『これもまた日常』 すっかり色変わりした山の奥に、ひっそり佇む博麗神社。枯れ葉降り積もる境内には、巫女の姿がぽつんとあった。 「萃香ー。おーい、萃香ー?」 紅白衣装を身に纏い、伸ばした黒髪を風に遊ばせるその巫女は、名を博麗霊夢といった。人里離れたこの場所で鬼と寝食を共にする、正真正銘の変わり者である。 竹箒を小脇に抱えて変わり者が探すのは、共に暮らす鬼、伊吹萃香の姿であった。境内に降り注いだ大量の枯れ葉と合わせて見れば、その姿は掃除を鬼に任せようとしているように映る。 「萃香ー、居ないのー?」 博麗神社の境内は、鬱蒼と茂る草木によって十重二十重に囲まれていた。体の小さい者であれば、幾らでも身を隠せそうな場所である。萃香は、人の子供程度の体格であった。鬼としてはかなり小柄な部類である。頭の左右から突き出した角と尋常ではない怪力がなければ、鬼だと言われても信じなかったかもしれない。 ともあれ、そのような背丈の萃香であれば、ちょっとした茂みに身を隠し、紅葉酒と洒落込んでいることもあるのではと、霊夢は考えたのだろう。木々の合間をひょいと覗き込み、名前を呼んでは次へ移る。捜索は境内の外周をぐるりと一周するまで続けられたが、成果は上がらなかった。口先を尖らせた霊夢は、念のため縁の下にも視線を巡らせたのち、縁側に腰を下ろしてぽつりと呟く。 「今日も居ない、か」 言って、箒を傍らに立てかけると、良い感じにぬるくなった湯飲みを傾け、一服。次いで団子に手を伸ばし、ぱくりと一個平らげると、 「ま、どうせ誰も来ないんだし……別に明日でもいいわよね」 前日、前々日にも吐いた台詞を、更にもう一度繰り返した。秋の境内には、枯れ落ちた葉が堆く積もっていた。 霊夢が捜し求めた萃香は今、山の奥の更に奥、昼なお暗い森の中に居た。そこは幻想郷の最外周。誰も立ち寄ろうなどとは思わぬほどの僻地である。別に萃香は、霊夢に掃除を命じられるのが嫌で、ここまで逃げ延びてきたわけではない。萃香の持つ力、『疎と密を操る能力』をもってすれば、枯れ葉を一つ所に集めることなど朝飯前である。何より萃香は、口では「ぐうたら巫女め」などと詰っていたが、実際の所、霊夢に頼られることを嫌とは思っていなかった。 「貴方がそんな風に甘やかすから、余計ぐうたらになったんじゃないのかしら?」 「ぐうの音も出ないねえ」 閉じた日傘を虚空に振り立てながら、八雲紫は指摘する。そうなった原因の一端は萃香自身にあるのではないかと。萃香はばつが悪そうに頬を掻くが、しかしその心は、枯れ葉に敷き詰められた境内と掃除をさぼる霊夢へと向けられていた。 萃香このような場所に居るのは、八雲紫に連れられてきたからである。 「ちょっと行きたい場所があるんだけど、付き合ってくれないかしら? 一人だと寂しくて」 「狐でも猫でも連れてきゃいいじゃん。あんたにゃ式がいるだろう?」 「藍には断られたわ。橙の具合が良くないからって」 哀れを誘う事情を聞かされた以上、知らん振りを決め込むというのは、相手が紫と言えども気が咎めた。仕方なく、美味いメシと美味い酒が飲み食い出来るならという条件付きで、萃香は首を縦に振った。 しかし今のところ、美味いメシにも美味い酒にもありつけてはいなかった。起伏に飛んだ幻想郷、その最果てをぐるりと巡る旅である。飯屋や茶屋があろうはずもなく、まともな食事にありつけたのさえ一回きり、紫の家に立ち寄った時だけであった。 「なあ紫。いつになったら美酒佳肴は出てくるんだい」 「確かに出すとは言ったけど……ふふ、その日と場所の指定まではしていないわ」 ――こんなだから友達少ないんだよなあ、こいつ。 思えども口に出さぬは、せめてもの優しさか。或いは、言うだけ無駄と諦めているのか。ともあれ萃香は、旅の最中に美食は望めまいとひとまず諦め、大人しく付いて行くことにしていたのだ。 「さて、これで一周し終わったわけだけど、綻びとやらはあったのかい?」 「全く全然これっぽっちも見当たらないわ。やっぱり、結界は無関係だったようね」 「やっぱり、って……。いや、この場合はそれを喜ぶべきなのか?」 旅の目的は、異変の原因究明とその解決であった。本来それは霊夢たちに任せるべき事案であるのだが、今回ばかりはそうも行かない。妖怪の力が衰退の一途を辿り始めた、それが異変の概要であったからだ。 異変の影響は幻想郷全土に及んだ。今のところは幸いにして人に知られた様子はない。つい先日が新月であったことも、良い隠れ蓑になっていた。だが、事態は悪化の一途を辿っている。力は今も失われつつあった。神の加護を受けた天狗たちは多少の余裕があるのだろうか、空を飛び回る姿がちらほら見えはしたが、しかし昼夜を問わず歩き回った二人の目は、ついぞ天狗以外の妖怪を視界に収めることはなかった。 「ま、これで私の落ち度が原因じゃないことだけは確定したわね。収穫、収穫」 「保身のための旅かよう。やることせこいなあ」 「慎重派、と言って欲しいですわ」 もとより紫は、結界が原因だとは思っていなかった。外界と幻想郷の境界があやふやになったのであれば、力持つ人間も無関係では居られないからだ。 最たる例は魔術を使う人間、霧雨魔理沙。彼女もまた異変の影響下にあったとすれば、空を飛ぶことも、星を出すことも、魔砲を放つことも出来なくなるだろう。だが、最果て行脚の旅の途中、紫たちは何度も目にしたのだ。箒に跨り平然と空を飛び、紅魔館を目指す白黒の影を。 ひょっとすると、門番の調子が悪いことに気付き、ここぞとばかりに襲撃をかけているのかもしれない。だとすれば大変したたかなことであるよと、紫たちは感心したものである。 「さて、と」 ともあれ、妖怪の身にのみ降りかかった災難であれば、妖怪主導で解決するのが筋であろう。 「それじゃ次の目的地に向かいましょうか」 「次はどこまで?」 「二番目に疑わしくない、稗田の家ですわ」 おかしなことを言いながら、今度は幻想郷の中心部に向け歩みだす紫に、 「一番疑わしいところがあるんだったら最初から其処に行こうよ、面倒くさいなあ」 などという苦言を呈しながらも、萃香は素直についてゆくのだった。 白塗りの塀に囲まれた稗田家。母屋に離れ座敷、中庭さえ有する広大な敷地の片隅には、これまた白く漆喰で塗り固められた土蔵があった。古くから稗田が蒐集してきた物品を保管するための、立派な作りの蔵である。内部を満たす空気は、僅かに黴臭い。収められた品々が放つ歴史そのものの香りであった。 保管されている物は、その大半が紙であった。天狗の発行する新聞や、ハクタク憑きの人間が記した史書を写した巻物などが台の上に山と積まれ、壁際に据え付けられた書架には装丁された本がずらりと並ぶ。本の虫にとって、此処はまさに極楽であろう。 集められた品々には、稗田も正体を把握していない物品が幾つか混ざっていた。例えば、妖怪だけが用いる紙に『命名決闘法案』を記したもの。数百年前の竹林で発見された、現代仮名遣いと思しき、しかし解読不能の紙片。一度開けば、あまりのつまらなさに命を落としてしまうという呪われた本もある。 そんな古今と玉石の入り混じる蔵の最奥には、分厚い和綴本が八冊、整然と並ぶ書架があった。題名は全て同じく『幻想郷縁起』。見るからに古い、触れるだけでも崩れ落ちてしまいそうなものもあれば、比較的新しく見えるものまでがずらりと並ぶ。 本来ならばそこにはもう一冊、稗田阿求によって編纂された幻想郷縁起が収められているのだが、その場所は今、空白となっていた。 「か、河童が未確認扱いだなんて……!」 「そりゃ、あれだけコソコソ隠れてりゃそうなりますって」 「んむぐ」 蔵に忍び込んだ二人組が、阿求の記した縁起を引っ張り出し、小窓から差し込む光を頼りに読み耽っていたからである。 「ま、まあそれはそれとしてだ。この本、今ひとつ妖怪の恐ろしさを伝えてやろうって気概が感じられないね」 「わざわざ里に下りてまで襲わなくなったからでしょうね。貴方だって、最近は相撲を挑んでないでしょう?」 「今も昔も挑んでないやい。あれは男衆がやってただけだ」 そりゃあ私だって相撲を見るのは好きだけどさ、と言葉を濁しながら呟くのは河童の河城にとり。青と緑の色合いが目に涼しい、川辺に住まう妖怪である。皿や甲羅の代わりなのか、帽子と背負い袋を身に着けている。ぱっと見ただけではただの少女と見紛うような風体であるが、それでもにとりはれっきとした妖怪であった。 「ちょっとした冗談ですよ。天狗の男衆も似たようなものでしたし。まあ、人間に負けるようなヘマは絶対にやらかしませんでしたがね」 「ぬぐぐ」 フフンと不敵に笑うのは、鴉天狗の射命丸文である。ネタを探し回っては有ること無いこと書き立てて、新聞としてばら撒くことで恐れられた、幻想郷のブン屋である。こちらは白のブラウスに黒のスカートという、落ち着いた色合いの服装で、やはり外見は人と大差ない。頭襟と団扇、下駄の三つが、彼女が天狗であることをかろうじて主張しているくらいなものである。 「ともあれ、これで納得は行きましたか? にとりさん」 「んん、まぁそれなりには」 彼女らの目的は紫と同じく、異変の元凶を突き止めることにあった。天狗や河童などの妖怪の山に住まう者たちには、彼女らが奉じる神々によって強化の加護が与えられている。弱き者は強くなり、強き者はより強くなる。信仰心がそのまま力となる、至極単純な、それだけに強力な加護であった。 しかし最近になって、加護によって増したはずの力が失われ始めていた。元より強者であった文などは今も妖怪然とした強さを誇っていたが、そうでない者たちは加護を受けてようやく人並み以上という有様である。下手をすれば、ただの人間と殴り合いの喧嘩をしても負けかねないほどだ。天狗や河童たちは、この状況を異変として認め、直ちに改善せんと動き出した。 何故、このような事態が発生したのか? 調査のために天狗たちが飛び回る中、にとりは将棋仲間の白狼天狗と原因についての議論を交わしていた。白狼天狗の受け持つ役は、侵入者への警告とその撃退を旨とする。それは異変に際しても変わることなく、故にその白狼天狗は退屈していたのだ。 「そういえば、妖怪について記した本があるらしいね。案外、それが原因だったりして」 はたと思いついたことを、にとりが口走ったのが今朝のこと。それがどこへどう伝わったのか、そういうこともあるかもしれぬと評されてしまい、気付けば幻想郷縁起を検める任を帯びる羽目になっていた。しかし河童は、人前に出ることが苦手である。その性質を良く知る天狗側は、一人の助っ人を用意した。縁起の著者、稗田阿求と面識のある、鴉天狗の射命丸文である。 が、これまた何をどう間違えたのか、面識のある天狗を伴って来たというのに、何故かこっそり忍び込む羽目になっていた。聞けば、当代阿礼乙女が記した縁起は、人間以外にも広く公開されているという。阿求の下を訪れ、閲覧のための手順を踏めば、こそ泥のような真似をせずとも見せてもらえるのだ。顔見知りであれば尚更であろう。なのに現状は、これである。 まっこと不思議なことであるよと密かに思いながらも、とりあえず本懐は遂げられそうなので、にとりは疑問を口にしなかった。もっとも文は、人と極力顔を合わせたくないと言ったにとりの意志を汲んで、このようなプランを組み立てただけである。稗田に恩を売られたくないという気持ちが文に無かったと言えば、それは嘘になるのだが。 「……ふぅ。想像してたようなおどろおどろしさは無かったけど、この本が原因ってことはなさそうだね」 「当然です。奥付にもありますが、結構な数の妖怪が監修しましたからね。私も一枚噛んでますし」 適当な頁を開き、そこに描かれた妖怪の姿を文は指し示す。挿絵のために写真を提供したということなのだろう。 「だったら、河童についての情報を流してくれてもよかったのに」 「貴方たち、なかなか写真撮らせてくれないじゃないですか……っていうかにとりさん。河童がどう書かれてるか、読みたかっただけじゃないでしょうね?」 「ぎくっ。そ、そんなこと、ないよ?」 「ふうん? まあ、別にいいですけど」 おかしな汗をかき始めるにとりに、暑いんですか土蔵の中は蒸しますからねなどと嘯きながら、文が団扇で風を送る。周囲に薄く積もっていた埃が、汗ばんだにとりの肌に張り付いた。 「ううぅ……と、とりあえず! 疑問はこれで解決したことだし、さっさと此処から引き上げようか!」 旗色の悪さに耐えかねたのか、にとりは高らかに宣言すると、おもむろに立ち上がり、本棚のある最奥へと歩き出した。 「ええ、そうですね。誰かに見つかっても面倒ですし」 それをちらりと横目に見送り、文はしばし目を閉じ黙考する。 実のところ、文は異変の原因と呼べそうなものに、一つだけ心当たりがあった。思い当たった切っ掛けは、あらゆる妖怪が力を失いながら、しかし一人として消滅することなく存在し続けている、その特異性であった。 人が妖怪を否定し、忘却の彼方へ追いやろうとしたならば、こうはならない。そうなってしまえば、妖怪はただ、為す術もなく消えるのみである。であれば、人々の捉える妖怪の在り方が変わったのだと考えるのが妥当であろう。 本来、妖怪は人を攫って食らうものであるが、近年では幻想郷の人間がそのような目に遭うことは無くなっていた。森や山に分け入り行方知れずになった人間も、多くは誰かの助けを得て無事に帰ってくるような時代である。外の世界の人間が代わりに犠牲になっていることは、暗黙の了解であった。 表沙汰にこそならないものの、妖怪は今も昔も変わらず、人間を食らい続ける存在である。だというのに、何故今頃になって、妖怪の在り方に変化が生じるのか。思い当たる答えは一つ。人と妖怪の平等を説く、尼僧の存在である。 人と妖怪を真に平等に扱おうとする人間など、普通に考えれば居るはずもない。居たとしても、そんな人間は何かが欠けているか、何かに長けているかのどちらかである。尋常の人間ではないのだ。事実、文の知るその手の人間は、人間らしさに欠けていたり、妖怪退治の術に長けた者たちばかりであった。博麗霊夢などがその最たる例であろう 問題の尼僧が幻想郷に根を下ろしたのは、半年ほど前のことになる。彼女の言葉は、あまりにも常軌を逸していた。 「お待たせしました。それじゃ、出ましょうか」 奥の暗がりから帰ってきたにとりに首肯を返しながら、文は考えを巡らせ続ける。この調査によって、阿求が妖怪の目を盗み、後から手を加えたという可能性は潰えた。これならば、縁起を作る際に情報の提供と監修を行った文も、責任を追及されずに済むというものである。だが、それは最初からわかってもいた。問題は稗田家の土蔵の中ではなく、里のはずれの命蓮寺にこそあると、文は睨んでいたのだから。 命蓮寺に住まう尼僧、聖白蓮は、人間と妖怪の平等を説き、妖怪を迫害するべからずと常日頃から叫んでいた。命蓮寺の一味は長い年月を封じられて過ごしていたらしく、その主張は世相と全く噛み合わぬものである。しかし、だからこそ新聞のネタには持ってこいだと、文は取材を敢行した。その成果を新聞としてばら撒きもした。それが今になって、おかしな芽を出し始めたのである。 もし文の推測が的中していたなら、文自身も異変の片棒を担いだことになる。白蓮の思想に同調する人間が現れるとは思わなかったなどと、弁解したところで意味は無い。考えられる最善手は、秘密裏にこの異変を解決することであったが、殺生が禁じられている以上、考え方を改めさせるより他に方法は無い。その一点が、文にとっての悩みの種であった。 「あっ」 「……ん?」 果たしてどうすればこれを解決出来るだろうかと、文が思い煩いながら扉に向かっていると、不意ににとりが声を上げる。足元の暗さに何ぞ躓きでもしたのだろうかと、面を上げて振り返ろうとして、文も気付いた。観音開きの土蔵の扉が、何者かによって開かれ始めていたのだ。足元に伸びてくる光の筋は、二人が身を隠す間も無く広がってゆき、 「あら、第三容疑者」 「おや? 天狗に河童じゃないか」 「うげ……」 二つの人影が、光を背負って現れた。その表情は逆光の所為で伺えないが、シルエットだけで判別が可能なほどに特徴的な二人である。日傘を掲げた、ゆったりとした衣装の影が八雲紫。頭から二本の角を生やした背丈の低い影が伊吹萃香。どちらも、進んで顔を合わせたいとは思えぬ妖怪であった。 「潜入取材でもしてんのかい? 後ろの河童と一緒にさ」 「いやー、まぁー、そのー……あはは、どうもどうも」 文の後ろで小さくなって隠れていたにとりが、頭を掻きながらひょっこり顔を出す。萃香のことを苦手とするのは、にとりも同じであった。大昔、鬼が山を治めていた時の感覚を、鬼が山を去って久しい今も引き摺っているのだ。 「この状況が潜入取材だなんて、そんなことあるワケないじゃない」 開け放たれた扉の前に萃香を待たせ、ついでに日傘を預けると、蔵の奥に向けて紫が歩き出す。 「はしっこい白黒がこそこそやることなんて、盗みと相場が決まっている。でしょう?」 「盗みなんて働きませんって。どこぞの人間と一緒にしないでください」 慌てて文が書架に背を預けるようにして道を譲ると、にとりもそれに倣った。まるで腫れ物か何かのような扱いであるが、文にはそう振舞ってしまうだけの後ろ暗さがあった。この異変を解決するために紫が動いていることを文は知っていたからである。 そうして開けた道を悠然と通過し、そのまま土蔵の最奥、幻想郷縁起の並ぶ書架の前まで進んだ紫は、くるりと体ごと振り返り、文に問い掛けた。 「それで、何か問題は?」 「え? あ、いえ、特におかしなところは……」 まさか質問が飛んでくるとは思っておらず、文は真っ正直に答えてしまう。 「そう。問題はなかったのね」 返答を得て頷く紫に、しまった、と文は舌打ちをした。 先ほど紫は、文たちを見て第三容疑者と口走った。第一、第二が誰であったのかは不明だが、文とにとりのどちらかを異変の発生に関係ありと目しているに違いなかった。そして文には、心当たりがある。追及を恐れるならば、自分にはわからぬととぼけ、紫に縁起を検めさせ、その隙に逃れるべきであった。 「それじゃあ次は、あなたの番」 紫の狙いは既に本から文へと移ったらしく、書架を顧みることもなく文の下へと歩み寄る。ふと、自分と紫の間に遮るものがないことに気付き、もしやと出口の方へ視線をやると、いつの間にやら蔵の外に逃れたにとりが植木の陰からこちらを眺めていた。 ――おのれ薄情者め、後で覚えてろよ! 羨望と怨念が文の胸中に沸々と沸いてきたが、それよりも今は我が身である。どうにかしてこの場を切り抜けねばと、文は両手を紫に突き出しつつ、出口に向けて後退る。 「えーっと……盗みは、してませんよ? ここに来たのは、にとりさんの発案ですし」 「んなっ」 一蓮托生、死なば諸共。そんな思いも込めて、勝手に蔵に入ったことを咎められている風を装うが、 「わかってるくせに」 性悪な笑みは、依然として文だけに向けられていた。 ――嗚呼、やはり異変が絡んでくるのか! 暗澹とした心持ちになりながら、この場から逃げるべきか否かと、文は考える。小窓はあくまでも通気と採光のためのものであり、人が通れる代物ではない。逃げるには、たった一つの出口を使うほかないのだ。しかしそこには、仁王立ちする萃香の姿。その小さな総身からは、文を決して逃しはしないという、強烈な気迫が漂っていた。実際、その気になれば出口を塞げるだけに性質が悪い。 ――普段は昼行灯な呑んべぇのくせに……! 神の加護があるとは言え、この二人が相手では分が悪すぎる。ならばせめて心証だけでも悪くすまいと、文は胸中密かに毒づきながら紫の前で両手を挙げた。 人と妖怪の間に横たわる溝は、昔に比べれば随分と狭くなった。妖怪からの歩み寄りがあり、それを人が受け入れたことで、少しずつ、少しずつ、両者の関係が変わっていったからである。 一つには、力を誇示する方法が限定されたこと。人の命を奪わなくなった代わりに、その特殊な力でもって何かしらおかしな事件を起こす。それは平穏な幻想郷においては、一種の催し物として受け入れられた。 一つには、表舞台に姿を現す妖怪の、その姿かたちが人に似通っていたこと。あまりにもおどろおどろしい姿で出てこられては、たとえ友好的な態度を示されても、交流の意思は萎えてしまう。その点、多少不穏当な発言が見られるものの、人の姿を模した妖怪は人にとって受け入れ易いものであった。 一つには、妖怪退治を旨とする者たちが、異変を解決した後は妖怪たちと仲良く酒盛りなどをしていたこと。敵味方に分かれて争っていた人妖が、事が済むなり杯を交わすその姿は、少なからぬ衝撃を人々に与えた。 無論、それらの変化を額面どおりに受け取らぬ者も少なくはなかった。自制の利かぬ妖怪もいるのだとか、人の姿に化けるのは油断を誘うためだとか、度々宴会場として用いられた博麗神社に至っては、妖怪に支配されてしまったのではと噂される始末である。 しかし、それらの意見も、里の者たちが妖怪との交流を直截持つようになるにつれ、段々と薄れて消えていった。今では妖怪を常連客として扱う店もちらほらと増え始め、剛の者ともなれば、自ら妖怪の屋台に出向いて飲み食いをするくらいである。 それでも人は、恐れを捨て去ることはなかった。 長く生きた妖怪に知恵で勝る方法は無く、強い肉体を持って生まれた妖怪に力で勝る方法も無く、それがたとえ人の形をしていようとも、一皮向けばまったく別の、得体の知れない何者かであることを、皆、重々承知していたからだ。 「怯えることはありません。彼女らは討ち果たされるべき存在ではなく、か弱い、守られるべき存在であるのですから」 そこに現れたのが、長きに渡り封印されてきた魔女、聖白蓮である。 「かつての日々を共に過ごし、しかし別たれ封印された私たちが、千余年の歳月を経て、今、再びこうして共にある。人が人を必要とするように、彼女らも私を必要としてくれたのです。そう、人と妖怪は分かり合えるのです!」 初めのうちは、皆冷ややかな反応が目立った。それもそのはず、相互理解を訴えるのが人をやめた魔女であり、その周囲を固めるのもまた妖怪ばかりであったのだから、罠を疑うなと言う方が無茶であろう。 しかし、どこにでも一人や二人は居るものなのだ。力を持たぬ人間にありながら、常識に囚われぬ者たちが。彼らは妖怪に恋焦がれるあまり、人里離れた僻地で隠遁生活を送っていた奇人変人である。彼らを人里近くの命蓮寺へと招き寄せたのは、ほかでもない。白蓮の主張を掲載した、文々。新聞であった。 奇人変人たちが何度も足繁く通い、しかし何の被害も受けていない様子を見ていると、常識的な人間たちも『案外大丈夫なのではないか』と思うようになる。安全だとわかってくると、今度は寺の中が気になってくる。ちらりと中を覗いてみれば、少々ズレてはいるものの、白蓮の論調自体は至極まともなものであった。白蓮の人柄に惹かれる者も居たが、多くは興味を失っていった。 白蓮の話が終わると、場は集会場の様相を呈する。白蓮の話について討論するもよし、日々の雑事について語らうもよし、座を立って帰るもよし。そんな穏やかな空気の流れる本堂の片隅には、いっそ場違いな存在があった。声高に持論を主張し、周囲の目を惹き付ける、奇人変人の一団である。 『腫れ物に触れるような扱いが、どれほど彼女らを傷つけてきたことか!』 『そうだ! あんな可愛い女の子が、か弱くないはず無いじゃないか!』 『おうとも! 我々日本男児が彼女らを守らずして、一体誰が守ると言うのだ!』 彼らの主張は、女性の妖怪以外を一切無視した、偏り歪んだものであった。 妖怪の真の恐ろしさを知る者であれば、歯牙にもかけず一笑に付すところである。また、彼らの狂乱振りに堪えかねた者たちも、足早に命蓮寺を離れていった。しかし彼らの論は、可憐な妖怪少女を己の胸に収めたいと思う者にとっては、まさに理想そのものであった。 『彼女らは妖怪だ、妖怪が人より弱いはずがない』 本心ではそう思っていても、惹かれるものを感じてしまうのだ。そうして彼らの話に耳を傾けるうち、頓狂な人間の弁に毒されてゆく。耳を傾ける者が増えれば、興味を抱く者も増える。奇人変人の一団は、徐々に徐々にその勢力を拡大してゆき、遂には命蓮寺の本堂を埋め尽くすまでに至った。 彼らが理想として共有する世界像。その甘美な夢こそが、妖怪を冒す毒の正体であった。 「あんな口約束で逃がしちゃって良かったの?」 日が傾いたかと思えば、あ、という間に山際に隠れて見えなくなる。そんな秋の黄昏時を、紫と萃香はのんべんだらりと歩いてゆく。二人が行くのは博麗神社へ続く山道。もっともそれは道とは名ばかりの、足元の悪い獣道であるのだが。 「大丈夫でしょう。自分で撒いた種は自分で枯らしておきたいでしょうし」 「刈り取るわけじゃないんだ」 「また生えてきたら困るじゃない」 稗田の土蔵において、紫は文に制裁を加えることもなく、ちょっとしたお願いをしただけだった。紫のお願いとは、翌日の命蓮寺で起こる事件を記事に起こして広めて欲しいという、ただそれだけのことであった。 人の心が妖怪を弱らせたと言うのなら、人の心の奥底に眠る妖怪への恐怖を呼び起こし、力を取り戻すのが道理である。稗田の土蔵を後にして、こっそりと確かめた命蓮寺には、およそ四十人程度の人間が集まっていた。明日の襲撃を経て、彼らが異口同音に妖怪の恐ろしさを語ればよし、語られずとも写真付きの新聞をばら撒けば多少の成果は上がるだろう。天狗の広める風聞は、非常に強い力を持つ。例えそれが眉唾物であろうとも、否とするだけの確証が無ければ『或いは』と疑心を抱かせてしまうほどに。紫はこれをして、事態の改善を図ろうと考えていた。 「上手く行くも頓挫するも、今夜のあなたの手腕次第ね」 「そこは紫の口の上手さ次第だろうに」 木の根を跨ぎ下草を踏みしめ、低木を押しやり道を拓く。普段であれば空を飛ぶか、或いは空間を繋げて直截その場に出るところであるが、今は少しの力も惜しかった。妖怪の力を取り戻すためにも、残された幾許かの力は効果的に使わねばならないのだ。 「……でも、よくよく考えてみるとさ。種を撒いたのって、実際は寺の連中だよね?」 「では、天狗は水を撒いた……ということにしておきましょう」 「んー、まぁ、私は何でもいいけどね。それこそ酒さえ呑めればさ」 瓢箪の中身をぐいと呷りながら、萃香は紫の後を追う。もう暫くを道なりに行けば、そこは博麗神社の裏手である。 ――霊夢は、紫の口車に乗ってくれるだろうか? 「もし乗ってくれなかったら、その時は宜しくね」 紫は気楽に言い放ったが、萃香は全く気乗りしなかった。鬼と人とは言え、居候と家主という関係に変わりはない。居候が家主に牙を向けば、たとえ事が成ったとしても、その後に待つのは恐るべきお仕置きである。 もしや、事態の深刻さを目の当たりにさせるためだけに、紫は己を引き回したのではあるまいか。そんな疑心が、萃香の心に芽生えたかと思うと、急速に成長し、確信へと変化した。実情を目にしてしまえば、明日は我が身である、最早知らぬ存ぜぬで通せはしない。それを踏まえた上での旅路だったのでは、いや、そうに違いない。なんて嫌らしい奴だと、萃香は臍を噛む。 だが、それでも萃香は紫について行かざるを得なかった。妖怪が再び力を取り戻すには、強い人間の助力が必要不可欠であり、萃香もまた、それを深く理解していたのだ。 「ただいま帰ったよー」 「あーん? あぁ、おかえり萃香。後ろのは出てけ」 「ひどーい、ゆかりんショックー」 神社横手の縁側、そこに据え付けられた沓脱ぎ石に、ぽぽいぽいぽいと靴を脱ぎ捨て、萃香と紫が居間へと上がり込む。霊夢はそれを、やる気なさげに煎餅などを齧りつつ出迎えた。 「萃香もそんなの拾ってこないの。ちゃんと元の場所に捨ててきなさい」 「いやまあ、それが出来たらそうしてるんだけどねえ」 「それでも友達? ひどいわー、許しがたいわー」 怒りからか哀しみからか、紫がくねくねと身をよじり始める。途端、卓袱台は左右に細かく震え、湯飲みの水面にはさざなみが立ち、箪笥の上の木箱までもがカタカタと鳴り始めた。実害は無いが、鬱陶しいことこの上ない。 しかしこの状況を、霊夢は甘んじて受け入れる。反応すれば、それこそ紫の思うつぼであるような、そんな気がしたからだ。萃香も霊夢の意思を尊重してか、無言のまま卓に着いて煎餅に手を伸ばす。 ――じきに飽きるか、力尽きるでしょ。 それが霊夢の見解であった。 「実はね、霊夢。今日は大切なお願いがあってここまで来たの」 だが、二人の冷ややかな反応に微塵も動じる様子を見せず、紫は体をくねらせながら用件を切り出した。 「何? 厄介ごとならお断りよ」 紫の足先が徐々に畳にめり込みつつある様を見て、そのまま貫通して地面に埋まってしまえ霊夢はと思う。 「あぁ、そうだ。萃香、夕飯食べる? 一昨日作ったあんたの分が残ってるんだけど」 「……一昨日は、ちょっと厳しくない?」 「冗談よ。食べるんなら、今から作るけど」 「はいはーい、私も食べまーす!」 「あんたは家に帰って稲荷でも食ってろ」 「ひどい! ひどいわ!」 紫の動きが更に激しさを増し、日暮れ時の暗さも相俟ってか、右向きと左向き両方の姿が像が見え始める。その速度は、残像を残す領域にまで至っていた。それをやはり冷ややかに無視しようと霊夢は、しかしどこかからきな臭いにおいが漂ってきたことに気付いた。ふと紫の足元を見れば、白い煙が細く立ち上っている。このまま放っておけば、地面に埋まるより早く畳が燃え始めるかもしれない。折角地震から復興したというのに今度は火事で倒壊など、笑い話にもならないと、霊夢は折れることにした。 「あぁ、もう……! わかった、わかったからその動きをやめなさい、紫」 霊夢の声にピタリと身動きを止め、しかしくねくねの構えは解かず、紫は問う。 「……ごはん?」 「あぁはいはい。ごはんやるから、大人しくなさい」 「やーん、だから霊夢って大好きー」 「はぁ……」 薄く変色した畳を離れ、紫は早速卓に着く。霊夢は、並んで座る萃香を一瞥すると、 「萃香も、食べるでしょ? 夕飯」 「あ、うん、食べる。……なんか、ごめんね?」 「いいわよ、別に」 ふんと一度鼻を鳴らしながらも、二人分も三人分もさして変わるまいと、御厨に向かった。 「さて、と……紫、そろそろ用件を話してくれないかしら?」 「んえ?」 卓袱台にべったりと頬をつけていた紫が、頭を少しだけ浮かせつつ、寝ぼけた声を出す。 「……」 その反応にすうっと目を細めた霊夢が、先ほど三人分の食器洗いを済ませたばかりの冷え切った手指を、紫の首筋に遠慮会釈なく押し当てた。 「ひゃっ――」 瞬間、紫の背筋がぴんと伸びた。ぐんと折り曲げられた膝は卓袱台の底面に衝突し、がんと硬い音を立てる。 「~~~っ!」 畳の上を転がることで霊夢の魔手から逃れつつ、膝を抱えて悶絶する紫に、霊夢はもう一方の手を見せつけながら微笑み掛ける。 「起きた?」 「お、起きた! 起きたから!」 だからその手を下ろしてくれと、身振り手振りで紫は乞う。この様子なら二度寝をするようなことはあるまい。霊夢はそう判断し、紫の対面に着座した。 「とりあえず、先に尋ねておくけど」 「ん、なあに?」 「一昨日萃香を連れ出したの、あんたよね?」 「ご明察。ちなみにそれに関係したお話よ」 「面倒そうねえ」 卓袱台の横にごろり寝転がった萃香を見遣り、霊夢が呟く。相当疲れが溜まっていたのか、先の騒ぎでも起きる気配を見せない。酒の香が漂っていたことから、単に酔って寝こけただけのようにも思えたが、いずれにせよ起こすことはないだろうと霊夢は思っていた。そもそも用件を持ってきたのは紫なのだ。 「ねえ、萃香のことは起こさないの?」 「起こさない。話があるのはあんたなんでしょ?」 「……好感度の差かしら」 聞き取れぬほどの小さな声で、紫がぽつり呟く。 「え? 今なんて?」 「気にしないで頂戴。それじゃ萃香のことは捨て置いて、本題に入りましょうか」 「? まあ、いいけどさ」 障子の外に目を向ければ、既に日はとっぷりと暮れていた。不明瞭な発言を逐一追及しようものなら、相手は紫である、更に意味不明な言葉でもって返してくるに違いない。下手をすれば、本題が終わるより早く朝日が昇るかもしれない。そんなのは御免であると言わんばかりに、霊夢は話を促した。 紫は異変の全容と自身の意図を、包み隠さず話すことにした。隠し立てしたところで、相手は勘の鋭い霊夢である。事が成る前に狙いを察知し、邪魔立てするに違いなかった。 「――で、紫はそのおかしな主張を叩き潰したいと。妖怪が力を取り戻すために」 「そういうこと。どう? 霊夢にとっても悪い話じゃないと思うんだけど」 「そりゃまあ確かに、あの寺は憎き商売敵だけどさ」 ゆるく握った拳を口元に当て、うーむと霊夢は唸り声を上げる。 「妖怪が消えて居なくなるわけじゃないんでしょう? だったらいいんじゃない? 危険性は減るわけだし、私一応人間側だし」 博麗神社に至る参道は、幻想郷の外側を向いた形で作られている。遠い昔において、それは村落へと続く道のりであったが、しかし今はどこへも通じていない、無用の長物となっていた。精々、幻想郷に迷い込んできた人間を送り出す時に使う程度である。 では、幻想郷内における人里への道のりはどうなっているのかと言えば、こちらはまったくもって整備されていない。空を飛べる者はそれでも良いが、空を飛べぬ者は獣や妖怪が飛び出てくるかも知れぬ山中を長々と歩かねばならぬのが現状である。畢竟、正月であろうとも危険を冒してまで参拝しようという殊勝な人間は滅多に居らず、それ故一年を通しても博麗神社の得られる信仰は微々たるものであった。色々な妖怪が霊夢を訪ねて来ていたことも、人を遠ざけた一因であろう。 「妖怪が弱くなったってみんなが知ったら、参拝に行ってもいいかなーって、思いそうなもんじゃない」 「妖怪なんて居なくても、普通は道もない山には踏み入らないわよ」 「む……そういうもんなの?」 「そういうもんなの」 むう、と唸って霊夢は首を傾げる。 霊夢は生まれてこの方、一度も道に迷ったことがない。故に道に迷うということがどれほど危険なことであるかも承知していない。 『見通しが利かず、目印になるようなものも無い場所には、おいそれと立ち入るべきではない』 それが先人たちの訓戒であり、子供の時分に叩き込まれる一つの常識でもあった。これを真っ正直に守ろうとすれば、不案内な山奥の神社などは、目指そうと思うこと自体が間違いな場所であったのだ。 「あ、そうだ。誰か案内するヤツを置けば解決するんじゃないかしら? ほら、どこぞの竹林の薬師みたいに」 迷いの竹林に居を構えた永遠亭、その一角に設けられた診療所。その主こそが霊夢の言う薬師、八意永琳である。 薬師としての永琳は、腹立たしいまでに優秀である。しかし永遠亭に辿り着くには、迷いの竹林を抜けねばならない。一度方角を見失うと、悪くすれば死ぬまで竹林から出られなくなる。そのような場所を通過しなければならないのだ。 そこで登場するのが霊夢の言うところの案内役、竹林に住み着いた蓬莱人である。藤原妹紅と名乗るその蓬莱人は、見た目によらず長い歳月を竹林で過ごしてきたらしく、永遠亭まで迷うことなく導いてくれるというのだ。 「あんたも萃香も、今日は歩きで来たんでしょう? だったら出来るわよね、案内役」 「私や萃香に任せたら、うっかり隠しちゃうかもしれないわよ?」 「その時はその時」 案内される側にしてみれば堪ったものではないが、霊夢にとっては他人事ということなのか、あっけらかんとした答えを返す。 「そもそも医者が居ないんだから、人が来るかも怪しいでしょうに」 「あー、そこは盲点だったわ。まずは医者が必要か」 或いは、ただの冗談だったのかもしれない。紫の指摘を受けた霊夢は「手間が掛かりすぎるからこれは没ね」などと言いながら、小さく肩をすくめて見せた。 「……で。あんたは私に何をさせたいわけ?」 ふと気付けば、本題を聞くどころか脱線させていたことに霊夢は気付き、これではただの間抜けではないかと反省しながら、紫に水を向ける。 「あら、やってくれるの?」 「やるかどうかは聞いてから決めるわよ。断るにしたって、段取り聞いておいた方が潰しやすいでしょ?」 「やる気を出してくれて嬉しいわ」 既に引き受けて貰ったつもりでいるのか、紫は上機嫌そうな声色で話し始める。その様を、会話が噛み合わないのはいつものことかと割り切りながら、投げ遣りな返事で霊夢は応じた。 命蓮寺が人里近くに居を構えた当初は、話を聞きに来る人間など、それこそ数えるほどしか集まらなかった。ひょっとしたら、度胸試しか何かのつもりで足を踏み入れただけかもしれない。切っ掛けがなんであれ興味を持って貰えれば万々歳と、どのような参拝客も拒まず受け入れてはいたものの、日を跨いで同じ顔を見ることは非常に稀なことであった。 説教臭くなりすぎているのだろうか、それとも話が退屈すぎるのだろうかと白蓮は思い悩んだ。考えてみれば、自分の世代と今の世代の間には千年にも及ぶ時間の隔絶が存在するのだ。人や妖怪の気性は、自分の知る時代に比べて随分と穏やかになっていた。 ――橋頭堡となる必要は、もう無いのかもしれない。 そんなことを考え、寝付きの悪い夜を過ごしたこともあった。しかし、朝が来て、自分を慕ってくれる者たちと顔を合わせるたび、自分は間違っていなかったのだとも思えてくる。白蓮の信念は危ういところで揺れながらも、辛うじて均衡を保っていた。 白蓮の迷いを知ってか知らずか、ある日、天狗が取材を申し込んできた。射命丸文と名乗ったその天狗は、口調こそ丁寧ではあったものの、どこか人を食ったようなところがあった。決して弱味を見せてはならぬ。白蓮は直感し、迷いを押し殺して己の信念を文に説いた。 そうして出来上がった新聞は、白蓮のことを理想主義者と評しながらも、その信念を曲解することなく掲載していた。思ったほど悪く書かれてはいなかったが、良くも書かれてはいない。状況は何も変わらないだろうと、白蓮は考えていた。 しかし、予想外のことが起きた。文の新聞が発行されてからこちら、常連とも言うべき存在がちらほらと現れ始めたのである。ほんの数人ではあったが、白蓮たちにしてみれば、心強い同志を得た思いであった。迷うこともなくなっていった。 常連という存在が呼び水となったのか、参拝者は次第に数を増してゆく。同じ顔を見ることも増えてきた。人が増えてきたせいか、若干の息苦しさを感じるようになってもいたが、正道であるがゆえに生じる苦しみと考えれば、どうということは無かった。 ある日、再び予想外のことが起きた。本堂の片隅を定位置とする常連の一団が、周囲に聞こえる大音声で議論を戦わせ始めたのだ。初めのうちのそれは、白蓮と同じく妖怪の保護を訴えるものであったが、次第に論点は誰を守りたいかという話へとずれ込んで行き、 『あの子は発展途上だからこそいいんだよ!』 『おねえさんに愛される幸せを知らぬとは、愚かなり』 『ゆかりんが世界一かわいいよ』 傍から見れば、珍妙極まりない妖怪談義が始まったのである。一体何の悪ふざけかと周囲は見守っていたが、語らう当人たちは真面目も真面目、大真面目である。しかも、己の弁こそが唯一絶対の正義であると信じて疑わないのだ。畢竟、話し合いは白熱の一途を辿る。ひどく五月蝿く、はた迷惑であった。 「もう少し、声を抑えていただけませんか? 他の方々が何事かと思いますので……」 追い出すことも出来たが、少し熱くなりすぎて前後の見境がつかなくなっただけであろうと、白蓮は彼らを信じることにした。一団は声を抑え気味にはしたものの、同じ議論を再び始めた。 それからしばらくの間、命蓮寺を訪れる人の数は緩やかな減少傾向にあった。常連の一団が醸し出す、尋常ではない雰囲気。それが原因であろうことは誰の目にも明らかだったが、彼らを追い出すことを白蓮はしなかった。彼らの心に根ざしたものが邪まなものであろうとも、思うところは同一であろうと信じていた、或いは信じていたかったからであろう。 どのような甘言を弄し、同志を増やしていったのか。気がつけば一団は、参拝客の大勢を占めるようになっていた。もはや命蓮寺の本堂は、彼らに乗っ取られたと言っても過言ではなかった。 日の傾きと共に宵闇の色を濃くしてゆく命蓮寺の堂内。すっかり秋めいた涼やかな風の中に、いずれ訪れる冬の気配を感じられる時節だというのに、この場所だけはいまだに夏の熱気を擁していた。 「うぅ、暑苦しい……。どうして、こんなことに……」 「これも修行だと思って耐え凌ぐのです、星」 「うぐぐ……あの薄情者どもめ」 本堂の最奥に立つ寅丸星が、金と黒の入り混じった髪を揺らしながら、額に浮いた汗を拭う。星の発言を窘めたのは、その斜め前方に座する白蓮であった。二人のほか、命蓮寺には五名の妖怪が籍を置いていたが、今は不在なのだろう。堂内にその姿を見つけることは出来なかった。 「しかし、彼女らが居ると更に酷くなるだけですから」 本堂を満たす喧騒に紛れそうな、星にしか聞こえないくらいの小さな声で、聖が呟く。ここに居ない五名の妖怪は、席を外すよう白蓮に頼まれたが故に不在であったのだ。 「それはまあ、そうなんですけどね」 そしてその判断の正しさは、星自身、十二分に思い知っていた。 熱気の源は、命蓮寺に集った人々であった。彼らは堂内に幾つもの円を作り、それぞれが好いた妖怪の名を、その魅力を語ることに汲々としていた。生み出された熱気は堂内を満たし、その熱が彼らを更に熱くさせる。人が多い所為か、湿度も高い。堂内より漏れ出た熱気は、命蓮寺の周囲にまで及んでいた。 その中でも特に暑苦しいのは、白蓮たちの近くに腰を据えた一団である。彼らは口々に、命蓮寺に住まう妖怪の名を挙げていた。 「……聖。私も遁走していいですか?」 「何を言うのですか、星。貴方は毘沙門天様の代理なのですよ」 「いや、そういう目では見られてないと思うんですけど」 星は毘沙門天の弟子であり、代理である。故に人々の視線を受けて立つことには慣れていたはずなのだが、最寄の一団から向けられる視線はどうにも心をざわめかせる。 ――似ているのだ。聖を封印する切っ掛けを作った、あの人間たちの眼差しに。 憑き物に取りつかれているかのような、熱に浮かされているような、そんな、正気を失った瞳。彼らが口にする願いは妖怪の排斥ではなく妖怪との共存であるが、それでも快いものには感じられなかった。 『星ちゃんとナズナズの二人に甲斐甲斐しく世話されてえ』 『じゃあ俺はひじりんといちりんで両手に尼』 彼らの弁を共存の願いとは認めたくないという、星の思いもあったのだろう。 「どうして、こんなことに……」 ――こんなものが、我々の望んだ未来なのだろうか? 憂いと共に、星は無意識に溜息を零していた。 命蓮寺に集った面々は、日の傾く頃になってようやく己の住処へと引き上げてゆくのが、このところの常であった。 「皆さん、そろそろ日暮れのお時間です」 この日もいつもと同様に、白の障子紙が朱の色に染まり始めたのを見て、聖が皆に呼びかけた。 「帰りが遅くなってもいけませんし、今日はこの辺りでお開きに致しましょう」 堂内に一度静寂が戻り、皆は聖に目を向け、朱に染まる障子へと視線を移したのち、互いに一言二言交わしながら腰を上げ始める。 「参拝者の方々に手間をかけさせるわけには」 星が殊勝な台詞を吐きつつ、正面の障子を大きく左右に押し開いた。実際のところは、一刻も早く新鮮な空気を吸いたかっただけであろう。風の運んでくる清涼な空気を存分に堪能したところで遠方を見渡せば、夕日に照らされた山の木々が風にざわざわとなびき、真っ赤に燃え上がっているように見えた。 だが、この景色もいっときの事。秋の日はすぐに落ちる。日が落ちれば、今宵は三日月。人の目が明かりとするにはいささか心もとないだろう。それに、たとえ灯りを持参していたとしても、参拝者たちには日が暮れる前に命蓮寺を発たねばならぬ事情があった。 『不断の努力を行わずして、どうして理想が実現出来ようか! ということで、まずはお知り合いになるところから!』 夕暮れの時間は、逢魔が時とも呼ばれる。その名が示す通り、この時間を境に妖怪が活動を始めるのだ。出会いを求める者たちにとって、この時間を逃す手はなかった。 ――出会いがしらに襲われるのが関の山ではなかろうか? そのようなことを星は思うが、己が口を出すようなことでもないと思ってもいた。万一彼らが妖怪と番い共存の道を拓いたならば命蓮寺としては願ったり叶ったりであるし、例え彼らが襲われたとしてもそれは自業自得である。命蓮寺の外で起きたことなど、知ったこっちゃないのだ。いっそ食われてしまえという思いも、少しはあった。 「足元が暗くなっておりますから、お気をつけください」 ――しかしまあ、今の幻想郷なら、命までは奪われまい。 ならば好きに遊ばせておくさと、堂内から参拝者を送り出そうとしたその時。 「こんなところでこそこそ悪巧み? 感心しないわねえ」 境内に、二つの人影が出現していた。 正門に至る道を遮る影の一つは、日傘を手にした金髪の女性であった。西日が傘に遮られている所為でその表情は判然としないが、身辺に漂う胡乱な気配から、人間でないことだけは良くわかる。もう一方は瓢箪を手にした小柄な少女であった。背丈は寺子屋に通う子供と大差ないだろうが、その頭には二本の角が左右に生えており、やはりこちらも人間ではないとすぐに知れた。 「――八雲紫と、伊吹萃香か」 「あら、どこかで会ったことがあったかしら?」 「貴方がたのような妖怪を、この地で暮らすものが知らぬはずもないでしょう」 星は彼女らと面識を持ったことはない。滅多なことでは命蓮寺を離れないのだから、当然と言えば当然であった。 毘沙門天の弟子であり代理でもある星は、一般的な寺社における偶像の役割を任ずる。それは、平たく言えば生きた毘沙門天像。それがあちこちをふらふらと渡り歩いていたのでは周囲に示しがつかぬと、星は自らの行動に枷を課していた。ナズーリンから聞き及んだ情報から、合致する人物の名を挙げただけである。 「境界を操る大妖怪と、巫女と同棲している鬼が、当寺になんの御用ですか」 「大したことではありませんわ。ただちょっと、人間が調子付いていると聞いたので口減らしなどしようかと」 命蓮寺の方針は、人も妖怪も等しく受け入れるというものであった。誰も彼も、というわけではない。人、或いは妖怪に危害を及ぼそうとする者は、流石に招き入れるわけには行かない。そのような輩が現れた時は、可能であれば話し合いで、それが駄目なら力ずくでお引取り願うのが命蓮寺の作法であった。 「彼らはただ、妖怪を守りたいと思っているだけです。調子付いてなど……」 庇い立てする義理はないが、参拝者を守ることは星の義務である。少々不本意ではあったが、これも我がお役目と己に言い聞かせ、槍を構えた。 「それを思い上がりと言わずしてなんと言う。人間は人間らしく、夜の闇の怯えていればいいものを。――萃香」 退く気は無いのだろう。紫が一声掛けると、無言のままじっと立っていた萃香が、数歩を前に踏み出し口を開いた。 「あんたらに恨みはないが、ま、これも旧友の頼みだ。断るわけにはいかないんでね」 鬼の怪力は尋常ではない。本堂の入り口で迎え撃とうものなら、単純に拳を打ち込まれただけでも巻き添えが発生しかねない。戦いは免れ得ぬと判断した星は、大事をとって境内へと下り、改めて槍を構える。それでも二人の間には、槍の間合いにも、拳の間合いにも遠すぎる距離が横たわっていた。しかし空気は、肌を刺すような、ぴりぴりとした緊張感に満たされてゆく。妖怪と妖怪の戦いである。人の間合いが通用しようはずもない。家路につこうとしていた参拝者たちは、突然発生した剣呑な状況をただただ見守るばかりであった。 『す、萃香ちゃーん!』 不意に、そんな参拝者たちを掻き分けて、本堂から飛び出す影があった。 『僕は、萃香ちゃんと、お酒使ってちゅっちゅしたぁーい!』 胡乱なことを叫ぶ、正気を失ったとしか思えぬ男であった。男は萃香の姿を瞳に映すなり、履物も履かぬまま本堂を飛び出し、星の脇を駆け抜け、一直線に駆け抜けた。 「おお?」 「ば、戻りなさ――!」 萃香は呆気に取られ硬直し、星は手を伸ばし引き止めようとするが、男の足は思いのほか早く、反応の遅れた星の手は服の裾を掠めるだけに留まった。 『す、い、か、ちゃーん!』 男はあと数歩踏み込めば萃香に手が届くという距離にまで迫ると、奇声を発しながら地を蹴り跳躍した。手のひらを頭上で合わせたその姿勢は、まるで水に飛び込もうとするかのようである。いつの間にか、彼は褌一丁になっていた。彼が跳躍した地点に目を移せば、脱ぎ捨てられた服が落ちている。 『あの体勢で、どうやって服を脱いだのだ!?』 『あの身のこなし……聞いたことがある』 『知っているのか、雷電!?』 本堂の方角で小芝居が始まりかけるが、 「一名様、ご案内」 突如開いた空間の裂け目に男が飲み込まれたことで、話す言葉はぷつりと途絶えた。 「ううん、味は今ひとつといったところかしら」 男を飲んだ空間の隙間は、細く閉じられていた。だが、完全に閉じられているわけではないらしく、湿った水音とごりごりと骨を食むような音、そして血臭を含んだ重たい空気が隙間の外へと漏れ出していた。 紫を除き、身動きする者は誰一人として居ない。今でこそ物音しか聞こえてこないが、男が隙間に飲まれた直後は、まるで豚を縊り殺すかのような声が上がっていたのだ。断末魔は、最後の最後まで人語を成さなかった。 あの中で、何が行われたのか? 思い描いた光景はひとそれぞれ。しかし皆の想像に、一つだけ共通していることがあった。男はもう、生きていないであろうということである。 「ふう、ごちそうさま。それじゃ続けて頂戴な」 「続けて、って……」 「勝負のことに決まってるじゃない」 星は絶句した。 星も、かつては人を食らう虎であった。故に妖怪が人を食らうものであるということは、重々承知していた。食わねば飢え死にするのだから、それは当然の行いであると。だが、まさか己の眼前、命蓮寺の敷地内で人が食われようとは、夢にも思っていなかった。 ――私の不注意で、聖の顔に泥を塗ってしまった。 重くのしかかる後悔が、星の脚を、腕を、思考さえをも停止させていた。 「彼のことなら気にしなくていいわよ?」 そんな心の隙間に付け入るように、紫が甘言を弄する。 「隙間の中は治外法権。命蓮寺とは無関係だもの」 あなたには何の責任もないのだ、と。 「――ふ、ふざけるなぁッ!」 意図を理解した瞬間、星は紫への怒りを爆発させた。地を揺るがさんばかりのその叫びは、まさに獣の咆哮であった。 怒声を放った星の顔は、別人と言って差し支えないほどに険を帯びていた。金の瞳はギラギラと剣呑な光を湛え、瞳孔は針の細さに窄められる。常に柔和な笑みを浮かべていた口元にも、鋭い牙が覗いていた。呼気に怒気と殺意が滲む。 「――」 もはや語るべきことは無いということか。星は無言の内に狙いを紫へ移し、低く身構える。誇りをもって望んだ役目を、その誇りごとズタズタにされた今、穏便に事を済ませようなどという甘さは残っていない。 ――お前は、バラバラに引き裂いてやる! 星の脳裏にあるのは、ただその一念のみである。 「虎が猫を被ってるなんて、全く性質の悪い冗談ねぇ。ああ、怖い怖い」 「ねえ紫。手ぇ出さないんなら、煽るのやめてくんないかなぁ? こっちの面倒が増えるんだけど」 「あら、それは失礼」 紫たちは何処吹く風、余裕綽々といった様相であり、それが星の怒りを一層燃え上がらせる。 「っ!」 星と紫の間の距離、およそ八メートル。それを一度の跳躍で一メートルにまで縮めると、そのまま渾身の力を以って槍を突き出した。常人では目視すらかなわぬ、神速の一撃。当たれば紫の胸を貫き、串刺しにしていたであろう。 「おいおい、あんたの相手は私だってば」 だが、穂先は紫に届かなかった。横合いから伸びた萃香の手が、槍の柄を掴み止めていたのだ。星は両腕に力を込め、紫の胸に押し込もうとするが、鬼の怪力の前ではびくともしない。ならばと槍を引こうとするが、これもやはり通用しない。 「あ、よいしょ」 萃香が槍の柄を強く握り込んだ次の瞬間、槍を体ごと引き戻そうとしていた星は、後ろに数歩たたらを踏んだ。一瞬、槍を引くのに合わせ萃香が手を離したのかと思われたが、違う。槍の柄が握り潰され、そこを境にして真っ二つにされたのだ。 星の掌中には半端な長さの鉄の棒が残され、穂先はがらりと音を立てて落ちる。開かれた萃香の掌中からは、砂鉄がはらはらと舞い落ちた。 ――そんな馬鹿な話があるか。 星は一瞬、呆然となる。鉄を握りつぶして砂粒にするなど、一体どれほどの怪力があれば実現出来るのかと。 「こんなものは必要ない、そうだろう? あんたにゃ爪牙があるんだから」 「――くっ!」 萃香の声に己を取り戻した星は後方へ三度跳躍し、先ほどよりも大きく間合いを取る。二人の間に横たわる距離、およそ十メートル。敵の眼前で一瞬でも呆気にとられたことを恥じながら、星は使い物にならなくなった槍の柄を投げ捨てた。 「全力で、参る」 侮っているつもりはなかったが、しかし目の前の鬼には持てる全力で向かわねば勝てないだろう。そう判断した星は、大きく息を吸い、雄叫びを上げた。 天に轟く「お」の音が徐々に徐々に野太くなり、それに呼応するかのように、肉体までもが形を変える。鼻から顎にかけてがみしりと音立て盛り上がり、上下の顎の左右には、大きな牙が一本ずつ、都合四本姿を現す。両椀は太く力強く、その手のひらには丸い肉球と鷹のような爪が備わった。全身を覆うのは黄と黒と白の体毛。寅丸星の立ち姿は、人の形をした虎となっていた。 「お! なかなかカッコいいじゃん!」 変貌を見届け、歓声を上げた萃香に向け、星は低い唸りを上げながら突進する。先の一撃に勝るとも劣らぬ速度の踏み込み。体が一回り以上大きくなった今、その迫力は先の比ではない。 「オオオッ!」 眼前に迫った星が大きく背を反らし、頭上で組んだ岩のような両手を萃香の頭上へと振り下ろした。 「いよっ、とぉ」 対する萃香はぐるんぐるんと腕を回し、身を左に流しながら天に向けて拳を突き出す。二人の拳が衝突した瞬間、衝撃波と、空気の爆ぜる音が生まれた。 ――これで互角か! 腕に多少の痺れを得ながら、星は反動を利用して後ろへ飛んだ。心に生まれた恐れが、星に距離を取らせたのだろう。無理もない、両腕で振り下ろした渾身の一撃が片腕で無造作に突き上げた一撃に相殺され、しかも相手はもう一方の拳を握り締めていたのだ。反撃を警戒したならば、距離を取らざるを得なかった。 「なんてデタラメな……!」 「いやいや、なかなかどうして。あんたも結構な力自慢じゃあないか」 萃香の言葉は嘘ではないのだろう。若干地面にめり込んだ足を持ち上げながら、嬉しそうに言ってみせる。足の形に窪んだ地面が、果たして萃香の踏み込みによるものなのか、それとも星の一撃によるものなのか、参拝者たちにはわからない。ただ、二人の戦いに巻き込まれたならば、到底無事ではおられぬであろうということだけははっきりしていた。 『どうすれば、この場から無事に抜け出せるだろうか?』 眼前で起きた出来事にすっかり冷や水を浴びせられた参拝者たちは、示し合わせたわけでもなかったが、同じ命題に頭を悩ませていた。紫を慕う者も、萃香を慕う者も、星を慕っていた者でさえも、今ではここから早く逃げ出したいと、そう思っていた。 境内には、長く伸びた影が三つ。男を飲んだ隙間に腰掛け、酷薄な笑みを浮かべる紫。萃香は星の飛び込みを待っているのか、全身の力を抜きゆらゆらと揺れるばかり。そんな二人に対し、星はいつでも飛び出せるように姿勢を低くしたまま、しかし塑像のように硬直している。どちらが有利な状況であるかは、誰の目にも明らかだった。 この場に留まり続けたとしても、事態が好転するようには思えない。しかし、膠着状態の星と萃香は、いつ爆発するとも知れぬ爆弾でもある。迂闊に飛び出し刺激すれば、それこそ余波の餌食となるであろう。 「そんな所に閉じこもってないで、早く出てきなさいな」 加えて萃香の後方には八雲紫も控えている。堂内の人間に手を出す様子は今のところ見られないが、それが人間を追い詰めて楽しんでのことか、それとも単純に手出しが出来ないだけなのか、その思惑は判然としない。追い詰められる様を見て楽しんでいるだけだとすれば、耐え忍ぶことは無意味である。時が過ぎ、夜の帳が下りてしまえば、逃げることさえ不自由になる。今ならまだ、明かりがなくとも道は見える。 『こうなったらいちかばちか、一斉に飛び出すしか……』 誰かが言う。この人数でワッと飛び出し四方に散れば、例えあの八雲紫であろうとも流石に捉えきることは出来まいと。誰かが言う。里に辿り着いた者が助けを呼べば、紫を追い払うくらいのことは出来るかもしれぬと。 だが、彼らに出来たのは口に出すまでだった。己が死ぬかも知れぬと考えた途端、皆一様に足が竦み、その場から動けなくなってしまった。自身の思い描いた死の形が、脳裏に焼きついて離れない。 「それには及びません」 だからだろう。白蓮が否定の言葉を口にして、人垣を割って前へ進み出た瞬間、彼らがほっとした表情を見せたのは。己の命を危険に晒さずに済むのだと、心の底から安堵したのだ。 「お二方とも、どうか矛を収めていただけませんか。星も、こちらに戻りなさい」 「しかし……」 「大丈夫です。戻りなさい」 重ねて命じられては嫌とも言えず、萃香たちを睨んでいた星は警戒しながらもじりじりと後退する。そうして白蓮の傍まで下がったところで、ようやく星は人の姿に変化する。萃香も邪魔が入ったことで興が醒めたのか、地面に寝転がって瓢箪の中身を呷っていた。だが、紫は変わらぬ笑みを浮かべたまま、白蓮たちに視線を投げかけている。たとえ白蓮が出てこようとも、紫は目的を果たすつもりであるようだった。 「退いては、もらえませんか」 「退く理由が無いわ」 何かに命じるように、紫が小さく腕を振るう。直後、紫の背後の空間に幾つもの亀裂が生まれ、開く。 「――幻巣・飛光虫ネスト」 宣言が為されるや否や、光の槍とも言うべきものが亀裂から飛び出し、白蓮たちに向けて殺到した。白蓮たちの背後から、息を呑む音と、短い悲鳴が上がる。 「いけない! 光符・浄化の……っ」 「大丈夫ですってば」 慌てて宣言しようとする星を、白蓮が引き止めた。星は瞳で何故と問い掛けるが、その答えがはすぐに知れる。 数多飛来する光の槍。その多くは壁や障子戸に着弾し、しかしそれらに傷一つ付けることなく霧散してゆき、白蓮たちに迫った光も、その身に至ることなく弾けて消える。本堂の周囲は、目に見えぬ力場によって守られていた。 「結界を張らせていただきました。並大抵の攻撃では、人を傷つけるどころか、脅しにもなりませんよ」 「ふぅん? やけに出てくるのが遅いと思ったら、やっぱり裏でそんなものを仕掛けていたのね」 「何よりも優先すべきは皆さんの安全ですから」 すまし顔で言う白蓮に、おお、という歓声と共に尊敬の眼差しが送られる。流石姐さんだ、などという調子の良い声も、何処かから上がった。 「さて。危険も排除し終わったことですし、話し合いを始めましょうか」 「……貴方、本気?」 スペルを無効化された紫の口元には、しかし今も笑みが浮かんでいる。何を考えているのかさっぱりわからぬ、なんとも気味の悪い笑みである。話し合いの場を持とうとする白蓮のことを嘲っているのかもしれない。白蓮は少し躊躇したが、話が通じればそれが一番であることに変わりは無いと心を奮い立たせ、前に一歩を踏み出す。 「本気ですとも。たとえ相手がどのような方であろうとも、誠意をもって話し合えば――」 「その程度の結界で大丈夫だと、本気で貴方は思っているのかと、私は問うているのだけれど?」 途端、紫の笑みが更に深められ、堂内に軋みが連続して響いた。硝子に爪を立て、そのまま強く掻き毟ったような、甲高い、キリキリという耳障りな音だ。 「まさか、そんな」 それは誰の耳にも届いていたが、その正体に気付いたのは紫と萃香、そして白蓮の三人だけであった。 「結界が……!」 軋みは最後に一度、大きな硝子がひび割れるような音を響かせて、途絶えた。何事かと目を丸くしていた参拝者たちは、驚愕に目を見開く白蓮と、その口が紡いだ言葉、そして一帯に鳴り響いた破砕音から、何が起きたかを悟ってしまった。自身らを取り囲み危難を払う結界が、いとも容易く破られたのだと。 「一戦を交えぬ限り和は成らず、打ち負かしてこそ異変は終わる」 呆然とする皆の耳に、朗々とした紫の声が届く。その声にはたと正気を取り戻し、前方に視線を向けた者たちが見たものは、 「さあて、今度はどうなるかしら? 幻巣・飛光虫ネスト――」 先の倍はあろうかという数の亀裂を背負い、酷薄な笑みを浮かべた紫の姿だった。 紫の指図を受けて奔った一つ目の光が、命蓮寺に着弾し、壁を浅く抉りながら掻き消える。舞い散る木片は、結界が打ち砕かれたことを明白に示していた。亀裂は逃げる時間も、悲鳴を上げる間も、恐怖に慄く暇さえ与えず、次々に光を吐き出し続ける。 「星、皆さんをお守りして差し上げて!」 「なっ、聖!?」 叫び、光の奔流の只中に身を投じたのは白蓮であった。紫の背後では、一つ亀裂が閉じるたびに新たな亀裂が一つ開いている。それを目にした白蓮は、執拗に攻撃を重ねられては守りきれぬと判断し、スペルが途切れる可能性に賭けて、術者である紫に狙いを定めたのだ。 光は先と変わらず狙いが甘く、多くは壁に衝突し、或いは無人の方角へ飛び去ってゆく。星たちに向かう光の筋は、白蓮の拳足が全て打ち砕いていた。その上で前へと歩を進めるその姿は、魔法による強化を得ているとは言え、人の領域を遥かに超越していた。 『これが、超人……』 星の背後で、誰かが感嘆を漏らす。変わらず無力な者たちには、白蓮の背中を見守ることしか出来なかった。 「そろそろ時間切れね」 じわじわと間合いを詰める白蓮が、紫までの距離を半分まで縮めた頃には、弾幕は更に苛烈なものとなっていた。白蓮の拳足は休みなく動き、しかしそれでも間に合わず、肘や膝、頭までをも打ち付けて、星たちの元へ向かう弾幕を防ぎ続ける。もはや前進することは叶わず、光を打ち払うことに腐心することしか出来なくなっていた。しかし激しさを増したということは、スペルが終わりに近付いたという証でもある。紫の言葉も、それを裏付けていた。 ――スペルが終わった瞬間、一気に片を付けなければ。 戦い、打ち勝つことでしか決着を迎えられないのならば、拳を振るうことも致し方なし。そう心を決め、弾幕を凌ぐ白蓮の耳に、気の抜けた声が届いた。 「萃香、ちょっと時間稼ぎお願い」 「えぇー? 仕方ないなぁー……報酬は大吟醸十二本ね?」 「あら。折角狸寝入り見逃してあげたのに」 「むぐ」 それは、紫と萃香の会話であった。緊張感が感じられないのは、気心知れた仲だからなのか、それとも余裕の表れなのか。喉に餅でも詰めてしまったような萃香の声を最後に、暫く会話は途切れていたが、 「ちぇっ、仕方ないなあ。美味いメシと美味い酒は別勘定だかんね?」 「わかってるわよ。それじゃ、九本でよろしくね」 「はい、はい。九本でいいよ、九本で」 渋々といった調子の声が響くと、光の先で、何かがゆっくりと身動ぎした。 「……一応言っとくけどさ、水道水は認めないよ?」 萃香が確認の言葉を発すると同時、紫のスペルが終わりを迎える。そうして光の途絶えた先、闇に染まった白蓮の前に立ちはだかるは、 「やあやあ、魔女のお嬢ちゃん。夜目はちゃんと利いてるかい?」 酒臭い、とび色の目をした一匹の鬼であった。 「いえ。はっきりとは見えませんが……」 「そうかい。それなら、目が慣れるまで待ってあげても――」 親切心からか、対等な勝負を望んでか、それともこのまま時間を稼ぐつもりか。余裕の表れなのだろう、緊張感に欠けた台詞を、酒気と共に萃香が吐こうとする。だが、その言葉が終わるよりも早く、萃香に向けて飛び出した影があった。 「聖! こいつは私に任せて、八雲を!」 「星……?」 人虎と化した星である。星は両の拳を再び鎚と化し、萃香に向けて打ち下ろしていたが、討ち果たすことは成らず、その一撃は片腕で受け止められていた。 ――だが、これで動きは封じた! 星は思う。時間稼ぎを要するということは、その間、紫は無防備になるということでもある。先のやり取りが罠の可能性もあったが、迷っている暇は無い。 「聖、早く!」 「……ありがとう、星!」 ならば行けと、星が目で訴える。星の眼差しを受けた白蓮は頷きを返し、念のため、萃香を避けるように迂回して紫へ向かう。宵闇の中、おぼろげに見える紫の姿は隙だらけである。 行ける。 そう確信し、地を蹴ろうとした瞬間、白蓮の胴には鎖が巻きついていた。 「な……!?」 一体誰が。 思い、視線で鎖を辿って行くと、萃香の手元へと行き着いた。 「酔夢・施餓鬼縛りの術――行かせないよ。これも酒のためなんでね」 急ぎ、白蓮は縛めを解こうと鎖を掴む。だが、鬼の操る鎖が尋常の品であるはずもなく、見る間に白蓮の総身からは力が抜け落ち、鎖から逃れるどころか、引き剥がすことさえ叶わない。鎖を手繰り寄せられれば、抗うことも出来ぬまま、萃香の傍まで引き寄せられた。 それを見て、なればと星が紫の下に向かおうとするが、 「おっと、逃がさないよ」 「くっ、離せ!」 「そいつは聞けない頼みかなあ」 萃香の動きを封じるための拳が、萃香の小さな手に掴まれ、星自身の動きを封じてしまっていた。そして萃香が時間を稼ぎ始めてから、およそ十秒が経過した頃。 「お待たせ萃香。いつでも発車オーライよ」 時が満ちたのだろう。紫は、一枚のスペルカードを高く掲げた。 「廃線・ぶらり廃駅下車の旅――」 「……なんだ、これは」 スペルが展開された瞬間、星は無自覚に呟いていた。 紫の斜め後方に開かれた異常な大きさを誇る隙間。その内部に見えたものは、光放つ二つ目の巨体が迫り来る威容であった。例えるとすれば、それは車輪を取り付けられた鉄の箱。城門さえをも打ち破りそうな、恐るべき質量を備えたそれが、命蓮寺を打ち崩さんと加速する。 スペルと呼ぶには余りにも無骨過ぎるそれは、裏を返せば純粋な破壊力を追求した、紫の切り札ということでもあった。 ――拙い! どうにかしないと……! 思いはするが、体は動かない。このままこの場に留まっていれば、命蓮寺が瓦解するより早く、木の葉の如く宙を舞うことになる。それがわかっているというのに、萃香が二人を捕らえて離さないのだ。 「そろそろ頃合かね。ちょいと痛いが、まぁ、我慢我慢」 ――いやこれどう見てもちょっと痛いとかそういうレベルじゃないでしょこんなの食らったら私でもしばらく動ける気がしないし命蓮寺がいくら頑丈だって言ってもよく見てみなさいよさっきのスペルでも結構傷がついちゃってるでしょうがそりゃ破片集めてやったら元通りになりますけどもあれっなんかちょっと聖エロくないですかその格好……! 星の脳裏を様々な思いが走馬灯の如く駆け抜ける。鎖に繋がれ動かなくなった白蓮を見て星の内に生まれた邪念は、現実逃避のご愛嬌といったところか。しかし、逃避したくなるもの無理はない。ふおん、と嘶く鉄塊が、間近にまで迫っている。それが今の星にとっての現実だったのだから。 「――パスウェイジョンニードル」 だが、上空より無数に撃ち出された針の雨が、逃避を許しはしなかった。 「いたたたたた!」 「ひきっ……」 「きゃーん」 「おっほぉ、きくぅーっ!」 降り注ぐ退魔の針を全身に浴び、四者は四様の悲鳴を上げる。しかし針は一本たりとも肌に刺さらず、ちゃりちゃりと音を立て地面に転がっていった。それもそのはず、針の先端は丸くなっており、高速で撃ち出しでもしない限り、薄布さえも貫き透せぬ代物であったのだから。そしてこれこそが、この針の悪質さでもあった。 もし先端が鋭利であれば被害者は針鼠の様相を呈することになる。そうなれば、たとえ被害者が妖怪であろうとも、加害者の非道ぶりは野山を駆け巡り幻想郷全土に広まっていたであろう。逆を言えば、刺さりさえしなければどれほど痛かろうとも痛みは誰にも伝わらず、現場を見たところでじゃれあっているようにしか見えはしない。一方で、針に込められた霊力は尖鋭化を起こし、相手の防御を容易く貫通する。肉体ではなく、精神を貫くのだ。 詰まるところこの針は、一見平和的に魔を調伏するための道具としては、これ以上無いほど適した武器であった。 「とまっ……た?」 両腕で頭を庇うことすら出来ぬまま、ひたすらに目を閉じて耐え忍んでいた星は、物音が止むと同時に瞼を開いた。境内に針の雨が降り注いだのはたかだか数秒程度の出来事だったのだが、降り注ぐ痛みの中にあっては、いつ終わるとも知れぬ無間地獄に思えるほどの長さであった。 「うはー、やっぱキツいなー」 「だけどこれ、肩こりには凄く効くのよねえ」 ……はずなのだが、眼前の鬼とその向こうの隙間妖怪は、まるで鍼治療を受けた後のような穏やかな笑みを浮かべている。本気でコイツら何なんだと、疑問を抱く星であったが、 「うぅ……」 「――はっ! 聖、無事ですか!?」 すぐに我を取り戻すと、ぐったりと横たわる白蓮を抱き起こした。上空からの責めに耐えかねたか。既に星の両手は解放され、白蓮を縛り付ける鎖も消えていた。紫のスペルは、こちらも針の雨に阻止されたのだろう。出口として機能するはずだったであろう隙間は閉じられ、今はもう、迫る物音も、不可思議な嘶きも聞こえはしない。 だが、だからといって助かったと考えられるほど、事態は好転していなかった。 「何か不穏な気配がすると思ったら、あんたたちだったのね」 本堂の方角を背にして下りてきた人影が、情け無用の残虐ファイトで広く知られる博麗霊夢だったからである。 先の無差別制圧射撃を見れば、霊夢が状況を把握していないことは明らかだった。 「博麗の、そこな二人を追い払ってくれ!」 ならば倒すべき存在は紫たちであると、星が霊夢に向けて叫ぶが、 「いいところに来たわね、霊夢。ちょっとそこの二人を蹴散らしてくれないかしら?」 同じことを考えたか。紫も霊夢に呼びかけていた。 「何を言い出すかと思えば……攻め込んできたのはお前たちの方じゃないか!」 「ねえ霊夢。私が何の理由もなく、こんなことをすると思う?」 星には己の方が正しいという自負がある。紫はそれっぽい台詞を吐いて、霊夢を懐柔しようとする。そして始まったのは侃々諤々の自己主張。 「私だって本当はこんなことしたくないのよ? だけどこれも幻想郷のためなの」 「嘘だ! そいつの話に耳を貸すな、博麗の! そいつは人を一人――」 対立する意見に挟まれる形となった霊夢は、しばし二人の好きなように喋らせていたが、 「ふー……面倒くさいわね。全員ぶっ飛ばすか」 「え」 前髪をくしゃりとかき上げると、なんでもないことのようにそう呟き、一枚のカードを取り出し天に掲げた。 「――夢符・退魔符乱舞」 直後、生まれた符の激流――丸太、或いは壁と言い換えても良いかもしれない――が、四人目掛けて殺到した。これに飲まれれば、全身隈なく札塗れになることは避けられまい。そうなれば、しばらくは身動き出来なくなってしまうだろう。 幸い、これを避けたところで、星や白蓮が庇わねばならぬような相手は居ない。なればと星は白蓮を抱え、横っ飛びにスペルを回避しようと考え、背後を見遣る。星は、紫や萃香も回避行動を取るものと考えていた。ならばその動きを見極め、異なる方向に逃れねば意味がない。 ――右か左か……どっちだ! しかし、星の瞳に映ったものは、そのどちらでもなく、 「今日はこのあたりでお暇するわ。それじゃ、またね」 隙間の中に消えて行く紫たちの姿であった。 「ひ、卑怯な!」 果たして言葉は届いたのか。紫がにこやかな笑みで手を振るうちに隙間は消え、射線に残されたのは星と白蓮の二人のみ。こうなっては、もはや我武者羅に逃げ回るほかなしと星は駆け出す。 「ま、待て、博麗の! 奴らは逃げた! 争いは終わったんだ!」 「む……? あいつら、逃げたの?」 言われて、紫たちが居なくなったことに霊夢も気付いたのだろう。激流から逃れようと駆け回る星を、その場から動かず角度だけを変えて追跡しながら、そう呟く。 「だから、もういいだろう! 早いところスペルを止めてくれ!」 「んー、もう一枚スペカあるし……キリのいいとこまで我慢して?」 「キリのいいとこって何ー!?」 商売敵である命蓮寺への敵愾心もあったのか。諍いが終焉を迎えたことを知りながら、霊夢はさらにもう一枚、先と同じカードを天に掲げた。 ……そうして、やる気なさげな霊夢の放つスペルから星が全力で逃げ回ることしばし。 「さて、と。とりあえずは一件落着なのかしら? それじゃ、私、帰るから」 「あぁ、あぁ。さっさと帰っておくれ……」 暴れるだけ暴れてスッキリしたのか、ひとつ大きな背伸びをすると霊夢は空へと飛び去った。霊夢を見送り仰いだ空には、大きく欠けた三日月の姿。既に日は落ちているというのに、空の高いところから鴉の声が響いてきた。 「あー……えっと、すっかり暗くなってしまいましたが、皆さん、帰り道の方は大丈夫でしょうか?」 山の寝床へ戻るのであろう鴉たちに、若干の羨望の念を抱きながら、しかし仕事が残っていたことを思い出すと、星は最後の気力を振り絞るのだった。 命蓮寺での一仕事を終えた霊夢は、特に寄るべき方も無しと、暗い夜空を一直線に飛んでいた。今時分の風は、涼気と言うより寒気と言った方がしっくりくる。そろそろ冬物の準備を進めなければ風邪をひいてしまうかもしれぬと、霊夢は肩を擦り立てる。 ――そういえば、萃香は年がら年中あの服だけど、あんな袖の無い服で冬場は寒くないのかしら? 折を見て、萃香の服を霖之助から調達するのも悪くないかもしれない。どんな服が似合うだろうか、どんな服なら喜ぶだろうか。そんなことを考えているうちに、霊夢は神社に帰り着いていた。 「む。帰って来たか、博麗の」 「おー、お帰り霊夢。遅かったね?」 「ん、ただいま。いい機会だったから、ちょっとね」 引き戸を開いた霊夢の目に飛び込んできたのは、入り口横手のかまどの前に立つ藍と、上がり框に腰掛けた萃香の姿であった。藍の後ろには、血抜きや臓物を処理されたと思しき豚が、丸々一匹転がっている。それを目にした霊夢は、傍に寄ってきた萃香の頭をぐりぐりと撫でながらも、一体どのような形であれが食卓に上るのだろうかと多少の不安を抱いてしまう。 だがそれは、杞憂に終わった。 「豚汁、豚カツ、角煮にステーキ……脂ギッシュなフルコースねえ」 「一応言っておきますけど、豚尽くしなのは紫様の所為ですからね」 「そこはシェフの腕でなんとか」 「なるわけないでしょうに。まったく……」 一体何をどうすれば、我が家のかまどでこれだけの料理が作れるのかと、霊夢は密かに感心していた。味噌や醤油があれば、いくつかは霊夢にも作れそうなものもある。だが、半刻も掛けずにこれだけを作り上げる技量を、霊夢は持ち合わせていなかった。 更に驚くべきことは、どの料理も今しがた出来上がったかのように白い湯気を立てていることだ。調理はその殆どが藍一人の手によって行われ、手伝いらしい手伝いと言えば、皿を食卓に並べる前に紫が藍に呼び出されたくらいである。その際に鳴ったチーンというおかしな音が、料理の温かさと何か関係しているのではないかと、霊夢は睨んでいたが……しかし今はそれよりも、目の前の料理に意識を向けねばだと、頭を振って切り替える。 「随分待たせてしまったかな。それじゃあ、みんな」 卓に着いた面々……霊夢、萃香、紫、橙に視線を巡らせ、皆が自分を見ていることを確かめると、藍は手を合わせて頷き、口を開く。 「いただきます」 五人の声が重なった瞬間、食卓は戦場と化した。 「いやあ、これだけ食べたのは久方ぶりだよ」 障子を開け放ち、縁側に寝転がった萃香が、丸くなった腹をぽんぽんと叩きながら、言う。 「やっぱり一仕事した後のメシは格別だねえ。これで美味い酒がありゃあ言うこと無しなんだが……」 「はいはい、そんなに急かさないの」 チラチラと送られてくる視線に、紫は苦笑いを作りながら隙間を開く。取り出されたのは一升瓶。純米大吟醸・松屋云々と書かれたそれを、まずは一本と言いながら萃香へ手渡す。 「お、久兵衛か。紫にしちゃ随分大人しいのを出してくるねえ」 「スピッツファイアの方がよかったかしら?」 「あー? あぁ、スピリタスか。あれは、うん。確かに人間の酒にしちゃあ面白いやね」 言いながらも、既に萃香の手は瓶の蓋を外していた。飲む気満々といった様子であったが、 「一仕事した後の酒はさぞかし格別だろうねえ。これで付き合いのいい奴がいりゃあ言うこと無しなんだが……」 再びチラチラと、今度は霊夢にも視線を向ける。 「仕方ないわねえ……霊夢もどう? 一緒に飲まない?」 「鈍角じゃないなら付き合うわ」 これは九本どころでは済まないかもしれない。そんなことを考えながら、些事には拘るまい紫は割り切り、藍に肴の準備を命じた。 「どんな願い事でも、一つだけ叶えてくれるのよね?」 酔い過ぎぬよう、湯飲みに注がれた酒をちびちびとやりながら、霊夢が紫に問い掛ける。ただでさえ、程よい甘さの飲み易い酒である。萃香に釣られて調子を上げれば、すぐに酔っ払ってしまうだろう。努めて自制しなければ、本当にそうなりかねないと霊夢は思っていた。 「月並みな前置きだけど、願い事を増やすのは却下よ?」 「……あぁ、その手が」 「ないんだってば」 問いの内容は、謝礼についての確認であった。 妖怪の恐ろしさを人々に知らしめるには、人を襲う様子を直截目撃させるのが手っ取り早い。そして、その相手を選ぶのであれば、命蓮寺に集う人々が最適である。都合の良いことに、命蓮寺には妖怪が居た。妖怪同士の争いであれば、多少無茶をしても死にはすまい。そんな戦いを目の当たりにすれば、妖怪を守ろうなどという甘い幻想は軽く吹き飛ぶだろう。少しでも恐れを抱かせることに成功すれば、後は取り戻した力でもって、更に争いを激化させるだけである。 だが、勝負に決着がつくのはよろしくない。白蓮たちを退けたところで、紫自身の制定した不殺の心得が、見せしめのための処刑を許しはしない。負けた場合などは、命蓮寺の下に集えば安全であると、彼らを増長させるのみである。 然るに、最も都合の良い幕引きとは、圧倒ながらも横槍を嫌っての痛み分け。その結末を得るために、紫は霊夢に介入するよう頼んでいたのだ。霊夢の願いを一つ叶えるという、破格の条件で。 「あ、それと言い忘れてたことがあるんだけど……」 「なに? まだ何か制限があるの?」 「私の力を越える願いは叶えられないから、注意してね?」 「……なんかどっかで見聞きしたような台詞ね」 気のせい気のせいと紫は言うが、その言葉こそが気のせいではないことを裏付けているのではないか。そんなことを霊夢は思う。 「まあいいか。どうせ大した願いなんてするつもりもなかったし」 争いに終止符を打つという、自らの担った役割。その重要性を、霊夢は違わず理解していた。しかし、重要であったからといって大変な労力を割いたかと言えば、実際のところはそうでもない。わざわざ長考し吟味するほど、大した働きはしていないと、そう考えていたのだ。珍しくもあり、美味でもあった夕食。ご相伴に預かった上等な酒。労いとしてはこれだけでも十分だった。 「木をね、スパッとやって欲しいのよ。里側の山の麓からここの裏手まで、道を作れるようにスパッと」 であれば、下手に欲の皮を突っ張ったりせず、参道作りの一端を紫に担わせる程度に留めておくのが良策であろうと判断し、 「後のことは、萃香にやらせるから」 「え。なんで私まで」 「当然、家主特権」 「あー、えっとー……了解」 しかし萃香に対しては、遠慮のない命令を下すのだった。 まだ夜の明け切らぬ午前五時。 「おはよーございまーす! 文々。新聞でーす!」 刷り上ったばかりの新聞を抱え、黎明の空を天狗が行く。 この日行われた射命丸文の新聞配達は、一刻も早く失点を取り戻したいという気持ちの表れか、いつにも増して早かった。我が身の進退この一紙にありと、夜を徹して書き上げた原稿に、 「これなら及第点をあげてもいいかしら」 いつの間にやら監修を務めていた紫の太鼓判を受けたこともあり、小躍りしながら印刷に向かい、刷り上るなり配達に向かったためだ。果たしてどれほどの人間が記事をまともに読むのかという疑問が無いわけではなかったが、それは言わぬが花であろう。 「あ、そうだ。紫さんに一つお聞きしたいことがあったのですが」 「何かしら?」 「隙間に消えた方は、どうなったんでしょう?」 「ふふ、それはご想像にお任せいたしますわ」 紫たちは何故、命蓮寺を襲撃したのか。 隙間に飲まれて消えた人間は、何処へ行ったのか。 記せぬ事実や、明かされなかった真実もあった。文自身、そのことに思うところが無かったわけではない。だがそれでも、今は妖怪の力を取り戻すことこそが急務であると、文は幻想郷のあちらこちらに赴いては、顧客か否かの別もなく、新聞を配り回った。その成果もあってか、数日を待たずして紫と萃香と命蓮寺の二人、そして霊夢の恐ろしさは、人々に広く知られるところとなっていた。 「……あのう、紫さん?」 「何かしら? 鴉天狗さん」 「なんかうちら、まだ人間の方々から嘗められてる気配がするんですけど……」 当然と言えば当然ではあったが、命蓮寺での一件を経て十全たる力を取り戻したのは、事件に関わった四名だけであった。紫と萃香は人を襲う妖怪として恐れられ、対する命蓮寺は妖怪の魔手から人を守った実績から駆け込み寺として認識されることとなる。命蓮寺の面々を信じきれぬ者たちは、その場に居合わせた妖怪を分け隔てなく撃退した霊夢のことを持て囃した。 時を同じくして、博麗神社への参道がいつの間にやら作られていた。最初のうちは何処へ通ずる道であろうかと警戒されていたが、それが神社への一本道だと知れると、次第に利用者は増えて行った。この参道に関しては、様々な噂が飛び交っている。夜中に紫色の光を見ただとか、その光が駆け抜けた場所が参道と重なっていただとか、小人のように小さな鬼がわらわらと集まって丸太階段を作っていただとか、枚挙に暇がないほどに。が、参道自体は余りにも普通の代物だったためか、成り立ちを気にするものは次第に居なくなった。 さて、これで全ての妖怪が力を取り戻していたならば、これにて異変は一件落着、諸手を挙げての大団円であったのだが、その他大勢の妖怪たちは多少力を戻しただけというのが実情である。あの一件を経てなお、妖怪を恋い慕う者たちの集いは、多くがその勢力を保ったままであったのだ。 「恋は盲目とはよく言ったものねえ」 「そんなこと言ってる場合じゃないですよ! 嗚呼、これで万事解決って大見得切っちゃった私はどうすれば……!」 「そんな錆を勝手に出されてもねえ」 紫や萃香を慕う集いは、先の一件と、萃香派の首魁が唐突に紫派へと鞍替えしたことで共に崩壊していたが、それ以外の寄合いは今も命蓮寺の本堂に屯しては語らっている。決して捨て置ける状況ではなかったが、それを守護する白蓮たちを打ち負かせる妖怪は、果たしてどれほど居ることか。 「襲撃でもなんでもすればいいじゃない。突撃は貴方の十八番でしょう?」 「それは取材の時だけです!」 寡兵で挑めば返り討ちにされ、数に頼めば威信の失墜。妖怪たちを煽動し、命蓮寺に押しかけさせ、疲弊したところを叩くという手もあったが、これも強者の取るべき手法とは言えない。いや、そもそも白蓮たちを打ち倒したところで、みだりに殺生をしてはならぬと定められているのだ。 もはや進退窮まったかと、文は胃の腑が重くなるのを感じた。こうなった以上、いっそ何処か人気の無い場所に隠居するのも良いかもしれぬ。そんな思いつきが、魅力的な案に思えてきた頃である。 「良く働いてくれた御褒美に、一つ知恵を授けてあげるわ。名付けて――『ひとりでできるもん』」 意地の悪い笑みを浮かべた紫が、文の耳元でそっと囁いたのは。 日も傾き、すっかり暗くなった雑木林の中を、明かりも持たずに一人の青年が歩いていた。 青年は命蓮寺から我が家へと向かう道中であったが、人が踏み均した道を逸れ、雑木林へと踏み込んでいた。道を踏み外せば、妖怪と出くわす率は高くなる。日暮れ時なら尚更だ。しかし、だからこそ、彼は此処を歩いていた。それはひとえに、恋い慕う妖怪と出会うためである。 妖怪の名はルーミア。金の髪と赤い瞳を持つ、闇を操る少女である。人一倍暗がりを好む性分であった彼は、一度も実物を見たことはなかったが、闇を纏ってふわふわと漂泊するのが常であると聞いたことで、その妖怪のことを好ましく思うようになっていた。 命蓮寺から家までを真っ直ぐ歩けば、およそ十町の道のりは半時間とかからず踏破出来る。全速力で駆け抜けたのなら、十分もかかるまい。ならば偶然の出会いを求め多少の寄り道をする程度は、危険のうちにも入らぬだろうと彼は判断していた。少女の姿をした存在が、人を食らう。その様を想像出来なかったことも、甘い考えを許した一因だろう。 彼以外にも、似たような行いを重ねる者はあちこちに居た。 天狗との遭遇を求めて山際を行く者。 河童との邂逅を求めて川べりを歩く者。 花咲か娘の姿を求めて花畑へと近付く者。 誰一人として出会いを果たした者は居なかったが、まだ見ぬ姿に恋焦がれる身は、今日こそ出会えるかも知れぬ、そう考えただけで胸を高鳴らせ、足は羽が生えたように軽くなるのだった。 そうしてその日、遂に彼はそれを見つけた。暗い林の中にありながら、なお一層の暗さを際立たせた漆黒の球体が、大樹の根元に蟠っているのを。捜し求めた暗黒に、彼は声を掛けようと近付きかけて、しかし足を止めた。毟り、引き千切った何かを、一心不乱に咀嚼する水音が、闇の中から聞こえてきたからだ。 そこで何が行われているのか。何故かそれが、見えずともわかってしまった。自分は、食事中の彼女に出くわしてしまったのだ、と。 闇に遮られ、何を食らっているのかまではわからない。もしそれが鳥や獣の類であれば、人もそれを食らうのだから、特に嫌悪する理由にはならない。だが、食らっているものが人だとすれば――否、たとえ獲物が人で無かったとして、人を食わぬという証拠にはならない。声を掛ければ、こちらを確かめるために闇を晴らすかも知れぬ。その姿を、直截自身の目で見ることが叶うのだ。何を食っているのかも、わかる。しかしどうしても、命を危険に晒してまで確かめるようなことではないと、彼には思えてならなかった。 折角出会えたというのにこの期に及んで及び腰かと、己を情けなく思う気持ちも無いではなかったが、命あっての物種である。緊張のためか足は棒のようになっていたが、彼はそれをどうにか折り曲げ、音を立てぬようにその場を離れようとした。 ところが、世の常と言うべきか。そろそろと踏み出した一歩目が、枯葉の中に紛れていた脆く乾いた枯れ枝を見事踏みつけ、乾いた破砕音を響かせてしまった。 「っ! ……誰か、居るの?」 ルーミアの反応は早かった。即座に闇を消し、誰何の声を上げ、音の方角へ目を凝らす。暗がりの中でもはっきり見える、鬼灯のように赤い双眸は、やがて木立の中に青年の姿を木陰に認めた。 「今の音は、お兄さん?」 膝の上に乗せていたものを土の上へと無造作に放り、彼に向かって歩み出す。青年は、金縛りにあったかのように手足が固まり、全く動けずに居た。冷や汗を流し、細かく震える青年の間近にまで迫ったルーミアは、それがただの人間であることを認めたのだろう。紅をさしたように赤い唇を開き、彼にこう尋ねた。 「お兄さんは、食べてもいい人類?」 問い掛けられた瞬間、彼の体は弾けるようにその場から駆け出していた。 食われるのは嫌だ。死ぬのは嫌だ。あの死体のようになるのは嫌だ。 その一心で、彼は駆け続けた。林を抜けようとも、月光の薄明かりの下まで逃れても、ひたすらに駆け続けた。闇の中、薄らぼんやりとしか見えなかったはずなのに、地面に横たえられた誰かの死相が、見開かれたその目が、彼の網膜に焼き付いて離れなかったのだ。 家に帰り着いたのちも、心は全く安らがなかった。精神を静め、落ち着かせてくれるように思えた闇が、今はただひたすらに恐ろしい。箪笥の陰、押入れの中、或いは天井の隅に生まれた影。そういった場所から闇が染み出して、あの妖怪を形作るのではないかという妄念が、彼を捉えて放さない。 ――もう、あんなのは二度と御免だ。 結局、その夜をまんじりともせず夜を明かした青年は、その夜の内に寄合いを抜ける意思を固めた。 同日同夜、幻想郷のあちらこちらでは、夕暮れ時に外を歩いていた者の多くが、奇怪な現象に遭遇していた。 山際を行く最中、かあんかあんという甲高いの直後、次々に倒れこんでくる大木に追い立てられたと言う者。九つまでを数える声が聞こえたと思ったら、尻子玉が一つ足りぬという嘆きののち、川に引き込まれそうになったと言う者。花畑の近くを歩いていたら、突如足元から伸びてきたツタに危うく絞め殺されそうになったと言う者。 語られる体験に一つとして同じものはなかったが、いずれも人の仕業ではないのだろう。特に、ルーミアと直截対面したという青年の話は、寄合いと関わりのない者さえも震え上がらせた。 そうして一月もすると、命蓮寺に通う人の質は随分と異なるものになっていた。或いは、本来あるべき形に戻ったと言うべきか。放っておいては何処へなりと飛び出してしまう遊び盛りの子供たちや、茶飲み相手を求める老人たちが、足繁く通うようになっていたのだ。 寄合いに関わっていた者たちはと言えば、しばらくの間は未練がましく顔を見せる者も居たのだが、恐ろしい目に遭わされるのは決まって寄合いの人間であったためだろう、次第に姿を見せなくなった。 「何だかんだで、星は貴方がたに感謝しているみたいですね」 命蓮寺の裏手には、本堂に隣接する形でそこそこ大きな平屋が建っている。生活に必要な施設やそれぞれの私室など、住居としての機能を一手に集約した建物である。 紫が座するはその一室。主の部屋にしては手狭に感じられる、白蓮の私室であった。 「皆には、不自由な思いをさせてしまいました。私の力が至らないばかりに……」 穏やかな表情に淡い苦笑の色を浮かべながら、紫に茶を勧める。立ち上る湯気さえ香ばしい、ほのかに甘さを感じさせる玄米茶であった。それを一口啜り、湿した唇を紫が開く。 「気に病むことはないわ、聖白蓮。貴方の信条以外にも、遠因は幾つかありましたもの」 「そう、なのですか?」 白蓮の問いに、紫は頷きを返す。 「今の世代が心に描く妖怪の姿かたちは、私たち自身と、それを絵に書き起こした幻想郷縁起に原因があった。皆が皆、貴方のところの入道のような姿であれば、今回のようなことはまず起きなかったでしょう」 すっ、と指先で空中に線を引いたかと思うと、そこに小さな隙間が生まれる。袖をまくり、その中に腕を突っ込んだかと思うと、引き抜いてきた時には一冊の和綴本がその手に掴まれていた。幻想郷縁起と題された分厚いそれを、紫は白蓮にひょいと差し出す。 「……これは、確かに」 受け取った本を読み進めるうち、白蓮は納得の声を漏らしていた。 奇人変人の一団が声高に叫んでいた主張は『可愛い女の子は、すなわちか弱い女の子であり、故に守られるべき存在である』という、強引極まりない三段論法であった。白蓮はそれを、外面ばかりに目を奪われ本質を見失った者たちが生み出した妄念であろうと考えていた。恐らく彼らはこの本にのみ目を通し、実際に彼女らが戦う姿を目の当たりにしていなかったから、斯様な齟齬を生み出したのだろう。そう思える程度には、妖怪たちの姿が可愛らしく描かれていた。 「写真の供与もしていたことだし、あの子は本当に業が深いわねえ」 紫が一つ溜息を吐き、茶を啜る。しかしそこに怒りや呆れの感情は見えず、ただ口元に、穏やかな笑みが見て取れるだけである。その姿になんとなく、ほんとうになんとなく。確証は無く、ただの心証でしかなかったが、きっとこの妖怪は悪人ではないのだろうと、白蓮には思えた。 目的のためなら手段は選ばない。 今回の一件からそのような性向が見て取れたが、その根底に流れるものは自分と同じものではないかと、どこかで感じたのかもしれない。 「あの、紫さん」 本を閉じ、紫に差し出しながら、白蓮は思う。 自身の思い描いた形とは随分異なってはいるものの、人と妖怪の共存は既に成っているのだ。この地にあって、自らの信じるところが妖怪にとっての害毒になるのであれば、折れることも必要であろう、と。 「ん。何かしら? 白蓮さん」 本を受け取った紫は、隙間を通じて書架へと戻す。とんでもない力をどうでもいいことに使う姿も、今は些事に拘らぬ寛容さを思わせた。 「これから先、様々なご迷惑をお掛けするかもしれませんが、何卒よろしくお願い致します」 ――この地を取り仕切るのが彼女のような篤実な人であるのなら、平穏は長く保たれてゆくことだろう。 どうかそうであって欲しいという願いと共に、白蓮は深々と頭を下げた。 更に一月ほどを平穏無事に過ごした幻想郷は、すっかり慌しさに包まれていた。幻想郷のような鄙びた土地でも、年末年始の行事のために駆け回ることに違いはない。旧来より続く行事が立て続けに行われる分、むしろ外界よりも忙しないくらいである。命蓮寺とて、その例外ではなかった。 「聖、雪かき終わりましたよー……って、なんですか、それ」 「ご苦労様、一輪。私もよくわからないんだけど、置いてあったのよ。私の枕元に」 一仕事終えて報告に訪れた雲居一輪が見たものは、鐘を抱えた白蓮の姿であった。人がすっぽりと中に入れそうなほど大きな鐘を、外に面した壁を向こう側に倒し、運び出そうとしているようだった。 「……枕元に、ですか」 白蓮の私室は、他の部屋に比べて手狭であった。何故もっと広い部屋を使わないのかと星などに問われた際、白蓮は愛着があるからと答えていたが、壁を丸ごと蹴倒すのは大丈夫なのかと、一輪は少し考えてしまう。もっとも、この建物は様々な形状に変化出来る仕組みであるのだから、部屋の壁がぱかりと開いたところでさしたる問題にはならない。それに、壁を開きでもしなければ到底持ち出せそうにないくらい、鐘は大きなものであった。 「でも、誰がこんなものをくれたのかしら? 確かに鐘は欲しかったんだけど」 「欲しかったんですか……って、そこ、何か書いてありますよ?」 「あら、どこどこ?」 雪の上に鐘を下ろし、これを何処に吊るそうかと視線を彷徨わせる白蓮に、一輪が指差しここだと教える。 「ああ、これね。ええと……メリー・クリスマス?」 「誰かの名前でしょうか?」 「そういうわけでもなさそうだわ。ほら、ここに紫の名前」 「あ、ほんとだ」 紫からの贈り物であろうという見当は付いたが、何故贈られてきたのかがわからない。お年玉にしては少々気が早い上、お歳暮にしては不可解な点が多すぎる。真意を探るべく、しばらくその場で頭を悩ませた二人であったが、 「……しまった。聖、早いところ朝ご飯を食べにいきましょう。雲山が」 「いけない、忘れてたわ」 あまり遅れて料理が冷めては、用意してくれた星の機嫌を損ねてしまうかもしれない。下手をすれば、ところかまわず爪とぎをされてしまう。それは少々宜しくないと、白蓮たちは急ぎ、食卓へと向かった。 「あぁ、クリスマスですか。それなら知ってますよ」 「え、本当?」 少し遅れた経緯を話題に上げてみたところ、意外な答えが星から返ってきた。 「確か、基督教のお祭りだったと思います。いい子にしていると、師走の二十五日に老人が枕元へ贈り物を置いていってくれるとかなんとか」 「そういえば、今日は二十五日ですね」 「老人も……合ってると言えば合ってるかしら」 一瞬、貴方が言うか、という視線が周囲から白蓮に向け注がれたが、皆すぐに目を逸らしたので気付かれることはなかった。 「それじゃ、何かお返しした方がいいのかしら?」 「なーんだ、聖にも自分がろうじ――もごもご」 余計なことを口走りかけた鵺の少女の口を、咄嗟に一輪が塞ぐ。 「? どうかした?」 「いや、なんでもないです。なんでもないですよ、姐さん」 「もごご」 白蓮はしばし首を傾げていたが、 「しかし、聖。我々は八雲の家を知りませんよ」 「……あぁ、そういえばそうだったわね。残念だわ」 星が話題を引き継ぎ、終わりに導いたおかげで、食卓には平和が戻ったのだった。 十二月三十一日、大晦日。この日になると、今度はそれまでの慌しさが嘘のように、幻想郷はひっそりと静まり返っていた。皆、年の瀬ばかりは煩わしさから解放され、一年の締めくくりをゆったり迎えたいと思ったのだろう。 「お酒調達してきましたけど、これ、どこに置いときましょうか」 「燗の方が温まっていいかしら? でも、保存するには冷やした方がいいわよね?」 「ナズー。これ、お皿に適当に盛り付けちゃっておいてください」 「はいよ」 「私らは、どうしようか?」 「提灯でもぶら下げとこうか」 「いいね、雰囲気出そうだ」 しかし人里から少し離れた命蓮寺では、今宵開かれる宴のため、右へ左への大騒ぎが繰り広げられていた。 紫から贈られてきたと思しき鐘を、新しく作った鐘楼に吊るして試し打ちをしてみたところ、中から紙が落ちてきたのだが、その紙に「きたる大晦日に催される年越しの宴に、皆様お誘い合わせの上参ります かしこ」という一文が綴られていたのだ。端的に言えば「宴会を開け」ということなのだろう。 「これだけ用意して誰も来なかったらどうしましょうか」 「そうね……来るとは思うけど、その時は除夜の鐘でも撞きながら皆でのんびりやりましょう」 「それも悪くないですね」 破天荒極まりない要求ではあったが、宴というものを主催したことのない面々は、勝手がわからないながらもそれなりに楽しみながら準備を進めていった。 日が暮れ始めると、ぽつぽつと人が集まり始めた。まず白黒の魔女が人形遣いと共に現れ、次に鬼が巫女に伴われてやってきた。その後も天狗と河童、九尾と猫又、亡霊と半霊など、まるで本当にそれぞれが誘い合わせたかのように複数人で訪れる。 「こ、こんな人数来るなんて聞いてないよ……!」 「とにかく、お土産を広げていきましょう。肴もそれで足るはずです……計算上は」 それがこの地の流儀であるのか、来訪者は持ち寄った酒肴を星たちに預けていった。和菓子や洋菓子、はたまた焼いた油揚げなど、多種多様な肴に混じって、得体の知れない茸や夏野菜であるはずの胡瓜など、これを肴にしても良いものかと迷うような品も散見されたが、いちいち吟味するのも面倒くさくなったらしく、何も考えずに大皿に盛り付けるようになっていった。 日が落ちきり真っ暗になった境内を、ずらり吊るされた提灯が照らし出す。それだけの灯りでも、根雪の残る境内は光をきらきらと反射させ明るく見せていた。集まった者たちは皆、境内に敷物を敷いたり、本堂の中に寝転がったりと、思い思いに過ごしていた。集まった人数や時間を考慮しても、既に宴を開いても良い頃合であったのだが、 「……来ませんね、あいつ」 「どうしたのかしらね……」 肝心要の八雲紫が、まだ来ていなかった。 「どうします? 先に始めちゃいましょうか」 「うーん、そうねぇ」 辺りを見回してみれば、主だった顔ぶれの中に紫の式である九尾の姿があった。彼女なら何か知っているのではないか、そう思い声を掛けて見るも、別々に家を発ったのでわからないと言う。 「しかしまあ、そういうことであれば先に始めてしまって構わないと思います。多分……」 「多分?」 「誘う相手が居なくて窮してるだけだと思われますので」 そんなことがあるのだろうかと疑問を抱くが、ともあれ、紫の式が言うのであれば問題はないだろう。そう判断し、白蓮は宴を始めることにした。 「どこに行ったのかと思ったら……ここに居たのね、萃香」 「おう、紫。随分遅かったね? 先にやらせてもらってるよ」 紫が一人で姿を現したのは、乾杯の音頭から一時間ほどが経過した頃だった。対する萃香は、神社から持参したのであろう少し焦げ目の付いた畳を境内に敷き、その上に座していた。左手に控えた霊夢に酌をさせ、右手の星に管を巻く。その姿は、誰がどう見ても宴を全力で楽しんでいるようにしか見えなかっただろう。そしてそれは、紫も同じであったらしい。 「なんで先に行っちゃうのよう! 一緒に行きましょうって書いておいたのに!」 余程萃香を探し回ったのか、紫の瞳は少しばかり潤んでいた。 「あ。その手紙なら、私が読んで――処分しちゃった」 紫の言葉に反応したのは、萃香の横、薄い笑みを浮かべる霊夢であった。 「なっ……そ、それならどうして待っててくれなかったのよ!」 「いや、そうした方が面白いかなって」 霊夢の言葉に、紫は地面に崩れ落ちる。が、あまりに冷えていたのですぐに立ち上がった。 「霊夢……貴方とは、いずれ萃香を賭けて戦う必要がありそうね」 「上等」 先ほどまで涙目になっていたとは思えぬほどの眼力で、紫は霊夢に視線を飛ばす。霊夢はそれを真正面から受け、怯むことなく睨み返す。両者の間に紫電が走り、火花が飛び散る。 「おーい、勝手に人を――いや、鬼か。鬼を賭けないどくれよ」 渦中の人物であるはずの萃香は、まるで台風の目に居るかのように暢気にしていた。 どこまで本気か量りかねる掛け合いを終え、紫は白蓮の座る場所、本堂に続く階段へと向かった。その背を見送りながら、萃香は思う。さっさとほかの友達作りゃいいのに、と。 とは言え、紫の友人を続けることの難しさを萃香は身に染みて知ってもいた。故にそれは紫に対する思いと言うよりも、紫を取り巻く環境に対する苦言と言った方が正しかったのかもしれない。しかし萃香は、盃に口を付けたところではたと思い直した。あの尼僧もなかなかに年を食っているようだし、案外いい友人になるのではあるまいかと。 ――どうかあいつに、友達が増えますように。 心の中でそう唱えると、一度口から盃を離し、萃香は紫の背に向けて掲げてからくいと一息に飲み干した。除夜の鐘が、まるで開戦を告げるゴングのように、大きく鳴り響いた。