――私は雨が嫌いだ。降り注ぐ雫が、私を閉じ込めるから。
 私は雪が嫌いだ。凍てつく冷気が、指先を鈍らせるから。
 私は冬が嫌いだ。朝が来るたび、弱い体は不自由を強いられるから。
 そして私は、妖精も嫌いだ。幾度潰えようと、そのたび平然と蘇るから。
 さて。以上より導かれるべき結論は、
「ほーれ食え食え、氷だぞーぅ」
 私は、氷の妖精・チルノが大嫌いであって然るべき、ということなのだが――

 暦の上ではまだ夏なのに、やけに冷え込んだとある朝。少し気の早い季節の変わり目が訪れたというならば、体調管理を気をつけねばなるまいと思いつ障子を開くと、冷えの原因が庭で遊んでいた。氷の妖精が雨を凍らせ、池の鯉に食わせようとしていたのだ。
 ……もっとも、彼女の冷気にあてられたためか、鯉は水面にさえ顔を出してこない。このまま放っておけば、じきに冬眠してしまうかも?
「……そこで何をしているのです、チルノ」
「あ! あっきゅん起きた? おっはよー!」
「人をおかしな名前で呼ばないでください」
「えー。かわいいじゃん、あっきゅん」
 言ったところでどうにもならないことは分かっているが、諦めたら負けを認めたような気がして、言わずにはいられなかった。故に、ここまでが定型文。これが、私たちにとってのいつもの挨拶なのだ。
「とにかく、早急にその池から離れるように。鯉が池底に沈んでしまいますので」
「……あっきゅうに?」
「さっきゅうに!」
 早急という言い回しは、少々難しかったのかもしれない。チルノは暫時首を捻り、しかし閃きを得たとばかりに、
「あたいたち、息ぴったり!」
「な・に・が・で・す・か!」
 螺子が足りない返答を繰り出してきた。こんな雨の日でも、チルノは絶好調であるらしい。その元気、少し、分けて欲しい。

「ねーねーあっきゅん、今日は何して遊ぶ?」
「ちょっと、寒いのであまり近付かないでください」
「冷たいこと言うなよぅ」
 冷たいのはあんただと指摘してやりたいところだが、所詮は暖簾に腕押しである。些細なことには拘泥しないのがチルノとの上手な付き合い方なのだ。
「そうだ! 寒いんだったらおしくらまんじゅうしよっか!」
「余計に冷えるじゃないですか!」
「? なんで?」
 自覚は皆無、ほれ見たことか。
「あ、そっか。あたいの背中、氷がついてるんだった」
 いや、そういう問題じゃないんだけど。……ああもう。本当、頭痛い。チルノが傍に居るだけで、わたくしオールウェイズ風邪ひけますよ? 図書館の魔女以上に虚弱体質ですからね。
「……今日は家で静かに過ごそうと思っていたのですが。雨も降ってますし」
「んー、そっかあ。そういえば雨の日って、みんな外で遊ばないよね」
 色んな遊びが出来るのになあ、などとチルノは口を尖らせる。どうやら彼女の交友関係をもってしても、雨の日は退屈になってしまうらしい。あるいは雨の妖精などが居れば話はまた違ったのかもしれないのだが、だとしても周囲の水気を片端から氷結させてしまうチルノである、やはり友達になるのは難しいかも知れない。
「じゃ、何して遊ぼっか?」
「いや、だから……」
 ともあれ、いつからか我が家はチルノにとって雨の日の遊び場になっていた。まあ、本当のところを言えば見聞きした分は全て覚えているが――何にせよ、これでは静かな余生など夢のまた夢である。

「問題」
「じゃかじゃーん!」
「……上は大洪水、下は大火事。これ、なーんだ」
「んーと、んーと」
 で、結局、部屋に上がり込んだチルノと謎掛け勝負をする羽目に。まあ、これならドタバタされなくて済むし、解答を待つ間に本だって読める。私にとっても利のある選択なのだった。
「わかった! みそあじのだいさいがい!」
 半刻ほどの時を、唸り、転げ、詰んである本に手を伸ばしてみたりと落ち着き無くあれこれ手を出して過ごしていたチルノが、唐突にそう叫んだ。それが謎掛けの答えだと気付くまで、流石の私も少し悩んでしまったり。
「み、味噌味?」
「あれ? みそありだったっけ?」
「……ひょっとして、未曾有?」
「そう、それ! みぞう!」
「私としては、お風呂と答えて頂きたかったのですが――」
 何故出題者が頭を使わなくては……いや、今更か。
「あながち間違ってもいないので、得点を差し上げます」
「やったー!」
 にしても、未曾有なんて言葉、どこで知ったのやら。湖畔の傍に妖精の学校でもあるのだろうか? だとすれば、そうっと覗いてみたいものだ。
「じゃあ次はあたいの番ね! もんだーい!」
「じゃかじゃん」
「パンはパンでも食べりゃれりゃ……いパンはなーんだ!」
「……りゃれりゃい?」
「りゃれりゃい!」
 わぁ、これは難題だなあ。

 少し昔の話になるが、この妖精と知り合ったのは昨年の夏、私が性質の悪い風邪を引いた時のことだった。
「おーい。ご所望の品、届けに来たぜー」
「はーなーせー!」
 霧雨の魔女の呼びかけと、それとは別の少女の声。その二つは、おぼろげな意識の中でもはっきりと耳に届いていた。
「お代? いやいや結構だ。――今度、縁起をちょろっと見せてくれりゃ、私はそれで充分さ」
 特にこの不吉な一言、これだけはよく覚えている。いっそ覚えてなければ、白を切りとおせたのだが。……ともあれ、夏場の氷は貴重なもので、人の力でおいそれと作れるものでもない。が、人以外に目を向けてみれば、氷嚢を作るのにうってつけの人材……いや、妖精材? が居たわけだ。
「え? あたいの力が必要? うーん……そこまで言うんなら、考えてあげてもいいよ?」
 蛇の道は蛇とまでは行かずとも、情報の集積をお役目とする稗田家であるから、そこに住まう者たちも皆、妖物に関してはそれなり以上に詳しい。そんな大人たちが魔女にチルノを攫わせ、右も左も分からぬ内から褒めそやしおだて上げ、結果、どうにか私は生還するに至った。妖精のお陰で夭逝を免れたなどと笑っていられるのも、命を取りとめたからこそである。
「広いだけの庭ではございますが、お好きなように出入りしていただいて構いませぬので」
 して、大役を果たしたチルノに与えられた謝礼は、庭内に出入りする権利だけという、ちょっと大人の汚さに眩暈がするようなものだった。
 が、タダより高いものは無し。大人たちの思い込みが大きな思い違いであったことは、割合すぐに知れた。
「ねーねー、あっきゅん」
「だから私の名前は阿求だと」
「あの池のカエル、何のためにあるの?」
「あれは蛙石と言って、カエルと叶えるを掛けたもので……」
 ――童の如き心を持つ妖精にとって、面白いものなどそうはあるまい。
 きっと彼らはそう思っていたのだろう。
「じゃあじゃあ、あの木があんな変な形してるのは?」
 だが、自然の具現たる妖精にとって、人の手からなる庭は目新しいものばかりだったらしく、一事が万事この調子。出入りを許した責任者、ちょっとここまで出てこい! ……などと、思わなくもないのだが、
「ところで、チルノはいつも、どのようなことをして遊んでいるのですか?」
「んー、カエルとか花を凍らせたり、戻したりして遊んでるかなー。友達と一緒なら、鬼ごっことか、かくれんぼ」
 妖精の生態を当人の口から聞く機会が得られたのは、私にとっては思わぬ収穫なのだった。

「それじゃ、また遊ぼーねー!」
「はい、はい。気をつけてお帰りなさい」
 当然、訪問は一度や二度では済まず、たびたび尋ねてきてはあれやこれやと尋ねられる日々が続いた。そうして振り返ってみればチルノとの付き合いも一年近く。最近では物を教えることも少なくなったし、気心も知れてきたので随分楽になった。
 考えてみれば、季節と共に移ろう装いも、一巡すれば元の位置。人の手からなるものとて、その例外ではない。庭内という狭い空間であったことも、新たな疑問を噴出させぬ助けになったのかも知れない。同時に、この結論は彼女は彼女なりに学習しているということを示してもいた。
「……行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、といったところですか」
 変わらぬように見えて、実は自然も移ろい行くものなのだろう。
 変化を捉えるには人の生が短すぎるだけで――
「けほっ……。うぅ、寒い~」
 けれどまあ、わざわざ縁起を書き直すほどのことでもないように思えた。何せ、数えるほどの謎掛けで夕暮れまでの時間を潰せるのは相変わらずだったのだから。

 一つだけ、チルノに関して心配に思うことがある。私の死後、家の者たちに邪険にされるのではないか、ということだ。
 今でさえ、チルノの相手をするのは私だけで、他の者たちは遠巻きに眺めるだけ。私が居なくなればどうなるかは、火を見るより明らかに思えた。
 ……人間は、約束をいとも容易く反故にする。私が何を言い含めたところで、誰もそれを守りはしまい。そうして後には約束を破られた妖精が一人ぽつんと残るだけだ。
 そう考えた時、私に示される道は大きく分けて二つあった。一つは今までどおりチルノに接すること。もう一つは、チルノの足を自然と遠のくよう仕向けること。妖精は物覚えの悪い種族だ。他に楽しいことを見つけさえすれば、詰まらぬ家のことなどすぐに忘れてしまうだろう。手荒な真似さえしなければ、遺恨も残りはしないだろう。……でも。
「……明日も、雨は降っているでしょうか」
 そこまで分かっていながらこんなことを考えてしまう私が、本当は一番我侭なのかもしれない。
「……どうせ鯉にやるのなら、こちらの餌にしてくれると助かるのですが」
「あ! あっきゅん起きた? おっはよー!」
 今日も今日とて我が家の庭には、季節はずれの氷雨が降る。凍える鯉は水底に、人は一枚重ね着を。季節を狂わす来訪者を喜び迎える者なぞ、稗田の家では自分くらいなだろう。忙しなく右往左往する小間使いの姿を見て、私は一人、苦笑した。

 それは閻魔様にご足労願い、色々な手続きを済ませていた時のこと。
「……稗田。あなたの命は元より長いものではありませんが、であるからこそ、役目を果たし残された余命、わざわざ縮めるような真似はお止しなさい」
 一心不乱に筆を走らせていると、唐突に閻魔様に説教された。
「はて、なんのことでしょう?」
 首を傾げて尋ねてみれば、
「あの氷精のことです。彼女の冷気は傍に居るだけであなたの命を磨り減らす。自分でも感付いているのでしょう?」
 チルノの冷気は人の身にとって毒でしかないのだと、単刀直入に切り込まれた。
「……つまり、チルノには構うべきではない、と」
「簡潔に述べればそうなりますね」
「無理をしているつもりはないのですけれど」
「冷気の具現と相対して、あなたの脆弱な体が無事で居られるとでも?」
「しかし約束を違え、来るなと追い払うのは義に反すること、即ち悪徳であるように思えますが」
「あなたが気負う必要はありません。約束とは交わした人間が履行すべきもの。約束を交わした当人同士の問題なのですから」
 彼女が言わんとしていることは理解できた。回りくどい言い方ではあるが、私の身を案じてそう言って下さっているのだ。説教に対し、私がどう思うかさえ承知の上で。
「それでも私には、チルノを無碍にあしらうなんて、出来そうにありません」
「稗田。あなたは彼女の姿に、自身の理想を重ねているだけではありませんか?」
「違う、とは言い切れません。ですが」
 ――それでもチルノは、私にとって初めての、大切な友達だから。
「……ご忠告、痛み入ります」
「いえ。これも職務の内ですから」
 それ以上の追求は無かったけれど、きっと私の心の内など、地獄の閻魔様には全て透けて見えていたのだろう。
「くれぐれも後悔だけは無いようにお過ごしなさい。あなたの人生は、他の誰でもない、あなたのための人生なのですから」
 そして去り際に残された言葉は、彼女には珍しく抽象的な物言いだった。ひょっとしたら、愛想を尽かされたのかもしれない。

 ある晴れの日、チルノがうちにやってきた。珍しい、どうしたことかと思っていたら、なんでも大きなカエルに一泡吹かせてやったとかで、その武勇伝を語って聞かせに来たらしい。恐らくは、以前彼女を飲み込んだという、あの大ガマのことだろう。天狗さえまだ知らぬであろうチルノの大活劇に、私は熱いお茶を啜りつつ耳を傾ける。
「あの時のアイツのびっくりした顔、すっごいおかしかったんだから! あっきゅんにも見せたげたかったなあ」
「ふふっ、こうして聞いてるだけでも伝わってきます。にしても、チルノはいつも元気ですねえ」
「もっちろん! だってあたいは最強だもん!」
 身振り手振りで話の再現をしていたチルノが、へへんと得意げに胸を反らした。活力に溢れたその姿は微笑ましくもあり、羨ましくもあり、……そして少しだけ、妬ましくもあった。
「――ねえ、チルノ」
 だから私は、ちょっとした呪いをかけてやろうなんて思ってしまった。
「ん~? なーに、あっきゅん?」
「私とチルノは、友達ですよね?」
「あったりまえじゃん! いきなり何言い出すのさ?」
 小首を傾げる可愛い仕草。触れることが出来るならば、髪を手櫛で梳きながら、頬を撫でてやりたいほどに愛らしかった。
「……実は、私の命は、そう長くはないのです」
「え、そうなの?」
「ええ、そうなんです」
「そっかー。あっきゅんも色々大変なんだね」
 一つ言葉を紡ぐたび、胸をチクリと刺す痛みを覚える。それは道端の花を摘み取るような罪悪感。けれど私では、その花を手折ることは出来ない。触れることが叶わないのだから。
「でもね、チルノ」
 だから代わりに、常日頃から身に付けていた髪飾りを、そっと抜き取り彼女に差し出した。決して枯れず凍て付かぬ、人の手からなる一輪を。
「私が死んでも、あなたが友達でいてくれるなら」
「うん、わかった」
「――え?」
 けれど彼女は「あ」という間も無く花を受け取ってしまう。意図も聞かず、真意も知らぬまま、受け取ってしまった。受け取られて、しまった。
「あたい、知ってるよ。あっきゅんが死んじゃっても、またいつか、生まれてくるって」
「……どうして?」
「えへへ……だって、あたいは最強だからね!」
 チルノの笑顔が悲しみの色を含んで見えたのは、私の見間違いだったのだろうか? でも、そうだとすれば、チルノは私の本心を見抜いていたのかもしれない。呪いの根源、孤独を恐れる弱い心に。
「ね、あっきゅん」
「ええと、なんでしょう?」
「今度生まれてきた時も、また友達になろうね?」
「……はいっ」
 妖精は自然の具現だ。だとすれば、彼女は季節が巡るたびに幾つもの出会いと、同じだけの別れを繰り返してきたのかもしれない。
「それじゃ、今日は何して遊ぼっか?」
 そんな過去を乗り越えた上で、今の彼女があるとするなら、私の呪いなんて約束の一つでしかなく。
「そうですね。では今日は――」
 故に彼女は知っていたのだろう。ちっぽけな約束こそが、去り行く魂を慰めてくれることを。

     ●

 鎌を担いだ死神がぶらりぶらりと野を歩く。辺り一面に咲き誇るは紅色の曼珠沙華。ここは無縁仏のための塚。それゆえ寂れた場所であるのだが、しかしこの日は異なことに、湖畔に住まう妖精が居た。
「やあやあ、こりゃまた珍しいヤツも居たもんだね?」
「……なんだ、あんたか」
「なんだとはまた、ひどい言い草だねえ。これほどあたいが似合う場所もないってのに」
 座ったまま頭だけを回した妖精は、しかし興味無しとばかりに視線を戻した。普段とはあまりに違う様子を見て、能天気な死神も怪訝な表情になる。そもそも陽気な場所を好む妖精が陰気な場所に居ることがおかしいのだ。気が塞いでいるのであれば見捨ててはおけぬと、持ち前のお節介が鎌首をもたげる。
「なんかヤなことでもあったのかい? 良かったらあたいが相談に乗ってやるよ」
「いい、いらない。あたいなんかに構ってないで、ちゃんとお仕事した方がいいよ」
「たはー、こりゃ手厳しい」
 ぺちりと額を叩いておどけてみせる死神を、しかし妖精はちらりとも見ない。
 ――こりゃあ本格的に塞いでるか?
 気心知れたとまでは行かなくとも、互いに見知らぬ仲でもない。少々心配になってきた死神は、様子を探るため近付こうとしたのだが、
「わったった! なんだいこりゃあ、花が凍っちまってるじゃないか」
 一歩を前に踏み出した途端、ペキパキと破砕音が響いた。まさかと足元をようく見れば、妖精の周囲では花がことごとく凍り付いているではないか。
「うあー……。あの、その、なんだ。花を駄目にされちまうと、あたいが怖い怖い閻魔様に叱られちまうんだが……」
 我が身可愛さ八割、妖精を案じる心二割。そのような案配で声を掛ける。
「……大丈夫だよ。あたいが帰ったら、そのうち元に戻るから」
「んっ、そうなのかい? うーん、まあそれなら……」
 別に良いかなあ、と日和かけた死神の背後に、
「良い筈がないでしょう? 小町」
「ひっ」
 怖い怖い閻魔様が、音も無く現れた。
「い、いや違うんですよ映姫様? 今のアレは言葉のあやでして!」
「小町」
「はいィ!!」
「処罰は後ほど考えます。今は職務を優先なさい」
「ひぃん、了解ですー!」
 そうして上司の登場に慌てた死神は、我が身可愛さが残り二割を駆逐したか、あれよあれよという間に霧の向こうへ姿を消した。騒がしい部下の姿に「やれやれ」と溜息一つ吐いたところで、閻魔は妖精へと向き直る。
「で、あなたは稗田の死を悼みに来たのですか? チルノ」
「……そうだよ。悪い?」
 放っておいてくれと言わんばかりの、つっけんどんな返事。しかし閻魔は意に介さず、諭すように語り掛ける。
「いいえ、悪くはありません。ですが彼女の魂は、既に此処には在りません」
「……ん。知ってる」
「そして死者を悼むという行為が、その魂を慰めることもありません」
「それも、知ってるよ。でもあたいは、このくらいしか出来ないから」
 呟き、手のひらに乗せた花をそっと胸に抱く。遺された約束を、友の想いを守るように。
「……分かりました。そこまで理解しているのであれば、これ以上はお節介というものでしょう」
 ふと、閻魔が空を見上げる。遠く、人里から天に向けて昇る煙は、空を覆う雲と一つになったか、雨粒を降らせ始めた。これ以上の長居は無用と、妖精に背を向け歩き出す。
「ですが、これだけは覚えておきなさい」
 最後に言葉を一つ、投げかけて。
「大切に想う人があるのなら、それを守れるほどに強くなりなさい。今のあなたは、何もかもを傷付けすぎる」
 妖精は答えない。ただただ氷雨が降り注ぐその中心で、凍らぬ花に雫が落ちた。

     ●

 季節は巡る。人間を道連れにして。妖怪を置き去りにして。
 そして、時は来る。愚直に約束を守り続けた、一人の妖精の下に。

     ●

 少女の目覚めは、音と共にあった。夏は嫌と言うほど耳にする憂鬱な雫の音。梅雨真っ盛りの幻想郷では、連日雨が降り続いていた。
 少女は障子を開き、空を見遣る。灰色の天を仰ぐ顔には、期待と不安の色が入り混じっていた。しかし、それも束の間のこと。
「あ! チルノちゃん、おはよー!」
「あ、起きた? おはよー!」
 胸元に花飾りを頂いた顔見知りの妖精を見つけるや否や、少女の顔から笑みがこぼれた。名を呼ばれた妖精も、鯉の餌を持ったまま笑顔でブンブン腕を振る。池が、俄かに騒がしくなった。
「ねぇねぇ今日は、何して遊ぶ?」
「んー、その前に朝ご飯食べなきゃね? じゃないと、あたいみたいな最強にはなれないよ!」
「あはは、そうだね。うん、わかった!」
 そんなやり取りを笑みと共に交わし、食卓へ向け歩き出した。二人、暖かな手を取り合いながら。

inserted by FC2 system