――私は雨が嫌いだ。
降り注ぐ雫が、私を閉じ込めるから。
私は雪が嫌いだ。
凍てつく冷気が、指先を鈍らせるから。
私は冬が嫌いだ。
朝が来るたびに、不自由を強いられるから。
そして私は、妖精も嫌いだ。
幾度潰えようと、そのたび平然と蘇るから。
さて。
以上より導かれるべき結論は――
「ほーれ食え食え、氷だぞーぅ」
私は、氷の妖精・チルノが大嫌いであって然るべき、ということなのだが。
●
暦の上ではまだ夏なのに、今朝はやけに冷え込んだ。
これが季節の変わり目ならば体調管理を気をつけねば……と思いつ障子を開くと、冷えの原因が庭で遊んでいた。
氷の妖精が雨を凍らせ、池の鯉に食わせようとしていたのだ。
……もっとも、彼女の冷気にあてられたためか、鯉は水面にさえ顔を出してこない。
このまま放っておけば、じきに冬眠しちゃうかも。
「……そこで何をしているのです、チルノ」
「あ! あっきゅん起きた? おっはよー!」
「人をおかしな名前で呼ばないでください」
「えー。かわいいじゃん、あっきゅん」
言ったところでどうにもならないことは分かっているが、諦めたら負けを認めたみたいで、なんだか悔しい。
故にここまでが定型文。私とチルノの挨拶だ。
「とにかく、早急にその池から離れるように。鯉が池底に沈んでしまいますので」
「……あっきゅうに?」
「さっきゅうに!」
早急という言い回しは、少々難しかったのか。
チルノは暫時首を捻り、しかし閃きを得たとばかりに、
「あたいたち、息ぴったり!」
「な・に・が・で・す・か!」
こんな雨の日でも、チルノは絶好調だった。
●
「ねーねーあっきゅん、今日は何して遊ぶ?」
「ちょっと、寒いのであまり近付かないでください」
「冷たいこと言うなよぅ」
冷たいのはお前だと言ってやりたいが、言ったところで暖簾に腕押しである。
「そうだ! 寒いんだったらおしくらまんじゅうしよっか!」
「余計に冷えるじゃないですか!」
「? なんで?」
ほれ見たことか。
「あ、そっか。あたいの背中、氷がついてるんだった」
そういう問題じゃないんだけど……
ああもう。本当、頭痛い。
チルノが傍に居るだけで、わたくしオールウェイズ風邪ひけますよ?
図書館の魔女以上に虚弱体質ですからね。
「……今日は家で静かに過ごそうと思っていたのですが。雨も降ってますし」
「んー、そっかあ。そういえば雨の日って、みんな外で遊んでないよね」
色んな遊びが出来るのになあとチルノは口を尖らせる。
彼女の交友関係をもってしても、雨の日は退屈になってしまうらしい。
雨の妖精でも居れば話はまた違ったのかもしれないのだが、
「じゃ、何して遊ぼっか?」
「いや、だから……」
ともあれいつからか、雨が降るたび彼女はうちに遊びに来るようになっていた。
これでは静かな余生など、夢のまた夢である。
●
「問題」
「じゃかじゃーん!」
「……上は大洪水、下は大火事。これ、なーんだ」
「んーと、んーと」
結局、謎掛け勝負をする羽目になった。
まあ、これならドタバタされなくて済むし、私も楽なのだけれど。
「わかった! みそあじのだいさいがい!」
半刻ほどの時を、唸り、転げ、詰んである本に手を伸ばしてみたり……
落ち着き無くあれこれして過ごしていたチルノが、唐突に叫んだ。
それが謎掛けの答えだと気付くには、流石の私も少々の時間を要した。
「み、味噌味?」
「あれ? みそありだったっけ?」
「……ひょっとして、未曾有?」
「そう、それ! みぞう!」
「お風呂、と答えて頂きたかったのですが――」
何故出題者が頭を使わなくては……いや、今更か。
「あながち間違ってもいないので、得点を差し上げます」
「やったー!」
にしても、未曾有なんて言葉、どこで知ったのやら。
「じゃあ次はあたいの番ね! もんだーい!」
「じゃかじゃん」
「パンはパンでも食べりゃれりゃ……いパンはなーんだ!」
「……りゃれりゃい?」
「りゃれりゃい!」
わぁ、難題だあ。
● ● ●
この妖精と知り合ったのは、昨年の夏、私が性質の悪い風邪を引いた時のことだ。
「おーい。ご所望の品、届けに来たぜー」
「はーなーせー!」
おぼろげな意識の中でもはっきり聞こえたのは、霧雨の魔女と少女の声。
「お代? いやいや結構だ。――書いてる本を今度ちょろっと見せてくれりゃ、私はそれで充分さ」
特にこの不吉な一言。これだけはよく覚えている。
いっそ覚えてなければ、白を切りとおせたのだが……
ともあれ、夏場の氷は貴重なものだし、氷嚢を作るのに彼女ほどうってつけの人材もなく。
「え? あたいの力が必要? うーん……そこまで言うんなら、考えてあげてもいいよ?」
家の者たちがチルノを褒めそやしおだて上げた結果、どうにか私は生還したわけだ。
「広いだけの庭ではございますが、お好きなように出入りしていただいて構いませぬので」
庭内の出入りを認めるという、タダ同然の対価をもって。
が、タダより高いものは無し。
大人たちの思い込みは大きな思い違いであった。
「ねーねー、あっきゅん」
「だから私の名前は阿求だと」
「あの池のカエル、何のためにあるの?」
「あれは蛙石と言って、カエルと叶えるを掛けたもので……」
――童の如き心を持つ妖精にとって、面白いものなどそうはあるまい。
きっと彼らはそう思っていたのだろう。
「じゃあじゃあ、あの木があんな変な形してるのは?」
だが、自然の具現たる妖精にとって、人の手からなる庭は目新しいものばかりだったらしく、一事が万事この調子。
出入りを許した責任者、ちょっとここまで出てこい! ……と、思わなくもないのだが、
「ところで、チルノはいつも、どのようなことをして遊んでいるのですか?」
「んっとねー、カエルとか花とかを凍らせたり、戻したりして遊んでるよ。友達となら鬼ごっことか、かくれんぼとか」
妖精の生態を当人の口から聞けたのは、まあ、収穫だったと言えなくもない。
● ● ●
「それじゃ、また遊ぼーねー!」
「はい、はい。気をつけてお帰りなさい」
その後もたびたび尋ねてきては、あれやこれやと尋ねられる日々が続いた。
振り返ってみれば、チルノとの付き合いも一年近い。
最近は物を教えることも少なくなったので、気持ちの上では随分楽になった。
季節と共に装いは移ろい行くが、一巡すれば元の位置。
人の手からなるものなど、所詮はその程度に過ぎない。
限られた狭い庭内となれば尚更だろう。
しかしそれは、彼女は彼女なりに学習しているということでもあり。
「……行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、か」
変わらぬように見えて、実は自然も移ろい行くものなのだろう。
変化を捉えるには人の生が短すぎるだけで――
「けほっ……。うぅ、寒い〜」
だけどまあ、わざわざ縁起を書き直すほどのことでもあるまい。
ほんの少しの謎掛けで夕暮れまでを潰せるのだから。
●
一つだけ、チルノに関して心配に思うことがある。
それは私の死後、家の者たちに邪険にされるのではないか、ということだ。
今でさえ稗田の人間でチルノの相手をしているのは私だけなのだ。
……人間は約束をいとも容易く反故にする。
私が何を言ったところで、誰もそれを守らぬだろう。
後には約束を破られた妖精が残るだけだ。
そう考えると、私に示される道は大きく分けて二つ。
片方は今までどおりに接すること。
もう片方は、チルノの足を遠のかせること。
妖精は物覚えの悪い種族だ。
他に楽しいことを見つければ、詰まらぬ家などすぐに忘れてしまうだろう。
手荒に追い払うような真似さえしなければ、遺恨も生まれまい。
……でも。
「明日も、雨は降っているでしょうか」
そう思ってしまう私は、とんでもなく我侭なのかもしれない。
●
「……どうせ鯉にやるのなら、こちらの餌にしてくれると助かるのですが」
「あ! あっきゅん起きた? おっはよー!」
今日も今日とて、我が家の庭に季節はずれの氷雨が降る。
凍える鯉は水底に、人は一枚重ね着を。
季節を狂わす来訪者を喜び迎える者なんて、この家では私くらいだろう。
忙しなく右往左往する小間使いの姿を見て、一人苦笑した。
● ● ●
それは閻魔様を招じ入れ、色々な手続きを済ませていた時のこと。
「あなたの余命はそう長くはありませんが、わざわざ寿命を縮めるような愚行はお止しなさい」
一心不乱に筆を走らせていると、唐突に閻魔様が口を開いた。
「はて、なんのことでしょう?」
首を傾げて尋ねてみれば、
「あの氷精のことです。彼女の冷気は傍に居るだけであなたの命を磨り減らす。自分でも感付いているのでしょう?」
彼女の冷気は優しくない――
単刀直入に切り込まれた。
「……つまり、チルノには構うべきではない、と」
「簡潔に述べればそうなりますね」
「無理をしているつもりはないのですけれど」
「冷気の具現と相対して、ひ弱な体が無事だとでも?」
「しかし来るなと追い払うのは、義に反すると思いますが」
「あなたが相手をする必要はありません。約束とは交わした人間が履行すべきものなのですから」
閻魔様が言わんとしていることは理解できた。
回りくどい言い方ではあるが、私の身を案じてそう言ってくれているのだ。
私がどう思うかさえ、承知の上で。
「やはり私には、無視するなんて出来そうにありません」
「元気で無邪気な彼女の姿に、自身の理想を見ているだけではありませんか?」
「違う、とは言い切れません。ですが……」
チルノは、私の初めての友達だから。
「……ご忠告、痛み入ります」
「いえ。これも職務の内ですから」
書類を書き上げ閻魔様に手渡す。
彼女はそれをさらりと検め「問題はありませんね。それでは」と言って席を立った。
「どうするかはあなた次第です。これは他の誰でもない、あなた自身の人生なのですから」
最後にその一言を、私に残して。
● ● ●
ある晴れの日、チルノがうちにやってきた。
なんでも大きなカエルに一泡吹かせてやったとかで、その武勇伝を聞かせに来たらしい。
恐らくそのカエルとは、彼女を飲み込んだという大ガマのことだろう。
私は縁側で熱いお茶を片手に、彼女の話を聞いていた。
「あの時のアイツの顔、すっごいおかしかったんだから!」
「ふふ、チルノはいつも元気なのですね」
「もっちろん! だってあたいは最強だもん!」
身振り手振りで説明し、へへんと得意げに胸を反らす。
彼女の姿はとても微笑ましくもあり、羨ましくもあり。
……そして少しだけ、妬ましくもあった。
「――ねえ、チルノ」
だから私は、呪いをかけようとした。
「ん〜? なーに、あっきゅん?」
「私とチルノは、友達ですよね?」
「あったりまえじゃん! いきなり何言い出すのさー?」
小首を傾げる可愛い仕草。
触れることが出来るならば、髪を手櫛で梳きながら、頬を撫でてやりたいほどに。
「私の命は、もう長くありません」
「えっ? そうなの?」
「ええ、そうなんです」
「そっかー。あっきゅんも色々大変なんだね」
「でもね、チルノ」
いつも付けてた髪飾りを、そっと抜き取り彼女に差し出す。
決して枯れず、凍て付かぬ、人の手からなる一輪を。
「あなたが友達でいてくれるなら、私は」
「うん、わかった」
「――え?」
けれど彼女は、あ、という間も無く、花を受け取ってしまった。
そこに込められた意図も知らずに。
「あたい知ってるよ。あっきゅんが死んじゃっても、またいつか、生まれてくるって」
「……どうして?」
「へへ。なんてったって、あたいは最強だからね!」
あるいは、私の本当の気持ちに気付いていたのかもしれない。
呪いの裏に隠された、孤独を恐れるこの心に。
「ね、あっきゅん」
「ええと、なんでしょう?」
「今度生まれてきた時も、また友達になろうね?」
「……はいっ」
妖精は自然の具現だ。
だとすれば彼女は、季節が巡るたびに幾つもの出会いと、同じだけの別れを繰り返してきたのかもしれない。
「それじゃ、今日は何して遊ぼっか?」
そんな過去を乗り越えた上で、今の彼女があるとするなら、私の呪いなんて約束の一つでしかなく。
「そうですね。では今日は――」
故に彼女は知っていたのだろう。
ちっぽけな約束が、転生を繰り返す者の魂を慰めるのだということを。
● ● ●
鎌を担いだ死神がぶらりぶらりと野を歩く。
辺りは一面曼珠沙華。
無縁仏のための塚。
それゆえ寂れた場所であるのだが、しかしこの日は妖精が居た。
「やあやあ、こりゃまた珍しいヤツも居たもんだね?」
「……なんだ、あんたか」
「なんだとはまた、ひどい言い草だねえ」
座ったまま頭だけを回した妖精は、しかし興味は無いとばかりに向きを戻した。
普段からはあまりにかけ離れた様子を見て、さしもの能天気死神も怪訝な表情になる。
「なんかヤなことでもあったのかい? 良かったらあたいが相談に乗ってやるよ」
「いい、いらない。あたいなんかに構ってないで、ちゃんとお仕事した方がいいよ」
「たはー、こりゃ手厳しい」
ぺちりと額を叩き死神はおどけてみせるが、妖精はちらりとも見ない。
――こりゃあ本格的に塞いでるか?
知らぬ仲でもないため少々心配になり、近付いて見ようとするのだが、
「わったった! なんだいこりゃあ、花が凍っちまってるじゃないか」
一歩を前に踏み出した途端、ペキパキ響く破砕音。
もしやとようく見てみれば、妖精の周囲では花がことごとく凍り付いているではないか。
「あー……、その、なんだ。花を駄目にされちまうと、あたいが怖い怖い閻魔様に叱られちまうんだが……」
我が身可愛さ八割、妖精を案じる心二割。
そのような案配で声を掛けると、
「……大丈夫だよ。あたいが帰ったら、そのうち元に戻るから」
「んっ、そうなのかい? うーん、まあそれなら良いのかなあ……?」
「良い筈がないでしょう? 小町」
「ひっ」
怖い怖い閻魔様が、彼女の背後に現れた。
「い、いや違うんですよ映姫様? 先ほどのアレは言葉のあやで!」
「小町」
「はいィ!!」
「処罰は後ほど考えます。今は職務を優先なさい」
「ひーん、了解ですー!」
心配する心はどこへやら。
上司の登場に慌てた死神は、あれよあれよという間に霧の向こうへ。
騒がしい部下の姿に「やれやれ」と溜息一つ吐いたところで、閻魔は妖精へと向き直る。
「稗田阿求の死を悼みに来たのですか?」
「……そうだよ。悪い?」
放っておいてくれと言わんばかりの、つっけんどんな返事である。
閻魔はそれを意に介さず、諭すように語り掛ける。
「いいえ、悪くはありません。ですが彼女の魂は、既に此処には在りません」
「ん。知ってる……」
「そして死者を悼むという行為が、その魂を慰めることもありません」
「それも、知ってるよ。でもあたいは、このくらいしか出来ないから」
呟き、手のひらに乗せた花をそっと胸に抱く。
阿求が遺した約束を、彼女の想いを守るように。
「……分かりました。そこまで理解しているのであれば、これ以上はお節介というものでしょう」
曇った空が泣き出すのを見て、閻魔は静かに歩き出す。
震える少女に背を向けて。
「ですが、これだけは覚えておきなさい」
言葉を最後に、投げかけて。
「友を大切に想うのなら、友を守れるほどに強くなりなさい。今のあなたは、何もかもを傷付けすぎる」
それに答える声は無く。
雨も凍て付く世界の中で、凍らぬ花に雫が落ちた。
● ● ●
季節は巡る。
人間たちを道連れに、妖怪たちを置き去りに。
時は巡る。
愚直に約束を守り続けた、一匹の妖精と共に。
● ● ●
少女の目覚めは音と共にあった。
夏には嫌と言うほど聞かされる雫の音。
梅雨の最中の幻想郷では、連日雨が降り続いていた。
少女は障子を開き、空を見遣る。
灰色の天を仰ぐ顔には憂鬱の色。
しかしそれも束の間のこと。
「あ! チルノちゃん、おはよー!」
「あ、起きた? おはよー!」
胸元の花飾りが特徴的な、顔見知りの妖精を見つけるや否や、少女は溢れんばかりの笑みになる。
名前を呼ばれた妖精も、鯉の餌を持ったまま笑顔でブンブン腕を振る。
「ねぇねぇ今日は、何して遊ぶ?」
「その前に朝ご飯食べなきゃね。じゃないと、あたいみたいな最強にはなれないよ!」
「あはは、そうだったね。うん、わかった!」
二人は微笑み歩き出す。
暖かな手を取り合いながら。