「なあ、輝夜」
「んー? なーにー、妹紅」
「めちゃくちゃ線入ってたんだけど、これ、どう繋げばいいんだ?」
「入らないとこには入らないんだから、入るところに入れなさいよ。がんばれー」
「壊したらどうすんだよ!」
「大丈夫、無駄にした金額はちゃんと報告してあげるから」
「輝夜、てめェ……!」
 高級住宅街に佇む、竹に囲まれた白亜の豪邸。
 周囲と比しても異常さが際立つその場所に、藤原妹紅はかつての仇敵と共に暮らしている。
 そして妹紅は今、ケーブルを握り締めた状態で、輝夜の部屋の前に立ち尽くしていた。
「って言うかさ、見たらなんとなく分かるでしょ? 形も結構違うわけだしさ」
「いや、でも、なんとなくで壊したら洒落なんないだろ!?」
「そんな繊細なわけないでしょーに。ったく、面倒くさいわねえ」
 ぶつくさ呟きながら、しかしぐるりと椅子を回転させた輝夜は、間抜けな格好の妹紅へと歩み寄る。
「んじゃ、そっちの部屋に行きましょうか。当然、置く場所は決めてるわよね?」
「もちろん」
 時刻は丁度おやつ時。
 ――アイスでも食べながら監督するか。
 自ら手を下すつもりは毛頭なかった。

「これ、上手く入らないんだけど」
 マウスの端子をPC背面にコツコツとぶつけながら、妹紅が懐疑の目で輝夜を見る。
「だーかーらー、形をちゃんと見なさいってば。まん丸じゃないんだから、わかるでしょ?」
 そんな妹紅に助言を飛ばしつつ、輝夜は特大のカップアイスを抉り食らう。
 当然、蓋の裏を舐めるような真似はしなかった。
 姫であるが故に。
「あー……、なるほどなるほど、こうすれば、おお! 入った、入ったぞ!」
「ア、ナルほど入った」
「んあ、何か言った?」
「んー? 別にー」
 ――テンションたっけぇー。
 手際の悪い妹紅の作業を、薄笑いを浮かべながら輝夜は眺める。
 配線は、事前に設置されたデスクと全く関係のない場所で構築されていった。
 それはつまり、デスクの機能を全く生かせていない、ということでもある。
 このまま続ければ再構築は避け得ぬと知りながら、しかし輝夜がそれを言う事はない。
 そっちの方が面白そうだから――理由はそれで十分だった。
「よっし、出来たー!」
 十数分後。
 苦難の末、妹紅のPCはディスプレイ以外の全ての配線を繋ぎ終えていた。
「おめでとう、おめでとう……」
「おう、ありがとうな輝夜!」
 ぱちぱちと己の太腿を叩き祝福してやると、妹紅は一仕事終えた顔で礼を述べる。
 その表情が絶望に染まったのは、それからすぐのことである。

「輝夜ぁー、音がちっとも鳴らないんだけど」
「あー、ジャック挿す場所間違ってるじゃない。色じゃなくてマークで区別しなさいよ」
「えぇー……」
「覚えときなさいよ?」
「あーい」
 ――……。
「輝夜ぁー、インターネットがちゃんと出ないんだけど」
「LANケーブル、ルーターに挿してないからでしょ?」
「ルーター?」
「こっち、こっち」
「あー、これかー」
 ――……。
「輝夜ぁー」
「だからこれは」
 延々と投げかけられるクエスチョンに、輝夜は根気良く付き合っていた。
 応対こそ投げやりなものになっていってはいたが、それでも投げ出すことだけはしない。
 輝夜の振る舞いを知る者であれば、ただ一言、『ありえない』と呟きを漏らすに違いない光景だった。
「なあなあ輝夜。なんか、脅し文句みたいなのが出てきたんだけど」
「んぁー? ああ、決まり文句じゃない。『はい』押しゃいいのよこんなもん」
「……なんか不安になってきた」
 そして、変わったのは輝夜だけではない。
 あれほど輝夜といがみ合っていた妹紅が、軽口を叩きながらも輝夜の言に従っていたのだ。
 二人の確執を知る者が見たならば、まず眼前の光景を疑い、己の目を疑った後、輝夜の従者・八意永琳に疑惑の念を向けたであろう。
 何かおかしな薬を盛られたのではなかろうか、と。
 だが、薬物によるコントロールであるとか、催眠による洗脳支配であるとか、そういった手合いの事実は一切なく。
 今のこの状況は、彼女たちが一つ屋根の下で一年少々の時間をかけて形成したものなのである。
 もっとも、それはいがみ合ってきた歳月を思えば芥子粒にも等しい期間ではあったのだが、
「他に分からないことは?」
「ええっと、ちょっと待ってくれ。……あれもやったし、これもやったし……」
「……」
「うん。多分、大丈夫だ。とりあえず必要なのは揃った、と、思う」
「そう。それは何より」
「ありがとな、輝夜」
「いーわよ、別に」
 数百年の時を経れば、恨み憎しみとて形骸化する。
 環境がいがみ合うことを禁じたならば、消えて失せるもまた道理。
 然るに今、二人は些か奇矯な振る舞いをしつつも、人の蔓延る現代社会に馴染んでいた。


『幻想郷からの追放』
 端的に述べるのであれば、彼女らにとっての転機とはそういうものだった。
 それは「環境が変わった」と言うよりも「世界そのものが別物になった」とでも言うべきものであったが、それでも彼女たちは順応することが出来た。
 彼女らと同じく幻想郷から追放された八意永琳が、何をどうしたか、ほんの数日の間に衣食住を用立ててくれたのだ。
『喧嘩は口か拳のどちらかにしておくように。もし面倒を起こした場合は、例え輝夜であろうとも罰を受けてもらいます』
 共に生活するのならばと規則も一つ設けられたが、しかしそれ以外のルールは存在せず、それ故妹紅は「良からぬ企みあってのことでは」と勘繰ってもいた。

 そもそも「顔なじみであるから」といって面倒を見るなど、宇宙人が取るには人間臭すぎる行動である。
 ましてや相手は月の頭脳と謳われた八意永琳、何か無いと思う方がおかしいと、妹紅は眉に唾をつけて警戒していた。
 が、あれよあれよと言う間に半年が過ぎ、しかし何事も起きず、起こる気配も無かったため、
『どうせ死にゃーしねえんだし、ま、いっか』
 罠なら罠で構いはせぬと遂に妹紅は警戒することをやめ、今の生活を楽しむことにしたという次第である。

「あー、あー。聞こえてるか? 輝夜」
《聞こえてるわよ。でも、ちょっと、音が小さい》
「あー! あー! このくらいか!?」
《どこの世界にそんな大声で会話する馬鹿がいるのよ、馬鹿。声が小さいじゃなくて音が小さいの。とりあえず、設定開いて》
 気がつけば、共同生活が始まってから一年以上が経過していた。
 帰りたい、という気持ちが無かったと言えば嘘になる。
 だが、それを実現するだけの力を妹紅は持っておらず、「永琳ならばあるいは」などと考えもしたが、永琳にそのつもりがあったのなら、とっくの昔に帰り着いているはずであった。
 人と妖怪の力の均衡。
 彼女らが妖怪にとっての圧倒的脅威足りえる人間である以上、幻想郷への帰還は叶わない。
 それこそが、彼女らが追放された理由であったのだから。
「あーー。これでどうだ?」
《おっけー、丁度いい塩梅よ。これでパシりが楽になるわね》
「やけに手伝ってくれると思ったら、それが目的か。ちったあ自分で動けよなー」
《謹んでお断り申し上げるわ。それじゃ、記念すべきボイチャパシリング一発目と参りましょうか》
「言ってろ馬鹿」
 だが、望みが無いというわけでもなかった。
 彼女ら同様、こちら側の世界に投げ出された十六夜咲夜は既に幻想郷への帰還を果たし、
『そのうち私たちも向こうに行くでしょうし』
 そんな咲夜を羨む妹紅に対し、輝夜がそのような発言をしたからである。
 既に一人を帰したという実績と、自分たちもそうなるであろうという輝夜の予測。
 慰めのためだけにわざわざ嘘を吐ける輝夜ではない。
 そして輝夜の心が幻想郷に向けられている以上、永琳の行動もそれに沿ったものになるに違いない。
《とりあえずお茶もってきて、お茶。あっついヤツ》
「人の話聞けな? ……で、何茶がいいんだ、何茶が」
《なんだかんだ言ってパシられてくれる、妹紅のそういうトコ、好きよ。紅茶でよろしく》
「はいはい言ってろ言ってろ」
 ならばその日が来るまでは、このような生活を続けてゆくのも悪くはないように思えてくる。
 そんな自分を「我ながら随分丸くなったものだ」と自嘲しつつ、妹紅はキッチンへと向かった。

 ただ、気掛かりなことは一つあった。
 輝夜の言う「そのうち」が、果たして何年後になるかということである。
 同じ時間を生きていると妹紅はついつい忘れそうになるが、輝夜はもともと月人である。
 そして月人には寿命がない。
 正確には『あるかもしれないが前例がないから定かではない』らしいのだ。
 寿命は、言うなればそれぞれが持つ時間の物差しである。
 妹紅が生まれた時代では、四十も生きれば目出度いことだとされてきた。
 それが、今の時勢は百を越えることもそれほど珍しいことではないのだと言う。
 妹紅から見て、今の人間が随分と悠長な生を送っているように映るのは、そういった事情もあるのだろう。
 もっとも、日々何かに急かされ生きているように見えもするが――
 それでは、寿命のない世界に生まれ落ちた輝夜の物差しは?
 一見すれば、輝夜という人間はひどく刹那的でせっかちで、気の短さでなら張り合えそうな気がしてくる。
 だが、互いに人生観を付き合わせるようなことがあれば、やはり輝夜は異質な存在なのだと思い知らされるのだ。
『人間の知り合いなんて、作ってもねえ。百年どころか、その半分ももつかどうか怪しいじゃない』
 それはつまり輝夜にとって、その程度の歳月であれば大した意味を持たないということでもある。
 だが、先の「そのうち」が同程度の感覚で発されたものであるのならば、妹紅としては困るのだ。
 妹紅が帰りたいのは幻想郷という場所そのものではなく、知る人の居る幻想郷なのだから。

「紅茶お待ちー」
「ん、来たわね……って、お茶請けの菓子は?」
「アイスがっつり食ってただろ、お前。まだ欲しいんなら角砂糖でも齧ってろ」
「むう」
 幻想郷への帰還が叶うのは、果たしていつ頃になるのであろうか?
 それとなく尋ねてみたことはあったが、具体的な答えは返ってこなかった。
『ま、あんたの心掛け次第じゃない?』
 その時輝夜が放った「従順であれば予定を早めてやる」とでも言わんばかりの口ぶりに少し引っ掛かるものを感じながらも、
「……甘い」
「本当に齧るやつがあるか!」
 事を荒立てたところで事態が好転するとも思えず、故に妹紅は腑抜けた日々を送り続けるのだった。


「妹紅ってさぁ」
《ん?》
「随分、穏やかになったわよねえ」
《何だよ藪から棒に……っておいバカ、何しやがる!》
 妹紅の操るキャラクターが壁面にピッケルを突き立てる様子を見て、その足元に火薬の詰まった爆弾を設置した輝夜は、そそくさとその場を離れながらそんなことを言う。
「だって、以前はこんな悪戯でも殺し合いになってたじゃない?」
《てめーの言う悪戯ってのは、人を家ごと爆弾で木っ端微塵にすることですかよ?》
「汚い花火だったわね?」
《ぶっ殺ッ》
 音声チャットを介し、やいのやいのと騒ぎながら、ゲーム本来の目的を忘れ二人はじゃれ合う。
《そんなに爆弾が好きなら、これでも喰らいやがれ!》
「死なばもろとも!」
 ぐるぐると駆け回りながら大小の爆弾を設置し合い、互いの分身が地面をごろごろ転がる様を見て楽しむ。
 これを見知らぬ人間と行ったならば、心穏やかでいられようはずもない。
 これが憎い相手であっても、結論は同じだろうと、輝夜は予測する。
 相手の思っていることはわからないが、こう思ったならこう反応するであろうということは予測出来る。
 そして遊びに乗ってくる妹紅を見るにつけ、輝夜は思うのだ。
 妹紅も随分、大人しくなっちゃったなあ――と。

 新しい暮らしが始まった当初は、妹紅に頼るべきものなど無いのだから、気弱になるか攻撃的になるかの二つに一つだろうと思っていた。
 そうして実際、妹紅は気弱になっていた。
 永琳の言いつけをきっちり守ったり、ちょっと世話を焼いたくらいで礼を言ったり、
 口ではあれこれ言いながらも二人から離れず、そればかりか家事全般を引き受けたり……
 家事の延長線上と捉えているのか、ちょっとした頼まれ事なら憎まれ口を叩きながらもやってくれる。
 ――まあ、その方が早く帰れるようにはなるんだけど。
 輝夜とて諍いを起こしたいわけではない。
 ただ、これまでの付き合いが付き合いだっただけに、今の状況に張り合いを感じられないのだ。
 だからこそ余計に、妹紅にちょっかいを出したくなる。
 永琳の下す処罰が喧嘩両成敗の形を取るとわかっていても、やめられずにいる。
 ――向こうに帰って早々、血気盛んになられても困るし?
 これはそのための慣らしなのだと心の中で嘯きながら、妹紅に手を出し続ける輝夜だった。

「……そんなことが原因で、部屋の風通しが良くなったと?」
「いや、その、申し訳ない……」
「〜♪」
「か、ぐ、や?」
「もうしわけー」
 ――このくらいなら、いやいやまだまだ、もう一声。
 そんな調子で悪戯を繰り返しているうちに、ついに妹紅の堪忍袋の緒が切れた。
 しかし喧嘩は御法度、口でも輝夜に勝てぬとなれば、もはや物に当たるほかなく。
「そうねえ。また壊されちゃ敵わないし、いっそあなたたちの部屋の壁、ぶち抜いて一つにしちゃったら?」
「そんな殺生な!」
「ちょっとそれどういう意味よ妹紅」
「そのまんまだよ! お前と一緒の部屋とか、絶対イライラで死ぬだろ!」
 妹紅と輝夜の部屋、その境界となっていた壁には、こぶし大の穴がぽっかりと空いていた。
「同じ部屋が嫌なら、自分で修復しておくように。明日になっても直ってなかったら……」
「なかったら……?」
「ぶち抜くわ」
 欠けた主語に、不穏なものを感じたのだろう。
「へ、壁材! 壁材確保しないと……!」
「そんなの後回しにしてゲームでもしましょう!」
「やってられるか!」
 妹紅は即刻修復作業に取り掛かり、輝夜はすぐさま邪魔を始める。
「仲良きことは美しきかな」
 そんな二人の様子を穏やかな眼差しで見つめながら、永琳は宣告した。
「――二人とも、前か後かは選ばせてあげるわね?」
 輝夜が翻意し協力を申し出たことは言うまでもない。


 幻想郷への帰還を、八意永琳はそれほど強くは望んでいなかった。
 残してきたものは幾つもある。
 道楽で飼い始めた地上の兎や、余計な真似をせぬように囲い込んだ月の兎、月から持ち込んだ物品の数々や、道楽で始めた医者の真似事――
 しかしそれらは永琳にとって、特別重要なものではなかった。
 輝夜の傍で仕える。
 その一点さえ満たしていれば、他の一切がどうであろうとも構いはしない。
 輝夜は幻想郷への帰還を望むからこそ、永琳はそれを果たさんとする。
 ただそれだけのことだった。

 ……実のところ、輝夜も幻想郷に対しては然程執着心を持ってはいない。
 幻想郷という特異な空間は興味深く、多くの享楽を与えてくれる場であった。
 だからと言って幻想郷の外、現代が詰まらない世界かと言えばそうでもない。
 人間観察にビデオゲーム、美食に湯巡り、その他諸々。
 楽しむつもりで臨んだならば、娯楽は幾らでも転がっている。
 わざわざ金を払わなければ風流を楽しめぬあたりは無粋に思えたが、それもまたこの地のルールと思えば気にならない。
 では、今の暮らしを満喫し、幻想郷の暮らしに執着せぬ輝夜が、何故帰還を望むのか?
『妹紅が帰郷を望んでいるから』
 特に深い理由はなく、恐らくはそれだけのことであろう。
 ――輝夜の物好きも困ったものだわ。
 永琳は思う。
 この調子で妹紅が飼い慣らされてゆけば、そう遠くない未来、幻想郷への帰還は叶うだろう。
 幻想となるための下準備も既に整えてある。
 人知れず幻想入りを果たし、その上で力を示さずにいれば、再び追い出されることもあるまい。
 そういった意味で、最も厄介なのは飼っていた兎であったが、
「薬屋も繁盛しているようだし、少なくともてゐの方は大丈夫そうね」
 意外なことに、屋台骨を失った診療所を施薬院として復活させたのはてゐであり、鈴仙はそれに引き摺られる形で二代目薬師として奮闘しているのだという。
「鈴仙が駆け込んできたら……耳をもぎ取ればいいか」
 人の下に妖怪が付き従うことに問題があるのなら、付き従う妖怪を人であるかのように見せかければよい。
 実際、鈴仙は妖怪などではないのだが、一度妖怪だと認識された以上、妖怪でなくとも妖怪として扱うほかない。
 あるいは、時が経てば本当に妖怪化するかもしれない。
 幻想郷とはそれほどまでに不確かな世界なのだ。
「……あぁ。薬で洗脳した方が楽だったわね」
 ともあれ、全てを差し置いても優先されるべきは輝夜の意向。
 それを完遂させるためならあらゆる手段を講じるのが、永琳が捧げる忠義なのだから。


「二、三年のうちに向こうに行くと思うから、やりたいことがあるなら済ませておいてね?」
 暫定的な予定だけれど……そう前置きをして永琳が告げたのは、妹紅が待ち望んでいたであろう言葉だった。
 だが、それを聞いた妹紅は動きをぴたりと止めただけで、
「――思ったより反応薄いわね?」
「はへっ!? ああいや、その、あまりにも急だったもんだから……!」
 かと思えば、里芋を口に放り込もうとしていた手が左右に振られ、箸から芋がつるりと飛び出す。
「……ねえ、妹紅。食べ物で遊んじゃ駄目って、昔習わなかった?」
 宙に投げ出された芋は美しい放物線を描き輝夜の額に衝突、一拍置いてその手の茶碗に。
 鼻梁を伝う煮汁に「もしや己の額には引力でも働いているのだろうか」などと輝夜は思いつつ、芋を取り上げぱくりと食べた。

「つまり、私たちは何もしなくていいのか?」
「特別なことは何も、ね。それが良いことでも、悪いことでも」
 何事もなかったかのように食事と説明が続いたので、妹紅も輝夜に一言詫びを入れたのち、その流れに乗ることにした。
「こっちの準備は済ませてあるんだけどね。あっちの環境が整うまでは様子見」
「それで、二年?」
「それだけ待てば、幾つかは異変が起きてるでしょう? 大事が起これば起こるほど、人の記憶は上塗りされる。忘れてもらわないと困るのよ。私たちが妖怪よりも強い、なんてことは」
 ふむと頷き、妹紅は考える。
『強すぎたから私たちは幻想郷を追われることになった』
 そのようなことを、以前、永琳は語って聞かせた。
 そして永琳の言うところの強さは、当事者の力ばかりでなく、人々の認識にも依るのだと。
「でも、たった二年ぽっちで忘れるもんかな?」
「人前に出たなら、すぐに彼らは思い出すでしょう。逆を言えば、それさえしなければそのうちに昔話よ」
 人との関わりをろくに持たずに生きてきた妹紅に、それが真実かどうかを判断する術はない。
 ただ、人前にさえ出なければ、再び幻想郷の地に足を踏み入れることが出来るであろうということ。
 そしてそれが、数年の内に成されるであろうということは、再会を願う妹紅にとっては、この上ない朗報であった。
「……あ、でも、そうなると人助けとかは」
「即、アウト」
「やっぱり……」
「だけどそれも方法とあなたの心がけ次第よ」
「本当か!?」
 ――カレンダーに印でもつけとくか!
 今しばらくの時間が必要だと理解していながら、それでも浮かれてしまうのは仕方のないことだったのだろう。




 喧嘩とも呼べぬほどの小競り合いを繰り返しながら、輝夜と妹紅は日々を邸宅で穏やかに、あるいは旅先で賑やかに過ごしていった。
 遠出の際には、永琳も監督役として二人に付き添った。
 平時は何をしているのか、それは何時になっても語られなかったが、
 ――紫と、幻想郷の話でもしてるんだろうな。
 きっとそうなのだろうと、妹紅は思うことにした。

 永琳は力を誇示するような人物ではないし、滅多に力を振るうこともない。
 必要な時に、必要なだけの知恵と力でもって事を為す。
 妹紅が抱く永琳への印象は、およそそんなところであった。
 妹紅も永琳と面識を持つようになって長いが、未だその知と力の及ぶところは計り知れない。
 だが、少なくとも幻想郷への扉を開くことは出来る。
 なればこそ、永琳の呼び声を紫は無下に出来まい。
 そう、妹紅は判じた。


 一方、幻想郷。
「ねえ。一つ聞いてもいいかしら、紫さん?」
「あらあら何かしら、永琳さん?」
「あそこに建ってる見覚えのない神社は何かしら?」
「おおむね右手に見えますのは、知恵と思考と思想の神を祀った八意神社にございますわ」
 そこでは妹紅が思っていた通りの組み合わせが、一人は仏頂面で、一人はアルカイックスマイルで語らっていた。
「……なんで、こんなものが建ってるのよ」
「誰かが里に広めちゃったらしいのよ。あなたが実は神様だったって」
 曖昧な笑みで語られる紫の言葉に、思わず永琳は溜息を吐いた。
 神として祀り上げられたならば、幻想郷での身の振り方には相応の自由が約束されるだろう。
 妖怪を配下にすることも、人々を救うことも、力を振るうことさえ許される。
 だが、神が人の下につくことだけは許されまい。
 それでは困るのだ。
「本当はわかってるんでしょう?」
 故に永琳は、追求する。
 どこに事の発端があるのかと。
「いやぁーそのー、それは非常に繊細な問題でー、誰かに責任を求めるというのはー」
 紫は、やはり曖昧な表情で、毒にも薬にもならぬ言葉を並べ立てる。
「誰?」
「稗田阿求です」
 が、重ねて強く問われた瞬間、姿勢と表情を正して口を割った。
「へえ、そう。――それで、稗田にそれを吹き込んだのは?」
 そして、その程度で追及の手を緩める永琳ではない。
 放射されるプレッシャーからか、紫の喉からおかしな音が漏れた。
「か、上白沢慧音です」
「ハクタクに吹き込んだのは?」
「ももも森近霖之助ですぅ」
「半妖に吹き込んだのは?」
「きりしゃめまりしゃでしゅう〜」
「白黒に吹き込んだのは?」
「れれれれいむにゃのぉ〜!」
 呂律が回らなくなる紫には構わず、永琳は更に更にと問いただす。
 先ほど姿勢を正した紫は、今では哀れ、表情どころか顔面どころか存在そのものが曖昧になっていた。
「では、紅白に情報を与えたのは?」
「あの日の私でしたぁーっ!」
 そうして最後の問いに答えた瞬間、ぷちゅ、と弾けて消えた。
「……」
 永琳は無言のまま、足元に視線を落とす。
 紫が立っていた場所にゆっくりと閉じてゆく一つのスキマを認めるや否や、迷わずそこに腕を突き込み、
「あぁん、いけずぅ〜」
「紫……あなたの今の言葉、後世まで残してあげるわ。大妖怪の断末魔として」
「お慈悲ー!」
 ずるりと紫を引き摺り出すと、おもむろに拳で語らい始めるのだった。


「――とまあ、そんなことがあったせいで、このまま行けば大幅に遅れが出そうなんだけど」
「それって、具体的にはどのくらい……?」
「ざっと十年単位」
「ひい!」
 ショックのあまり妹紅は一瞬天に召し、しかし天国への階段を蹴り落とされ、正気に戻ったのち、取り乱した。
「ど、どうすんだよそれ! 洒落なってないぞ……!」
「落ち着きなさいよ、妹紅。話、まだ続きがあるんでしょ、永琳?」
 そんな妹紅を輝夜が宥め続きを促すと、永琳は小さく頷き、
「これを解決するプランは、既に立ててあるわ」
 輝夜も取り乱さないようにね、と前置きをして、口を開いた。
「――輝夜、巫女になりなさい」
「はあ!?」
 しかし輝夜は取り乱した。
 己に累が及ぶとは思っていなかったからである。
「そんなの、嫌に決まってるじゃない!」
 ガタン、と椅子を蹴立てて立ち上がり、テーブルに手を突き身を乗り出す輝夜。
「……輝夜が巫女になれば、問題は解決するんだな?」
「ちょっと妹紅!?」
 その横で、言葉の意味を問いただす妹紅。
「解決します。これでもかというくらいスッキリと」
「永琳も何を……!」
 二人分の視線を受け、しかし動じず答える永琳。
 そんな永琳に、尚も食って掛かろうとする輝夜を引き止めたのは、
「――頼む輝夜っ、私のために巫女になってくれ!」
「土下座!?」
 一生涯目にすることなどないと思われた、妹紅の誠意の形だった。

「……んじゃあ、巫女って言っても、私は何もしなくていいの?」
「それっぽい服着てそれっぽい棒持って、たまに妖怪を退治してくれれば」
「服って、あの寒々しい形状のか」
「あんなの、袖を取ってつけただけのノースリーブじゃない。私はちゃんと袖のある服を着させてもらうわよ。ついでに千早も」
「あー、そういえば巫女服ってそういうもんだったっけ」
 妹紅の懇願に輝夜は折れ、結局巫女になることを承服した。
 だが、輝夜にも譲れぬものはある。
 受け持つ仕事と服装こそが、まさにそれだった。
「ま、要するに。私は巫女らしい格好をして、たまに神事の真似事でもして、後はおうちでぐうたらしてればいいと」
「ええ。巫女らしく見えさえすれば、後はどうとでも」
「ふ、そう考えればぐうたら巫女の前例はこの上なくありがたいわね……!」
 そうして多少の面倒を輝夜は甘受した。
 幻想郷で生活してゆくにあたり、妹紅も無傷ではいられぬことがわかったからだ。
「そうと決まれば、すぐにでもあっちに行った方がいいんじゃない? 信仰薄れちゃったら意味ないんだし」
「まあ、私は構わないけど」
「いやその……すぐにだと、ちょっと、困る」
「あぁそっか、妹紅は忍法のお勉強しなきゃいけないんだったわねぇ? ごめんなさぁい」
「ぐっ」
 ホホホと高笑いをし、輝夜は妹紅の肩を叩く。
 多少の面倒を引き受けるだけでそんなに面白そうなものが見れるなら、これを受けぬ道理は無い。
 これが輝夜の結論である。
 そうでもなければ、この先十年、二十年掛かろうとも、自らが動く気などさらさら起こさなかっただろう。
「妹紅が忍者になったら、やっぱり名前は赤影かしら? それとも髪が白いから、白影? 火を出すから火影なんてのもアリかもねぇ?」
「やめろぉ! やめてくれぇ!」
 面白全部でからかう輝夜。
 感謝と憎悪の狭間で床に頭を打ち付け続ける妹紅。
「……平和ねえ」
 そんな二人を眺め、永琳は思う。
 在り方を曲げてまで事を急いだのだから、輝夜には存分に楽しんでもらわねばならぬ……と。




「人の噂も七十五日……というわけで、待ちましょうか、二ヵ月半」
「大雑把だなあ」
 妹紅が忍者の知識を蓄え、輝夜が神楽を覚えた頃。
『そろそろ幻想入りの最終段階、入りましょうか? 時期的にも丁度いいし』
 永琳の一声により、輝夜たちが住まう邸宅は別所へと移された。
 別荘に移り住んだのではない。
 邸宅が周囲の竹林ごと、別の場所に移ったのである。
「二ヵ月半ってことは、ええと、今日が八月の二十四だから……」
「十一月六日が七十五日目」
「おお、計算早いなーって、ひょっとしてあいつから先に聞いてた?」
「聞いてはないけど気付いてた。七日が節目だし」
「? ……なんかよくわからんが、まあ、いいか」
「そーそー。細かいことは永琳に丸投げして、私たちはてきとーにやってればいいのよ」
「だなー。永琳、よろしくっ!」
「はいはい、全く。手のかかる子達だこと」

 人里離れた山間部。
 この国にもまだこれほどの自然が残っていたのかと思うような場所に、妹紅たちは居る。
「しかしまあ、電気も水道もないって凄く不便だよなぁ……」
「妹紅には感謝してるわよ? 火だけは使い放題だし」
「だからって、人の背中で鉄板焼肉とか、もう二度とすんなよ? 匂い染み付いてひどかったんだからな」
「餓鬼みたいになってたものねえ。四六時中ずうっと肉、肉って」
 進んだ文明に別れを告げ、再び始める質素な暮らしは決して楽なものではない。
「冷蔵庫も使えなくなってるし、生もの処分しないといけないわね」
「肉、肉、魚! 肉、魚!」
「お前こそ餓鬼じゃねえか、このなまぐさ巫女姫が」
「うっさい! 四つんばいになってケツをこっちに向けな、この下忍!」
「だーかーらー、鉄板を人に乗せようとするんじゃねー!」
 だが、遠く響く電車の音を耳にしながら、やはり自分にとってはこれが自然な暮らしなのだと妹紅は思う。
 多少不便であったとしても、だからこそ互いの力を必要とする世界。
 繋がり合う人の居る場所を選んだのは、他ならぬ妹紅自身であったのだから。








「……でさぁ、永琳」
「何かしら、輝夜」
「妹紅の忍者ごっこ、いつまで続けてられると思う?」
「さあ? 少なくとも半獣が居る間は頑張るんじゃない?」
「そっかー。まだまだ先は遠そうねえ」
「気長に待てばいいじゃない。どうせ時間は腐るほどあるんだし」
「ええ、そうね。――あぁ。それでもやっぱり、早く見たいわ」

「此処を再び追われた時、妹紅はどんな顔をするのかしら!」






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