、私たちにはこのぐらいで丁度いい。
レミリアはそう感じていた。
「――もし、あんたにそのつもりがあるのなら……また、うちに来るといい」
誰にともなく呟き、二つのグラスを緋色で満たす。
「それまでバイバイ、咲夜」
チン、と軽やかな音を響かせ、レミリアはグラスを傾けた。
* * *
「……聞茶でも始めたの? やたらにカップが並んでいるけど」
「おや珍しい。穴倉から出てくるなんて、どんな心境の変化だい?」
「へこんでるレミィを苛めようかと思ってたんだけど」
「お生憎様。見ての通り、元気に妖精を苛めてるわよ」
「ああ、そういうこと。残念」
パチュリーが食堂に顔を出すと、レミリアの前には十数杯の紅茶が並べられていた。
その一つ一つに口を付け、妖精たちに細かい駄目出しをする様は、まるで館の大奥様である。
「ご相伴に与ってもいいかしら?」
「構いやしないよ。なんなら妖精苛めもする?」
「お小言は得意じゃないから、遠慮しとく」
「どの口でそんなことを言うんだか」
クク、と喉を鳴らすレミリアに構わず、パチュリーはカップに手を伸ばす。
色の美しさだけで選んだ紅茶を一口含む。
「……何これ、ただの色水じゃない」
嚥下した瞬間、パチュリーは思わずケチをつけていた。
その横で、レミリアは楽しそうに笑うのだった。
* * *
咲夜が居なくなってから、紅魔館のシステムは大きく変わった。
妖精メイドは茶坊主部隊・清掃部隊・迎撃部隊の三つに編成し直され、
門番である紅美鈴の指導と強化までもが、レミリアの手により行われるようになったのだ。
咲夜が抜けた穴は、それほどまでに大きかった。
「うう……、咲夜さぁーん……。どうしてあなたは死んでしまわれたのですかー……」
「咲夜は死ぬ人間、当然のことでしょう。さあ、立ちなさい美鈴! 泣き言を抜かしてる暇は無いよ!」
「うわぁぁん、待ってやめて許してー! これじゃ私まで死んじゃいますよー!」
一部は道楽だったのかもしれない。
ともあれ、季節が一巡するまでにはかつてのサイクルを取り戻し――
五度目の夏を迎える頃にもなれば、美鈴の泣き言もほとんど聞けなくなっていた。
「やっぱりあの魔法使い、人間じゃありません!」
「言い訳は地獄で聞く」
「ぎゃー!」
平和で、けれどたまに騒がしくもある、穏やかな日常。
その中で彼女は待ち続けていた。
いつか来る、運命の日を。
* * *
果たして、その日は訪れる。
「むむ、何奴」
空に白銀の月が輝く夜のことだった。
門前を守護していた美鈴は、不意に現れた微かな気配を察知し、即座に迎撃体勢を取る。
それは十年以上に渡ってレミリアに玩弄され続けた成果。
並大抵のことでは揺らがぬ心を得るまでに、成長を果たしていたのだ。
だが、それ故生じる油断もある。
「……って、子供?」
月明かりの下に姿を現したのは、年端も行かぬ少女。
彼女の体からは人間の匂いしかせず、妖怪のよの字さえ無い。
「駄目じゃない、夜中にこんなところを歩いてちゃ。……まあ、昼間でも駄目なんだけど」
何かの拍子に迷い込んで、こんなところまで来てしまったのだろう――
自らの嗅覚に絶対の信頼を寄せていた美鈴は、知らず、無防備になる。
「隙あり」
「っぎゃー!」
その瞬間、美鈴の額に銀のナイフが突き刺さっていた。
蘇る過去の記憶に、思わず卒倒し泡を吹く。
忘却の淵にあったトラウマは、より強く心を抉っていた。
そんな情けない門番の姿を見て、少女は溜息を吐く。
「全く、だらしない。この程度で死ぬわけでもないくせに」
「あわ、あわ、あわわ」
「それとも頭が弱点だったのかしら? ……バカには違いないか、拳法バカだし」
うなされる美鈴を追加のナイフで黙らせて、少女は軽快に歩を進める。
紅魔館の主、幼き月を目指して。
* * *
「おや、案外早かったじゃないか」
少女の到来を予期していたのだろうか。
それとも、彼女には全てがわかっていたのだろうか。
レミリア・スカーレットは、館の最奥で少女を待ち受けていた。
「あの程度の相手なら、私の敵ではありませんわ」
少女の言葉を受けたレミリアは、緋色のグラスを掲げ、大仰に言う。
「それは拙いなあ、後できっちり懲らしめてやらないと。特に門番」
「あれなら犬でも繋いでいた方がマシじゃないかしら? 一突きだったし」
今度はどうやっていじめてやろうかなあ。
久方ぶりのお楽しみに期待を膨らませ、レミリアは杯を干す。
それを傍らの台の上、ラベルの無い深緑のボトルに並べると、一つ伸びをした。
「――さて。ここまで踏み込まれた以上、私が相手をしなけりゃならんだろうね」
「お願いできます?」
「当然。その分、あんたが負けた時は私に命を差し出してもらうがね」
「では……そうですね。私が勝った時は、この館に間借りさせていただく、ということで」
「欲の無い奴。でもまぁ、勝つのは私だけどね」
口角を吊り上げ、少女は駆け出す。
十六夜の月を背負い、悪魔は迎え撃つ。
夜はまだ、始まったばかりだ。
* * *
その日を境に、里では一つの噂が流れるようになる。
『なんでも、吸血鬼のところに人間が住み着いたらしい』
人外ひしめく洋館に自ら身を置くということは、有体に言えば自殺行為である。
ましてや相手は吸血鬼、人間の上位捕食者だ。
少し考えれば、眉に唾を塗るまでもなく否定できるレベルの話。
しかし彼らは記憶している。
人の身にありながら吸血鬼に仕えた、とあるメイドのことを。
……ともあれ、噂の真偽に尽きせぬ興味は沸けども、彼らに確かめる術は無く。
「咲夜ぁー! お茶持ってきてー!」
「はぁい、ただいまー」
事の真相を知るのは、紅魔館の住人のみである。