吹きつける風に少し冷たさが混じり始めた十月。  店内に差し込む柔らかな日差しの下、森近霖之助は本を読み耽っていた。  美味いお茶を傍らに過ごす、静かな時間。  これぞ読書の秋、といった環境に、霖之助は小さな幸せをかみ締める。  客観的には『客来なくてやることねぇから本読んでるだけ』といった風にも見えるだろう。  そして繁盛していないという認識は、実に的を射たものでもある。  が、当の店主、森近霖之助は、それを深刻な問題とは捉えていなかった。  客足が遠いのは今に始まったことではない。  頻度は低いながらも、安定した得意先があるのだから。  むしろ閑古鳥よりも、頻繁に訪れる常連の方が厄介である。  常連の面々は、どうしたわけか金を落としていかない輩ばかりであり、  のみならず、店のものを好き勝手に拝借する始末だ。  普通の店であればブラックリスト入り確定である。  騒がしい連中に居座られるくらいならば、一人で読書に勤しむ方が余程マシというものである。  まさに営業という言葉とは無縁の在り方。  それでも商売相手はちゃんといたりするのが、香霖堂という店だった。  そしてこの日、香霖堂の扉を叩いたのはお得意様の方だった。 「霖之助は居るか」 「居るよ。入ってくれ」  扉を細く開け、薄暗い店内を伺う女性の名は上白沢慧音。  人と生活を共にする半獣である。  霖之助にとって慧音は、食糧を里から運び込んでくれる上客とも言うべき存在だった。 「これはこれは。ようこそおいでなさいました、上白沢様」  食事という行為自体は一種の娯楽に過ぎないのだが、娯楽自体が少ない幻想郷である。  彼が慇懃な態度を取ったところで、なんら不自然なところはなかった。 「その喋りは止めてくれと、前も言っただろう」 「これは失敬」  が、この余所余所しい口上に対し、苦言を呈する慧音。  お堅い人だと評される慧音であるが、それだけが上白沢慧音という人物ではなかったのだ。  二人の出会いは十数年前まで遡る。  香霖堂の看板を掲げるより以前、霖之助は人里で日々を過ごしていたことがある。  生まれ持った能力を生かすため、霧雨店という大店に勤めていたのだ。  結局、そこでは能力が無意味に近いことを悟って店を去るのだが……  ともあれ、その間に二人の関係は築かれていたわけだ。  半妖と半獣。  先天的、後天的という差異はあれど、長きを生きるもの同士である。  人の中にあって、この二人が殊更親しくなったのは、極々自然な成り行きと言えただろう。  霖之助が辺鄙な場所に店を構えたせいで顔を合わせる回数こそ減っていたが、  友人としての付き合いは何変わることなく、継続していたのである。 「正直、あの口上を聞かされるたび背筋に薄ら寒いものが走るんだが」 「酷い言われようだな。……まぁ、前向きに検討だけはしておこう」 「検討ではなく実行してくれると嬉しいな、私は」  いつもどおりの会話をしながら、これまたいつもどおりに麻袋を差し出す慧音。  中には収穫されたばかりの甘藷がこれでもかと詰まっていた。 「これはまた大漁な。お疲れ様、重かったろう?」 「構わんさ。というか、言っても取りに来ないだろう、霖之助は」 「まあね」  腐っても半妖。  霖之助とて人並み以上の力は持っていたし、力に頼らずとも知恵と道具を駆使すれば事は済む。  それでも自ら出向かないのは、偏に霧雨家とのしがらみが面倒だったからである。 「で、今回も霧雨の親父さんから何か?」 「いつもどおりだな。娘が息災かどうか、聞いてくるよう頼まれた」 「じゃあ返答もいつもどおりだ。あちこち元気に飛び回ってるよ、彼女は」  むしろ元気すぎて迷惑しているくらいだが、そこは伏せておく。 「ではそのように伝えておこう」 「頼んだ。僕が行くと、あれやこれやと聞かれてくたびれるんだ」 「はは、そう言ってやるな。親というものは子が幾つになっても可愛いものだ」  そんなものかね、と袋の口を縛りながら呟く霖之助。  子を持ったことのない彼には、到底分かり得ないことだった。 「さて、今回の支払いはどうしようか?」  椅子に座り、茶を啜りながら二人は話し合っていた。  乱雑に配置された商品たちを見遣りながら、慧音は言う。 「うーむ、そうだな……何か、里の子らが喜ぶようなものでもあればいいのだが」 「生憎当店はそういった商品とは縁が薄いものでして」  慧音は数少ないまともな商売相手である。  そういった意味でも、彼女は上客と言えた。  問題は、香霖堂の仕入れ元自体が特殊すぎたことか。 「うん。まあ、知ってる」  承知の上で、新しい商品に目を通していく慧音。  半分はお節介、もう半分は興味本位である。  過去の歴史ばかりでなく、新しいものも等しく愛でるのが彼女という人間なのだ。 「虫除けスプレー? ふむ、外にはこんなものもあるのか」 「ああ、虫を遠ざける道具だね。行楽のお供にと書いてあるが……」 「妖怪に食われるだろう、暢気に歩いてたら」 「全く以って」  案外、虫の妖怪には効くかもしれない。 「ふーむ、ここの本はあまり授業に役立たないしなあ」 「心外だけど同感だね。……ああそうだ。丁度いいのが、確かこのあたりに」  手を打ち鳴らし、霖之助は店の一角へと向かう。 「む、まさかあるのか?」 「授業に役立たない方がね。ほら、これだ」  そう言って彼が取り出したのは、色あせた箱だった。 「ジェンガ?」 「そう、ジェンガ。多人数で遊ぶバランスゲームらしい」 「ふむ……」  中を覗き見ると、そこには直方体の木片が大量に詰まっていた。 「写真から推察するに、バランスの悪い、高い塔を作るゲームなのだろう。まあ積み木にでも――」 「説明書、ついてるぞ」 「え?」  慧音の手には折りたたまれた一枚の紙。  箱の中身をひっくり返したらしく、机の上は木片で埋まっていた。 「へえ、ちゃんと入ってたんだ」 「霖之助、お前、見なかった……んだろうな。遊ぶような歳でもないか」 「本を読んでた方が積み木よりも建設的だからね」 「霧雨の子や博麗のは? よく来るのだろう?」 「慧音。……君は彼女らと勝負をしてみたいと思うか?」 「いや、遠慮願いたいな」  即答である。  霊夢も魔理沙も、厄介な連中に分類される常連客である。  そんなツケまみれの相手と勝負すれば、負けた時どうなるかは火を見るより明らかだ。  君子危うきに近寄らず。  賭け事で店が存亡の危機など、お笑い種にもなりはしない。  もっとも、商品の主な仕入先は漂着物なのだが。 「今はそれくらいしかないかな? また何か見つけたら教えるよ」 「そうしてくれるとありがたい」 「さて、そうなると残りの支払いだけど、この鉄でどうだい?」  霖之助は錆びた鉄を山から取り崩し、空の麻袋に詰め、提示する。 「農具の材料にいいんじゃないかと思うんだが」 「悪くはないな。だがもう少し……そう、このくらいは足してもらおうか」 「おっとと。仕方ない、今回限りだよ」  幾度目になるか分からない『今回』を口にし、二人の商談は成立したのだった。  冷え込みが厳しさを増し、秋姉妹が暗くなり始める十一月。  この日も霖之助は窓辺で本を読み耽っていた。  机の脇ではストーブが稼動し、その上部では薬缶がシュンシュンと湯気を立ち上らせている。  明かりを点けているのは、空と窓が曇っているためか。  頁をめくる音だけが支配する店内に、不意冷たい空気が入り込んだ。 「霖之助は居る、か」 「居るよ。入ってくれ」  扉を開けて姿を見せたのは慧音だった。  だが、どうにも様子がおかしい。  いつもならすぐに上がりこんでくる筈が、今日に限ってなかなか入ってこないのだ。 「? どうした、慧音。開け放していると寒いんだが……」 「あ、ああ。すまない。すぐに閉めよう」  急ぎ扉を閉じ、足を踏み入れる慧音。  だがその間も、彼女の視線はずっと霖之助……の膝の上でくつろぐ少女に向けられていた。 「それじゃ、僕はお客さんの相手をするから。勝手に読み進めててくれ」 「はいはーい」  返事と共に膝上から飛び降りた少女は、どう見ても化生の類だった。  背に生えた一対の羽。  頭に生やした二本の角。  慧音同様、白と青という人間離れした色彩の髪だ。  もっとも、香霖堂に普通の人間が来るはずもないのだが。 「さて、と。ようこそおいでくださいました、上白沢様。本日はどのようなご用件で?」  立ち上がり、霖之助は慧音に歩み寄る。  一方の慧音は、気もそぞろといった様子で視線を彷徨わせていた。 「あー、うん。今日は柿を届けに、きたんだが」 「……何かあったのかい?」  様子がおかしいことに気付き、問いかける霖之助。 「そう、そうなんだ! 今年の柿は食べるととても甘い柿が取れてだな!」  しかし返ってきた答えは見当外れなものだった。 「君のところの柿は毎年甘いような気もするが……」 「そ、そうか? まあいいじゃないか。それで、まあお裾分けをしにきたわけなんだ、うん」  柿を包んでいるであろう風呂敷を手近な商品の上に置き、後ずさる慧音。  まるで大きな動物にエサを与えるような仕草である。 「どれ」  仕様がないので、物を確かめようと近付く霖之助。  同時に、慧音は霖之助の側面に回り込むようにして扉へと向かい、 「今日の用事はそれだけだから、その、なんだ? 邪魔したな、ははははは」  乾いた笑いと柿だけを残し、慧音は去っていった。 「……何だったんだ、一体」  風呂敷を抱えた霖之助は、扉を見つめたまま首を傾げる。  余程急いでいたのかとも思ったが、それなら柿を届けに来る暇などないはずだ。  柿を片手に固まりかけた霖之助、だが不意に袖が引かれたことで我に返る。  袖を掴む手は、本を読んでいた少女のものだ。 「ん? ああ、どうした?」 「あの人、誰?」 「彼女のことか……。古い友人だよ。今日はちょっと騒がしかったけど、普段はそうでもない」 「ふぅん、お友だち、ねえ」 「さて、それじゃあ本の続きを読むとしようか。」  少女と入れ替わりに霖之助が着席し、その膝へ少女が飛び乗る。 「椅子、新調しないとなあ」 「あー、そうだね。悪いことしちゃったかも」 「悪いこと? 頁でも破って食べたのかい?」 「私はヤギじゃない」  本を手に取ると、開かれた頁は霖之助が席を立った時からほとんど進んでいなかった。 「本より面白いもの、見つけたかも」  少女はそう呟き、ニヤリと笑う。 「そんな稀有なものが? 是非ご教授願いたいが」  霖之助は問う。  だが、少女に答える気などさらさら無く、 「ま、頑張りなよ」  などという、謎の助言を与えるのみだった。 「霖之助〜、失礼するぞ〜……」  それから数日後、慧音が蚊の鳴くような声を上げて店に入ってきた。 「ああ、いらっしゃい」  慧音はどこかそわそわとして落ち着きがない。  柿を持ってきた時も様子がおかしかったことを思い出し、霖之助は尋ねた。 「間を空けずに来るなんて、珍しいね。何か相談事でも出来たのかい?」 「えー……っと、まあ、そのようなものだ」  歯切れの悪さが気になる霖之助だったが、話を聞かないことには進まない。 「僕で力になれるといいんだが」 「ああ、多分、大丈夫だ。そんな大したことじゃないし……」 「ふむ」  どっしりと構え、次の言葉を待つ。 「あのー、えっとー、そう、ジェンガ! あれを子供たちがいたく気に入っててだな」 「え、ええ?」  気構えが崩れ、椅子から転げ落ちそうになる霖之助。  何故ここでその名前がと耳を疑った。 「覚えてないか? 木製の……」 「いや、覚えてるよ。先月渡した玩具だろう?」 「そう、それだ。あれがなー、遊びすぎて何度か板を紛失するほどで――」  一瞬、しまった、という顔をして固まる慧音。 「失くした? もしかして、それをどうにかしろって言うんじゃ」 「ああいや、そうじゃない、違うんだ」  余程慌てていると見え、身振り手振りを駆使してまで否定する。 「違うんだ」 「うん、そう、そうなんだ。ちゃんと探して元通りだから、それは大丈夫だ」  紛失したのかと思いつつ、話を先へ進めるためスルー。 「元通りなんだな、わかった。だからまあ、落ち着きたまえ」  「う、うむ」  大きく二度、深呼吸。  それにより、慧音は幾分かの冷静さを取り戻した。 「で、肝心の相談事とは?」 「それは、だな」  慧音の視線が泳ぐ。  だが、今度は脱線せず、本筋に進めたらしい。 「霖之助は……その、この間の妖怪とは、親しくしてる……、のか?」 「……へ?」  一瞬、霖之助の理解が遅れた。  慧音が言わんとすること自体はわからなくもない。  未知の妖怪を既知のものとすることは、里をより安全にすることと同義なのだから。  問題は、それを尋ねる慧音の様子が明らかにおかしいことだ。 『森近さんって、付き合ってる人……いるんですか?』  大昔に告白された時、これと似たようなことがあったなあ、などと回想しながら、 「いえ、特にいません」  うっかり間違えた答えを返していた。 「いや、居ただろ?」  何故か怒られた。  先ほどの言葉を急いで訂正し、食い違いが無いように確認していく。 「この間の妖怪ということは、ここに座って本を読んでいた女の子……で、合ってるのかな?」  見た目は少女である。実年齢のほどは定かではないが。 「ああ、うむ。……霖之助の膝に座っていたあの『妖怪』だ」  慧音の言葉には若干の刺々しさがあった。  霖之助は、妖怪と親しげにしていたことが不興を買ったかもしれないと考え、言葉を重ねる。 「いや、別段親しいというわけではない。ただ、本を読みに来てるだけだよ、彼女は」 「ふぅん……」  なるべく刺激しないよう、言葉を選ぶ霖之助。  だが、慧音の返事は素っ気無いものだった。 「それで、妖怪の名前は?」 「さあ?」 「さあ、って、お前……」 「店の物をとっていくようなら名前も必要だがね。幸い、そういったことがまだないもんで」 「お前は名前も知らない相手をひ……、店に上げてるのか」  苦々しい表情の中に、非難の色。 「まあ、お客というわけでもないからね。知ったところで意味がない」 「……そもそも、妖怪が居ては客も寄り付かないと思うぞ」  危機管理がなってない、という意味もあるのだろう。  自ら嵐に身を投じるような輩は居ないだろう、ということだ。 「残念ながら、寄り付かなくなる客が居ない」  が、そもそも店の位置からして安全とは程遠い香霖堂である。  風評被害など被る余地がないと冗談めかして答えるのが精一杯だった。 「……済まない、霖之助」  そしてこんな時に限って、真正面から受け止めてしまう慧音。  いかんな、ジョークのせいで歯車がずれたか……。  霖之助は心の中で呟き、慧音に言葉をかけた。 「謝らないでくれ、なんだか余計惨めに思えてくる」 「う……、わかった。次、次に行こう! やってくる頻度はどのくらいだ?」 「週に二、三度といったところだね」 「そんなに? んん……それで、何か害を成したことは?」 「特には。店先で魔理沙と一戦やらかしたくらいかな? まあ、負けていたがね」 「懲りずに来てるのか……。ふむ、わかった。ありがとう」  会話はそこで途切れ、慧音が手帳に筆を走らせる音だけが続いていた。  不意に、思いついたことが合っているか確かめたくなり、霖之助は口を開く。 「ふぅーむ、ひょっとして……」 「な、なんだ?」  ガタタ、と椅子を揺らして慧音は身構える。 「慧音、君は知らない妖怪がいたものだから、あんなに取り乱していたんだろう?」 「――っは」  うむうむ、と一人頷く霖之助。  慧音はしばし、落ち着き無く視線を彷徨わせていたが、 「ははは、ばれてしまったか。実はみっともないところを見せてしまったのが恥ずかしくてなあ」 「大丈夫だよ、安心していい。僕の知る限り、彼女はただの読書家だ。妖怪にしては話も通じる」 「いやあ、そうかそうか。うん、それはよかった」  左手で頭を掻きながらも、もう一方の手は忙しなく動き続けていた。 「……そうだ。店の前で霧雨の子とやり合ったと言ったな」 「ああ」 「何が原因だったのか、教えてもらえるか?」 「ふむ」  魔理沙と少女の間になにかしらの因縁があったわけではない。  その部分だけを抜き出したところで上手く説明出来るとも思えなかったので、 「少しばかり長くなるが……そうだね、一から話すとしよう」  慧音には悪いが、長話に付き合ってもらうことにしたのだった。 「あれは確か、去年の冬のことだ」 『今日は恒例の鍋の日だぜ』  事件の前後、魔理沙が朱鷺を掴んで持ち込んできたことを思い出す。  気温の低い日は鍋の日。  確かそんなことも言っていたなと思いながら、記憶に誤りがないことを確信する。 「事の始まりは、霊夢が妖怪から本を巻き上げたところからだ」  道を歩いていた霊夢は、楽しそうに本を読んでる妖怪を見かけたらしい。  なんとなく不意打ちを仕掛けてみたらしいが、予想に反し、生意気にも強かったのだとか。  結局けちょんけちょんに倒しはしたが、その戦いでスカートが裂けてしまった。  そこで霊夢は僕にそれを繕えと言ってきた。  勿論タダでやるほどお人好しじゃないからね、僕は取引をしたわけだ。  巻き上げてきた本も興味深かったからね、それを請求することにした。  僕からの条件は、服を仕立て直すことと、その間着る服を提供すること。そして―― 「ま、待て待て!」 「どうしたんだい、まだ本題にも入ってないのに」 「今お前、服を貸したって」 「正しくは勝手に着ていた、と言うべきか。仕方ないから条件に入れただけだよ」 「ああー……、いやでもそれは……」 「話、続けるよ?」  そして、追って来た妖怪に壊された扉の修繕費を請求しないこと。  以上の条件で取引は無事に成立したんだけども、妖怪としては納得できるわけがないよね。  取引に使われた本は、彼女が拾ったものなんだから。  そのままじゃ、僕にも矛先が向かうかもしれない。  妖怪におびえて日々を過ごすなんて真っ平御免だからね。  僕はズタボロになった彼女に、お互いに損のない取引を持ちかけたわけだ。 「それが今も続いている、というわけだ」 「取引の内容は?」 「彼女は拾った本をこの店に寄贈する。その代わり、僕は店の書籍を彼女に開放する」 「うわぁ……。都合のいい使い走りじゃないのか? それは」 「僕は本が増えて嬉しい。彼女は本が読めて嬉しい。何も問題はないよ」 「否定はしないんだ」 「した方が良かったかい?」  霖之助が尋ねてみると、慧音は難しい顔をした。  ……まあ、そんなところかな。  そう言って霖之助は湯呑みを傾け、窓の外へ視線を向けた。  霖之助の話を信じるならば、あの少女は一介の取引相手に過ぎない。  客としての要素は十分に満たしているのでは、と考える慧音。  だが、香霖堂の店主に顧客情報云々などという話をしても仕方が無い。  不明瞭な点は幾つかあったが、自分の知らないところで生まれていた霖之助と妖怪の縁が、  取り立てて騒ぐほどのものではなかったことに、慧音は安堵していた。 「噂をすれば影がさす、か」  不意に、外を眺めていた霖之助が口を開く。 「ん? どうした」 「渦中の人物がおいでなすった」  机に手をつき身を乗り出し、慧音もそれを目撃した。  笑顔で香霖堂にやって来る、本を持った妖怪の姿を。 「おっじゃまー。あっ、この間の人じゃん」  勢い良く扉を開け、淀みない動作で慧音の存在に驚く。  三文芝居としか言いようの無い行動である。 「やあ。……その本は寄贈品かな?」  が、そういったことは全て放り出し、霖之助は尋ねていた。  彼の興味は、少女が手にした本に釘付けにされていたのだ。 「うん。私は読み終わったし、好きにしてもらっていいよ」 「それはありがたい」  本を受け取るや否や、頁をめくり始める。  表紙には『宇宙を復号する』という仰々しい文句と白黒の弾幕模様。  一体それが何の本であるかまでは、慧音には分からない。  が、自分を差し置いて本を読む霖之助の姿に、少々苛立ちを覚えたことだけは理解した。  ふと視線を落とすと、少女が慧音の顔を見上げてにこにこと笑っていた。 「ね、お姉さん。今、退屈だよね?」  お前の持ってきた本が原因だろう、という思いが慧音の胸中に湧き上がる。  が、それではまるで恨み言である。  醜態を晒すべきではないと、慧音は自制心を働かせた。 「……ああ、そうだな」 「お話、しよっか?」 「え」 「だって退屈なんでしょ?」 「確かにそうだが」  少女は無邪気な笑顔を装って提案する。  妖怪がそのような表情をする時、大抵は何か企んでいるものだ。  慧音もまた、会話に応じればロクでもない目に遭わされると直感した。 「いや、私はこれで帰るよ」  三十六計逃げるにしかず。  本日の目的は達せられたのだからと、その場から離れることを選ぶ慧音。 「邪魔したな、霖之助」 「ん? ああ、またどうぞ」  相変わらず、霖之助は本に夢中なままだった。  帰路についた慧音は、一人考える。  ――霖之助とあの妖怪の関係を聞き出すことには成功した。  そしてその関係が不穏なものでないことも分かった。  今日、香霖堂に行ったのはそれが目的だったのだから、何ら問題はない。  が、どうにもスッキリしない。  やはり妖怪から逃げ出したような格好になったのが原因だろうか―― 「ううむ」  思いつく限りの理由を上げてみるが、どれをとっても釈然としない。  それはつまり、正解ではないということ。  直感に追いつけない理性が、なんとももどかしかった。 「ああもぅ……。ええい! 忘れよう、このことは!」  結局、里に着くまでの時間を思考に費やしても答えは得られず。  わからないことは気にしないようにする、という結論に至ったのだった。 「あーあ、逃げられちゃった」  机に腰掛け、足をぶらぶらとさせながら少女は嘆く。 「面白い話が聞けると思ったのになー」  少女が慧音に興味津々であることは明らかだった。  まさかとは思うが、これが原因で慧音との関係が破綻しては堪ったものではない――  そんな気持ちから本を置き、霖之助は眼鏡を正しながら言う。 「……彼女をあまりからかわないように」 「え、なになに? 今らしくない言葉が聞こえたヨー?」  すると、先ほどまでの悲嘆はどこへやら。  少女は朗らかに「もう一回! もう一回!」と霖之助をバシバシと叩き始めた。   その衝撃に揺られながらも、無視を決め込み本を開こうとする霖之助。  が、少女の手が固く握られた瞬間、彼は屈した。  非暴力服従である。 「忠告だよ、忠告。聞いておいた方が身の為だと思うがね」 「またまたー、どうして素直に言えないかなー」 「この、この!」などと口走りながら、少女の指先が肩を押す。  こんな性格だったろうか?  霖之助は首を捻ってみたが、相手が化生だということを思い出した瞬間、どうでもよくなった。 「怒らせると本当に怖いんだよ? 特に頭突きが」 「頭突きって……情緒ないなぁ。そこは往復ビンタとかじゃないの?」 「痴情のもつれじゃあるまいし」  大体、往復ビンタやってるところなんて、いまだかつて見たことが無い。  いやしかし、名前がついているのだから、実践している人だっているかもしれない。  外の世界では頻繁に使われている、そんな可能性は否めない。  ならば幻想郷では実践されてない理由にも……  ふと顔を上げると少女が弓を引き絞るような動きを見せていた。  もちろん、弓や矢を持っているわけではない。  左手が掴んでいるのは霖之助の肩であり、右手は力いっぱい握り締められているだけだ。  だが、例え。 「おや、これはどうしたことかな? かな?」 「あ、起きちゃった? 目、開けたまま寝てたみたいだから、起こそうかなって思ったんだけど」 「……丁重にお断りするよ」  永眠させるつもりか? 往復ビンタの方がまだマシだ!  そんな言葉が霖之助の喉元まで出掛かっていたが、実践されたくはないので口を噤んだ。 「んじゃ今日はこれで帰るねー」  その後まもなく、少女は店から出て行った。  今日は最初から慧音が目的だったらしく、本棚を漁る素振りさえなかった。  だとすれば、慧音が店に居ることを知った上での来訪ということになる。 「張り込みでもしてたのかな」  暇な妖怪ならば十分に有り得る話だった。  加えて少女の場合、本さえあれば待つ間も暇を潰していられるのだ。  読んでいた本を霖之助に与えればそうそう無碍にされることもない。  たとえ読みかけであったとしても、香霖堂に来ればまた読める。  成る程よく練られた作戦だと、霖之助は感心した。 「まあ、僕が里に行けば済む話なんだよなあ」  が、現時点でそれを行うのは早計に過ぎると霖之助は判断した。  これが一つ目の事例であり、後に続くかどうかは未知数だったからだ。  同様の出来事が二度、三度と続けて起こるようなら、対策を練らなければならないだろう。  二人が打ち解けて問題が解消される可能性も無いとは言い切れない。  となれば、他者の機会を一方的に損失せしめるのは僕の望むところではないし、  今しばらくは事の成り行きを見守るとしよう――  端的に言い切れば『面倒だから問題が出るまで放置』ということなのだが、  それをもっともらしい理屈で凝り固め、霖之助は自分を納得させた。  さて。  そんな霖之助の思いを知ってか知らずか、  それからの慧音は、週に二度、香霖堂に足を運ぶようになっていた。  最初は「おかずを作りすぎたから」と持ってきたのだが、流石に不自然だと思ったのだろう。  以降は「近くを通りがかった」という理由で上がりこんでいた。  そうして多くの場合は、慧音に少し遅れて少女もやってくるのだ。  落ち着かない日々を一ヶ月ほど過ごした頃、霖之助は尋ねていた。 「やっぱり、あの子のことかい?」  慧音はただ、うむ、と頷いた。  それ以上の説明は必要なかったからである。  大晦日を目前に控えた十二月。  この頃になると少女も開き直ったのか、それともただ単に暖を取るためか。  慧音が来る前から店に入り浸り、黙々と読書にいそしんでいた。  一方の慧音も心得たもので、本当に用がある時は少女がいない所にやってくる。  少女が居ない時とは、すなわち霊夢が居座っている時である。 「あら、ハクタクじゃない。なんだか最近よく顔を合わせるわね」 「そうか? まあ、狭い幻想郷だ。そんなこともあるだろう」 「別にいいけどね。ところでどう? おいしい羊羹があるんだけど」 「……霊夢。開けるのは構わないが、一言断ってからにしてくれないか」 「はい、霖之助さんの分。お茶も入ってるから、自分で注いでね?」 「……はあ」 「はは。苦労するな、霖之助。私もご相伴に預かって構わないかな?」 「ああ、お好きにどうぞ。元はと言えば君が持ち込んだやつだし……」  少女は霊夢を避けている。  それが分かってからは、慧音が茶と菓子を運び込んでいたのだ。  ただで飲み食いされた経験がまさかこんなところで生きるなんて、とは霖之助の言である。 「あらこんなところに素敵な茶葉」 「言っておくが、持ち出し厳禁だからな?」  だが、霊夢は霊夢で、隙あらば茶筒ごと持っていってしまうのだ。  彼女もまた、油断ならない敵なのだった。 「そういえば、大晦日にうちで忘年会するんだけど」 「本当に君のところは宴会が好きだな」  霖之助は、霊夢たちが以前、毎夜のごとく宴を開いていたことを思い出す。  羽目を外して騒ぐ、ということが苦手な彼にとって、それは信じがたいことでもあった。 「仕方ないでしょ、そういうのが一匹棲み付いてるんだから」 「そういえば、神社は鬼に占拠されたと、里ではもっぱらの噂だが」 「あら、誰か近くまで来たのかしら? お賽銭はなかったけど」 「鬼がいたんじゃ下手に近付けないだろう、普通は」 「ああそっか、あいつが原因か……うーん、まあいいや」  それだけが原因でないことを、慧音は良く知っていた。  あまりにも人間以外のものが寄り付きすぎるのだ。  だが、助言したところでどうなるものでもない。  いつか妖怪にまで賽銭を要求し始めるのではないか?  それだけが心配ではあった。 「で、霖之助さんも来る?」  小首をかしげて霊夢は問う。 「うーん、店を無人にするのは少々心許ない気がする」 「魔理沙ならうちに来るわよ?」 「ふむ……」  盗人が目の前にいれば安心、ということだろう。  霖之助からしてみれば霊夢も似たようなものなのだが。 「いや、やはりよしておこう」 「それはまたどうして?」 「蕎麦を打たされるような気がする」 「残念。今年も萃香に打たせるしかないわね」 「打ち手、いるんじゃないか……」 「それはそれ、これはこれ。毎年同じじゃ新鮮味に欠けるじゃない」 「小鬼泣かせな巫女だ」 「専門家だからね」 「さて、そろそろお暇しようかな」  窓の外はすっかり暗くなっていた。  普通の人間ならば妖怪を恐れて家に入っている時間なのだが、霊夢はお構いなしである。  ゆえに、消費される茶請けの量も人並み以上となる。 「結局全部平らげたね……」  恨みがましい目で霖之助が見るのは、空になった羊羹の箱だ。 「どうせ霖之助一人だと食べないんだし、構わないじゃないか」 「まあそうなんだが」 「細かいこと気にしてたらもてないわよ?」  けらけらと霊夢は笑う。 「もてるも何も、人との出会いが――」 「なくはないでしょ? ねえ、ハクタク?」 「へっ!?」  突然話を振られ、慧音は動揺する。 「ああ、もうもてる必要もないのか」  そこへ更なる追い討ちをかけた霊夢は、 「じゃあ二人とも、よいお年を」  何事もなかったかのように、さっさと帰っていった。  後に残された二人には形容しがたい居心地の悪さだけが残された。  霊夢の発言が原因であることは言うまでもない。  霖之助も慧音も、何かを恐れるかのように息を潜める。  遠く、闇の中から妖怪の悲鳴が響いたが、それが二人の耳に届くことはなかった。 「……」  慧音は霖之助の横顔をちらりと盗み見る。  霊夢の言葉に喚起されてか、彼女の脳裏では、霖之助に関する記憶が駆け巡っていた。  第一印象は愛想の悪い店員だったこと。  生い立ちを知ってからは、心象ががらりと変わったこと。  そして霖之助が里を離れた時に感じた、言い知れぬ寂しさ。  果たして慧音は、自身にも捉えきれなかった感情、その正体を理解した。  自分は霖之助のことを好いていたのだな――と。  だが、それでもまだ分からないことはある。  この感情の出所が純粋な好意からなのか、それとも長命であることからなのか。  それも分からないまま想いを口にするのは礼を失する行為だと、慧音には思えた。  ……彼女自身、本当は分かっていたのだ。  それが結論を先延ばしにするための口実であることに。  自分の中で、霖之助がかけがえのない存在となっていることに。  しかし、気付くのがあまりに遅すぎた。  出会うのが、あまりに遅すぎた。  故に彼は里に無く、彼女は里を離れられずにいた。  積み重ねた歴史は強固なしがらみとなり、自由を奪う。  彼女を縛り付ける鎖。  それは里を守護するという、自らに課した使命だった。 「……」  霖之助は湯呑みを見つめ続けていた。  彼もまた記憶を回顧していたのだが、それは慧音のことだけに留まらない。  魔理沙や霊夢から始まり、昔知り合った人々、最近知り合った妖怪にもその範囲は及ぶ。  もっともそれは異性限定のことであり、『結婚するなら誰?』という他愛のない内容でもある。  そしてその結論は、ある時から不動のものとなっていた。  人は、霖之助よりも遥かに早く死ぬ。  生きる時間が余りにも違いすぎるのだ。  では寿命の長い妖怪ならばどうか?  その場合、平穏とは程遠い、波乱万丈な生涯を送る羽目になるかもしれない。  霖之助とて、斯様な結婚生活は願い下げである。  であれば、連れ添う相手として最適なのは慧音ではないだろうか?  里を離れて十数年。  人間以外の知り合いが増えた今でも、それ以外の答えは見つけられずにいた。  ――だが、それはできない。  彼の思考は、その結論を否とする。  ――住まいを里へ移すようなことをすれば、間違いなく盗みに入られる……!    それが詭弁に過ぎないことは霖之助も理解していた。  防犯という理由から諦めるというのなら店を移築すれば済む話であったし、  人里に店を構えたところで、客層にはなんら影響は出ないであろうことも承知していた。  彼が真に恐れたのは慧音に拒絶されることであり、親交が途絶えてしまうことだった。 「……すっかり暗くなってしまったね」 「え……ああ、そうだな。今日はまだ月明かりがあるから良いが」  故に二人は、普段と変わらぬかのように振舞う。 「それじゃあ、私も引き上げるとするか。あまり遅くなると要らぬ心配をかけてしまう」 「……近くまで、送ろうか?」 「へっ!?」 「ああいや、ほら! 丁度ここに明かりもあるわけだしね!?」  普段通りにいかないものもある。 「あー、う、うむ。それじゃあ、頼むとするか」 「合点承知の助だ」  らしくない返答に慧音が笑い、つられて霖之助も笑みを零す。  緊張は解け、穏やかな空気が二人を包んだ。  夜空に昇った月が、歩き出す二人を静かに見守っていた。 「進展は……あったかな? 随分ゆっくりしてたけど」 「うあーん、折角の見所がー」 「あんたも観察日記なんて作るんなら、遠くから眺めるだけになさいよ」  だが、月以外にも光を宿すものがあった。  草むらに潜んだ巫女と妖怪の眼である。  少女たちは連れ立って歩く二人に見つからぬよう、姿勢を低くして見つめていた。  正確には、伏臥させられた妖怪の上に巫女が馬乗りになっている状態である。 「恋路の邪魔ばっかりして……ハクタクに蹴られて死んでも知らないわよ?」 「えー? ハクタクって牛でしょ? 蹴るのって馬なんじゃ」 「私に蹴り殺される方が良いのかしら?」 「ぴぃ!」 「あ、こら。黙れ」  暴れる妖怪の口をおさえ、さらに顎を掴み胸元へ引き寄せる。  篭もった悲鳴が漏れるが意に介さず、巫女は道を行く二人の様子を伺う。  夜道を照らすランプの明かりがゆらゆらと揺れながら遠ざかっていく。  安堵のため息をつき、巫女は妖怪を解放した。 「ぷはぁっ、殺されるかと思った!」 「安心なさいな。殺す時は一息でやるから」 「なにそれこわい」  妖怪はぷるぷると震えてみるが、巫女は微笑むだけである。  それが偽りのない本音であることを悟り、早々に話題を移すべきだと妖怪は判断した。 「ところでさあ」 「ん?」 「なんであんたは、そんなに肩入れしてんの?」 「あら、そう見えた?」  にんまりと巫女は笑う。  先ほどまでとは趣の異なる気味の悪さがあった。 「困ったときはお互い様って言うじゃない? それだけよぉ」  妖怪には、それ以上を尋ねる勇気がなかった。 「毎年思うんだが」 「んむ?」  蕎麦を丼から摘まみ上げ、霖之助は首を傾げる。 「どうして年越し『蕎麦』なのだろうね?」 「ふむ」  箸で摘まんだそれに口をつけ、一気に啜る。  霖之助は、なにも蕎麦が嫌いだからそんなことを言ったのではない。  むしろ麺類全般は好物である。  ただ単純に、蕎麦でなくとも饂飩や素麺があるではないかと思っていたのだ。 「風習の発祥までは、流石にわからないな」 「ふむ」  蕎麦を飲み下した慧音が、箸を置いて語りだそうとする。 「だが、縁起物になったとされる由来は幾つかあるな」 「ひょっとして長くなる?」 「少し」 「蕎麦、伸びるよ」 「む」  丼に視線を落とし、慧音は逡巡する。 「……素麺で済ませるのはただの不精だぞ」  悔しかったのか、口を尖らせて言う。  その言葉を最後に、室内には蕎麦を啜る音だけが響くようになった。  十二月三十一日。  神社の忘年会を辞退した霖之助は、慧音の家に上がりこんでいた。  蕎麦のかわりに残り物の素麺でもいいかと考えていたのだが、 『それならうちに来い。一人分も二人分も、大差ないからな』  という有り難い提案を受け、ご相伴に預かることにしたのだ。  素麺が黴の温床となっていたから、というのもある。 「細く長く、ねえ」  結局、食後にはなったが、霖之助は講義を聴く羽目となった。  話したくて仕方ない、というよりも、途中で遮られたのが気に食わなかっただけらしい。 「それなら太く長い饂飩の方がいいような気もするんだが」 「案外、蕎麦屋が始めただけかも知れない」 「土用丑のうなぎのようにかい?」 「うむ。……まあ年越し素麺は聞いたこともないがな」  それでやり返したつもりなのか、慧音は丼をまとめ、片付けを始めた。  残された霖之助にしてみれば、可愛らしい報復だと苦笑するほかなかった。 『蕎麦を食べる』という年末行事を終えると、後は年が明けるのを待つばかりとなった。  少し風が出てきたのだろう。  換気のために薄く開けた障子からは冷えた夜気が流れ込んできていた。  だが、寒さは感じない。  それが炬燵によるものなのか、それともこの空間によるものか。  まどろみにも似た暖かさの中、霖之助は視線を巡らせる。 「あれ? あの玩具、こっちに置いてるんだ」  ふと目に留まったもの。  それはいつぞやに渡した、木片の詰まった箱だった。 「ん……まあな」 「……何かあったのかい?」 「説明書を見てもらえば分かる。先に謝っておく、済まない」 「先出しされても困るんだけどなあ」  もぞもぞと這い出し、ジェンガの箱を手に取る。  そこでふと、店で慧音が取った行動を思い出した霖之助は、 「そおれ」  ちょっとした悪戯心から、中身を卓袱台にぶちまけた。 「頼むよ。僕が悪かった、許してくれ」  結果、卓に伏せっていた慧音にお叱りを受けることとなった。  もっとも、驚きこそすれ、その程度で腹を立てるほど狭量な慧音ではない。 「……これで、ジェンガのことはおあいこだぞ」 「ああ、おあいこだ。恨みっこなしだ」  条件が飲まれた途端に相好を崩したのも、それを証明している。  霖之助もこうなることを最初から予想していたらしいく、  先ほどまでの申し訳なさそうな表情は何処かへ消え失せ、その顔には笑みすら浮かんでいた。  長い付き合いだからこその遣り取りである。 「しかしまあ、これじゃ用を成さないのも納得だ」  霖之助は説明書をランプに透かして見るが、墨で潰れた文字は読み取れなかった。  これには一体どんな文章が書かれていたのだろうか?  そんな思いから、目を通さずにいたことを悔いる。 「ルールなら覚えているが」 「いや……」  読んだところで琴線に触れるものがあったとも考えにくいのだが。 「今度、これで遊ぶ時にでも聞くとするよ」 「そうか」  恐らくその時は来ないのだろうな。  確信とも言える思いを感じながら、ジェンガを元の場所へ戻す。  箱に描かれた人物のように振舞う自分たちの姿を、霖之助は想像できずにいた。 「さて、と。そろそろお暇しようかな」 「む、そうか」  霖之助は立ち上がり、障子を開けて外の様子を伺う。  長々と居座っていたこともあり、新年はあと半刻ほどまでに迫っていた。  炬燵の心地よさは抗い難かったが、年を跨いで居座ることへの抵抗が勝ったのだ。 「風は出てるけど……まあ大丈夫か」 「……私は別に、気にしないんだがな」  お客用の布団もあるし、と慧音は呟く。 「気にしなよ。変に噂されて、一番迷惑するのは君なんだから」 「人の噂も七十五日。あっという間だ」 「それだけあれば野菜が出来るよ」  靴を履き、自前のランプに火を入れ、霖之助は立ち上がる。  風は弱まっていた。  出るなら今のうちと判断し、引き戸に手をかける。 「それじゃ邪魔したね。良いお年を」 「ん。良いお年を」  ガラリ、と戸を開き、一歩を踏み出す。  やはりこの辺りでも夜は暗いな――  そんな当然のことに思いを馳せながら、白く煙る吐息から視線を上げると、 「あ」 「あ」  年明けを待ち、里に張り込んでいた天狗と目が合った。  一年の終わりが目と鼻の先まで迫った頃。  霖之助は、未だ慧音宅から発つことが出来ずにいた。 「……とまあ、そんなところか」  不幸にも偶然天狗を見つけてしまった霖之助は再び慧音宅へと引き込まれ、  慧音と二人して説明と口封じ、そして取材までをも受ける羽目になったのだ。  天狗とは他でもない、射命丸文である。 「そうだな。済まないな、さして面白くもなかっただろう」 「いえいえ、大変興味深いお話でしたよ」  実際、話を聞いている間、文は手帳に幾度と無くペンを走らせていた。  覗き込んだ所で軽くかわされるのが関の山なので、そこに何が書かれたのかは不明である。  嫌な予感は膨らむ一方だったが、相手は天狗である。  誰にも話さないという口約束を信じるよりほかになかった。 「……ところで、そろそろ帰っていいかな」 「えぇ構いませんよ。ただし、秘密にして下さるならですが」  そう言って文は八手の葉をちらつかせる。 「分かってるよ。この件はお互い他言無用。だろう?」 「いやあ、話が早くて助かります」  にこにこと笑いながら頭を掻いて惚ける姿に、霖之助はため息を吐いた。 「何故こんなところに?」  始まりは慧音が発した、当然の疑問からだった。  こんな時間に、こんな場所で何をしているのかと。  その問いに対し、文は事の経緯を説明し始めた。  幻想郷最速の新年号を配布するため張り込んでいたこと。  しかし張り込もうとしたら先客がいたので、実力行使で追い払ったこと。  上空は風を遮るものがなく、とても寒かったこと――  聞いてもいないことを次々喋る文。  二人が唖然としている間も、彼女は勝手に話を広げていった。 「とまあ、私の方はそんなワケでして」 「道理で風が吹き荒れてたわけだ」 「天狗というのも難儀なものだな」 「あはは、お恥ずかしい話です。こんなの、他の人には秘密ですよ?」  どこまでも続くかと思われた文のトークショー。  しかしそれは、終わってみればたかだか数分の出来事だった。  一段落ついたところで霖之助は「さて」と腰を上げ、 「話は済んだかい? 済んだね? それじゃ、僕はそろそろ帰らないといけないから」  と、その場から退散しようとした。 「つれないですねえ。もうちょっとくらいいいじゃないですか」 「いやあ、店を空けとくのが怖くて」 「巫女も魔法使いも、神社でどんちゃん騒ぎやってますから大丈夫ですって」  だが、清く正しい射命丸が、そう易々と逃がしてくれるはずもなく。 「という訳で、次はお二人が話す番ですね!」 「へ?」 「ああ、やっぱり……」 「こんな夜中に男女が一つ屋根の下で一体何をしていたのか、詳しく聞かせてもらいましょう!」  斯くして二人は、大晦日の夜に起きたことを根掘り葉掘り聞き出されることになったのだ。 「それじゃ慧音」 「うむ。改めて、良いお年を」 「良いお年を」  聞き込みも終わり、ようやく天狗から解放された霖之助は、急ぎ家路についた。  遠くなる背中を戸口で見送る慧音に、文はぽつりと呟く。 「本当に巫女の言う通りだったなぁ」 「ん? 何か言ったか?」 「いいえ、何も」  見送りを終え、戻ってきた慧音と入れ替わりに文は炬燵から抜け出す。 「さてと。それでは、私も仕事がありますので」 「ああ、配達か。一番乗りだといいな」  もちろん私が一番ですよ、と言って文は駆け出していった。  卓の上には、新年号がぽつんと置かれていた。  まだ年は明けてないのに、性急なことだ。  微笑みを浮かべながら手に取ろうと手を伸ばす。 「……寒」  不意に、体が震えた。  二人が居なくなった分、冷たい空気が部屋に入ってきたか。  そう解釈し、慧音は新聞を諦め、肩まで炬燵に潜り込んだ。  狭い空間にだけ残された暖かさが、今は何よりも愛おしい。 「布団出すの、面倒だな……」  いけないとは思いつつも、ついに炬燵の誘惑を振り切ることは叶わず、 「……」  眠りに落ちてしまったのだった。 「ふむ、熱があるな。咳は……」 「いや、それほ、ど……えほっ、けほけほ」 「咳もあり、と。鼻詰まりは無さそうだが……まあ、こんなところか。それじゃ、妹紅君」 「あいよ。薬だけでいいのか? 何なら医者ごと連れてくるけど」 「そうだな……暇そうなら大事をとって呼んできてくれ」 「りょーかい。それじゃ慧音、ちゃんと休んでろよな」 「うぅ……申し訳ない」  年は明けて一月。  炬燵で寝たのが仇となったか、慧音は風邪を引き、寝正月を余儀なくされていた。 「迂闊というか何と言うか。君らしくない失敗だ」  部屋の隅に寄せられた机を見遣り、霖之助は漏らす。 「少し気が緩んでいた……面目次第もない」 「謝るようなことでもないけどね」  素っ気無い言葉とは裏腹な世話焼きっぷりが微笑ましく、慧音は思わず微笑んでいた。 「……ほんと、私らしくない失敗だ」  総身から力を抜き、瞼を閉じる。  寝正月では初詣など望むべくも無いが、初夢くらいは見られるだろう。  今ならきっといい夢が見られる――  根拠の無い確信と共に、慧音は眠りに落ちていった。  次に慧音が目覚めた時、部屋は朱色に染まっていた。  遠く、山から響くカラスの鳴き声が、それが夕日であることを教えている。 「……?」  辺りを見回す。  水を張ったタライ、薬缶に湯呑み、そして薬の包み。  人が居た形跡はそこかしこに見られたが、傍には誰も居なかった。  額のタオルをタライに掛け、身を起こす。 「う、いたた……」  あちこちの関節が軋んだが、動けないほどではない。  兎にも角にも水分を……!  その一心で、慧音は薬缶へ詰め寄った。 「あ、起きたか」  二杯目の半ばまで飲んだところで、よく知った顔が御厨から出てきた。  思わず、その名を呼ぶ。 「妹紅」 「うん」  妹紅は頷き、次の言葉を待つ。  しばしの空白。 「……あ、いや、別に用があったわけじゃ」 「そう? なんか要るのがあるなら取ってくるけど」 「え、っと」  何かあったかなと、視線を巡らせてみる。  が、飲み物は手の内にあるし、その横には薬も置かれている。 「いや、やはり特にこれといって」  ない、と言おうとした時、腹が鳴った。  遅れて訪れる空腹感。 「はは、了解。お粥でいいかな?」 「……うん、頼む」 「温めてくるから、ちょっと待っててくれ」  妹紅が御厨へ姿を消したのを見てから、慧音は自分の腹を軽く叩いた。 「恥ずかしいじゃないか、ばか」  腹がもう一度、きゅう、と鳴った。 「ごちそうさまでした」 「はいよ」  慧音が食べ終えたのを見計らい、妹紅は器を下げ、薬と湯呑みを差し出す。 「じゃ、それ飲んで横になっててくれ。片付け済ませとくからさ」 「悪いな、ありがとう」 「いいって。困った時はお互い様だ」  照れくさそうに笑いながら、妹紅は洗い物に向かった。  それを見送ったところで、慧音は薬を飲み、体を横たえた。  当然のごとく眠気は無い。  体調自体は朝に比べれば随分良くなっているのだが、所詮は病み上がり。  無茶をしてこじらせては元も子もないので大人しくしている他ない。 「ところで妹紅、少し気になることがあるんだが」 「なんだ?」  慧音に出来る唯一の暇潰しは、帰ってきた妹紅とのお喋りくらいしかないのだった。 「今朝、霖之助が来ていただろう?」 「霖之助……あぁ、眼鏡のアイツか。変な方の道具屋の」 「変な……まあ、違いないが」  本人が聞いたらなんと言われるか分かったものではないが、幸いにして不在である。 「その霖之助が、何故あんな時間からいたのかと思ってな。妹紅は知らないか?」 「んー、難しいな」  妹紅は髪を弄びながら少し考えたが、結局首を振った。 「新年の挨拶じゃないのか? 私みたいに」 「それはない、と、思う」 「じゃあ誰かから聞いたとか」 「なのかなぁ」  二人して首をかしげる。 「ま、本人に聞くしかないな」 「そうなんだけど……そういえば霖之助は帰ったのか?」 「ん? ああ、私と入れ替わりでな。診察のこともあったし」 「それもそうか」  ほっとしたような、がっかりしたような、曖昧な気分になる慧音。  そんな心の内を察したか、妹紅が慌てて付け足す。 「でもあれ、また来るって言ってたし、そのうち来るよ」 「そうか」  妹紅の手前、微笑みを返しはしたが、寂しさは拭い切れなかった。  せめて挨拶の一つでも残していってくれればいいのに――  我儘染みた思いだとは知りつつも、布団を口元まで引き寄せ、いじける慧音。  妹紅はと言うと、機嫌を直す手掛かりがないものかと視線をさまよわせていた。  と、その時。  ガラガラと戸を開け、ランプを持った大きな影が土間に踏み込んできた。 「やあ、済まない。思ったより準備に手間取ってしまった」  風呂敷を背負った変な道具屋、その人である。 「霖之助……お前、その荷物は」 「ああ、気にしないでくれ。ただの着替えと寝袋だから」 「着替え?」 「……妹紅君?」 「あ、言ってなかったかも」  へへへ、とバツが悪そうに妹紅は頭を掻く。  やれやれ、とため息をつき、霖之助は荷を降ろしながら慧音に告げた。 「泊りがけで看病するには必要だろう? 薬が出てるようなら、すぐ治るとは思うがね」 「ほら、また来るってのはそういうことでさ、慧音。……慧音?」 「いや……ちょっと頭痛が」  手のひらで顔を覆い、俯く慧音。 「それはいけない。ちゃんと寝てないと」 「大丈夫、大丈夫だ。うん、大丈夫」 「えっと、どうしたら」 「薬はもう飲ませたか?」 「お粥の後に」 「大丈夫、大丈夫……」  何度もそう呟きながらも仰臥し、深く布団へと潜り込む。  不覚、人に心配させておきながら心配されて嬉しいなどと――  喜色を浮かべそうになるのを自制しようと努める慧音だったが、表情の緩みは如何ともしがたく。  顔を隠したのは、それを悟られないための苦肉の策だった。  夜半になっても、里は寝静まってはいなかった。  外を出歩く者こそ居ないが、そこかしこの家から宴に興じる声が漏れ出しているのだ。  そんな音を遠くに聞きながら、霖之助たちはゆったりとした時間を過ごしていた。 「なあ、霖之助。少し気になってたんだが」 「うん?」 「私が風邪を引いたこと、誰かから聞いたのか?」 「ああ、そのことか」  もじもじしている間に妹紅が帰ってしまい、なかなか聞けずにいたことを繰り出す慧音。  いっそこのまま寝てしまった方が、と思いもしたが、気になって仕方がなかったのだ。 「そうだな。端的に答えれば霊夢のところの小鬼なんだけれど」  順序良く話そうか?  問い掛けに慧音が頷き返すと、霖之助は語り始めた。 「そもそも小鬼、と言っても分身なんだけど……それを走らせたのは霊夢なんだ」 「巫女が? 何か異変でもあったのか?」  霊夢の話を思い出し、要点を抜き出して話す。 「いやさ、以前君が霊夢に言ってただろう? 鬼に乗っ取られた神社の噂」 「ああ」 「あの噂を払拭するために里まで来たんだよ。小鬼を連れて」 「……それはどうなんだ?」 「自分が鬼より上だって宣伝する為だそうだ。賽銭箱、担がせてたし」 「ついでに初詣分の賽銭狙いというわけか」 「効果はあまりなかったようだけどね」  その情景を見そびれたことを残念に思う慧音。  それと同時に、再び疑問が沸きあがる。 「でも、巫女も小鬼も、ここには来なかったぞ?」 「ご近所さんから聞いたんだとさ。明け方に、何人か挨拶に来ただろう?」 「ああ。風邪と分かってからは妹紅が来るまで看てもらっていた」 「で、妹紅君が引き継いだ後に僕が来た、ってところかな」  二人は慧音の隣、布団を跳ね除けて眠る妹紅を見て、微笑ましさを覚える。 「ともあれ、霊夢は彼らから医者か妹紅君を呼んで来てくれと頼まれて」 「どういったわけか、お前まで呼び出した、と。そういうわけだな」 「気を回してくれたんだろうさ。知らせがなかったら、明日になっても気付かなかったろうさ」 「薄情者め」 「おや、酷い言われようだ。折角看病をしに来たというのにね?」  顔を見合わせると、二人は短い笑いを漏らした。  明けて翌朝。  ごそごそという物音で慧音が目を覚ますと、帰り支度をする霖之助の姿があった。 「ん……もう帰るのか?」  寝ぼけ眼を擦りながら尋ねる。 「ああ、起こしてしまったか。体調はどうだい?」 「んー」  頭を揺らし、体を捻り、手足を屈伸させてみるが、どこにも重さや痛みは感じられない。 「スッキリしてる、と思う」 「それはそれは。流石は八意印の飲み薬、といったところか」  会話をしながらも荷を纏め続ける手は止まらない。  ふと慧音が隣の布団に目をやると、そこに妹紅の姿は無く、御厨からは料理の音が響いていた。  その視線を追い、霖之助は言う。 「経過観察は彼女に任せることにするよ」 「ん、うむ……」  復調した身では看病を強要することも出来ず、ぎこちなく頷き返す。  だが、何かを思いついたのかハッと顔を上げ、慧音は言った。 「そうだ、朝餉はまだだろう? どうせならここで食べていかないか」 「いや、食事は別に」 「世話になりっぱなしというわけにはいかないだろう? おーい、妹紅ー」 「おっ、お目覚めかい? 調子は?」 「すっかり良くなった。ところで朝餉を霖之助の分もだな……」 「ちゃんと用意してあるよ。アンタもさ、もうちょっとで出来るから待っててくれよな」 「……別にいいのになあ」  こうなっては断るわけにもいかない。  仕方ない、馳走になっていくか――  霖之助は里の面々、特にお喋り好きに遭遇しないことを祈りつつ、朝餉を待つことにした。 「それじゃ、長々とお邪魔したね」 「いや、邪魔なんてとんでもない。ありがたかったよ、霖之助」  来た時同様大きな風呂敷を背負い、霖之助は立ち上がる。 「どうせならもっとゆっくりしていきゃいいのに」  居間でごろごろとしながら妹紅が声をかける。 「着替え、三日分持ってきてんだろ?」 「転ばぬ先の杖だよ。それに、病み上がりのところに客が居たんじゃ気も休まらないだろう」  なあ、慧音? と霖之助は尋ねる。 「え? あ、ああ、まあそうかもしれんが」 「バカだな慧音、そこは嘘でも大丈夫って言うとこだろー」 「え、ええ?」 「……とまあ、そういうわけだ。よろしく頼んだよ、妹紅君」 「へいへーい」  肩を竦める霖之助に、妹紅はおざなりな返事で応じる。 「じゃ、慧音。息災で」 「あ、うん。霖之助も」  別れの挨拶を済ませた霖之助は引き戸に手をかけ、ガラガラと開く。  その瞬間、強い光が網膜を焼いた。 「徹夜明けは流石に眩しい、な……?」  言ってから霖之助は気付いた。  明滅する視界の中、飛び去っていく鴉天狗の後姿があることに。  それから五日後。 『号外・寺子屋教師と香霖堂店主の逢瀬!?』などと題された新聞が、幻想郷の空を舞っていた。 「やられたね」 「射命丸を甘く見てたな」  日中でも薄暗い店の中、問題の新聞を前に霖之助と慧音は唸っていた。 「いいじゃない別に。里の人たちは知ってるんでしょう?」  二人とは対照的に落ち着き払い、あまつさえ茶などを啜るのは霊夢である。  彼女もまた、号外を拾って香霖堂に訪れた口である。 「そりゃ、まあ、そうだが……」 「厄介な連中がそれを知らないことが問題なんだよ、霊夢」  霖之助がため息を零しながら頭を振る。 「例えばどんな人?」 「そりゃあ君、魔理沙とか吸血鬼とか……」  指を折って数え始めた途端、扉がけたたましい音を立てて開かれる。 「おい霖之助! この記事本当か!? 随分早い春だな! いや、遅かったのか?」  飛び込んできたのは黒白の魔理沙だった。 「噂なんてするから」 「僕のせいじゃないだろう、これは」 「まあいいや。ともかくめでたいから宴会やろうぜ、宴会!」 「年明け早々忙しないことになりそうだな」 「全くだ」  厄介なことになったぞ、とは思いつつも、二人とも、不思議と悪い気はしなかった。  正月明けで飽いていたのか、それとも色恋沙汰に興味津々だったのか。  そういった理由はともかくとして、香霖堂はかつてないほどの来客に見舞われていた。 「実りの秋に結ばれれば子宝に恵まれる、半年後がお勧め、とパチュリー様が」 「いやいや咲夜。こいつらはいつくっついても同じさ。だったら早い方が長く楽しめる」 「子供用の可愛らしい服が欲しくなったら作ってあげるわよ。お金は取るけど」 「結婚式はやっぱり六月です! ジューンブライド、乙女の憧れ……!」 「引越しとかはしないのか? 空き家にするなら私が貰ってやるぜ。何なら商品ごとな」 「魔理沙……君には説明したはずだが」  代わる代わる訪れる客人たち。  その対処に追われていては心が休まる暇もない。  まるで日替わり定食のようにやってくる面々。  終わりの見えない循環に身も心も疲れ果てた頃、霊夢が言った。 「ねえ霖之助さん」 「……なんだい霊夢。僕は忙しいんだが」 「縁結びのご利益も追加しちゃったから、早めにくっついてね」  この時、霖之助は確信した。  裏で糸を引いているのはこの巫女に違いない、と。  慧音との関係を明確にしない以上、飽きるまで続けられるであろう、と。 「やあ。今日も邪魔してるよ」 「霖之助か。最近よく来てるが、店の方はいいのか?」 「いいもなにも、商売なんてできたもんじゃないよ」 「ということは相変わらずの状況なのか」 「相変わらずさ。っと、そうそう。邪魔してるお詫びに、今日は土産を持ってきたんだ」 「ほう? どれどれ……」  一月が下旬を迎えてもまだ、暇を持て余した面々は香霖堂へ押しかけていた。  霊夢などは毎日のように入り浸り、当たり前のように茶を啜っている。  神社を放っておいて良いのかと尋ねると、 「萃香を置いてきてるから大丈夫」  正月の一件で問題は解決したと見たか、平然とそんなことを言い放つのだった。 「しかしまあ、お前も大変だな」 「ん? 店のことかい?」  土産として差し出された酒をちびちびとやりながら、二人は駄弁る。 「毎日逃げてきてるってことは、毎日押しかけられてるんだろ?」 「ああ……まあね」  俯き、杯を見つめたまま霖之助は頷く。  事情を知っている霊夢や魔理沙でさえ敵である以上、逃げ場はここにしかなかった。 「今じゃ僕が追い立てられる側だよ。ところで慧音も、何か言われたりしてないかい?」 「何かとは?」 「ここいらで噂が流れてたり、さ」 「ああ、まあなぁ」  苦笑しながら杯を傾け、慧音は苦笑する。  看病のために訪れていただけならば、ちょっとした話のタネ程度にしかならない。  が、その後も継続して足を運んでいるとなれば話は別である。  実際、事情を知らない近隣住民は、霖之助を何度も目撃するうちに、 「よう旦那。またコレのところに行くのかい?」  などと、小指を立てて尋ねてくるようになってしまった。 「付き合ってるのかー、とか、関係を持ったのかー、とか」 「どこも同じようなものか。まるで包囲網だ」  冗談めかして言う霖之助に、微笑を浮かべ慧音は応える。 「謀られたのかもな」 「黒幕は誰か、賭けてみるかい?」 「そりゃお前、巫女しかいないだろう」 「奇遇だね。僕も霊夢だと考えてる」 「それじゃ賭けが成り立たないじゃないか」  互いに顔を見合わせ、二人は笑った。 「でもまあ、そろそろどうにかしないとな、あれは」  杯を置き、霖之助が呟くと、慧音は一瞬身を強張らせる。 「……なんて言って追い払うんだ? 言って聞くような連中でもない気もするが」 「うぅん、まあ、方法はないこともないんだが……」  少し言葉に詰まり、しかし意を決してその言葉を口にした。 「慧音。僕と君の関係に、決着をつけよう」 「決……着?」  それは、慧音が予想していたものにはなかった。 『好きだ、付き合おう』 『一度距離を置いて、ほとぼりが冷めるのを待とう』 『もうこんなことが起こらないように、関係を絶とう』  いつか言われるかもしれない言葉。  それを大別すればこの三種類だろうと彼女は考えていた。  しかし霖之助の発言からは肝心の部分、明確な方向性が見えない。 「決着って、何をどう、決着するっていうんだ」  関係に終止符を打つのか、それとも前へ進むのか。  どちらにせよ、霖之助の決断を受け入れるつもりでいた慧音は、 「君は、どうしたい? 慧音」  「わた、し? 私は……」  その問い掛けに戸惑いを隠せなかった。 「……いや、済まない。こんな言い方は卑怯だな」  オロオロする慧音の言葉を遮り、霖之助は言い直す。 「僕は、君のことを、異性として好ましく思っている。一緒に居たいとも思っている」 「……っ」  慧音は息を詰め、身を固くする。  予想こそしていたものの、実際に直面した瞬間、何も考えられなくなっていた。  今の彼女に出来ることは、続く言葉に耳を傾けることくらいだった。 「正直、こんなことを言う日が来るとは思ってなかったけど……」  一際大きく息を吸い込んだ霖之助は、慧音の瞳を見つめ、告白の言葉を紡いだ。 「共に歩もう、慧音。これからの歴史を、二人で作るために」 「全く、慧音ちゃんは変わったっていうのに、こっちの旦那ときたら、ねぇ」 「甲斐性ないんだもの、仕方ないわよ。恵比寿さんでもどうしようもないんじゃない?」 「……あまり居座らないで貰えると嬉しいんだが」  月日は流れ、四月。  香霖堂はその位置を田園の近くへと移していた。 「またそんなこと言って。ちゃんと地域に馴染まないと繁盛しないわよ?」 「そうそう、巫女さんの言うとおりさ。近所付き合いは大切だよ」 「はあ。そういうものかね」  場所を変えたところで売り上げに変化はなかったが、訪れる客の数は増えていた。  ほとんどは通りすがりの人々であり、以前の香霖堂とは無縁だった存在でもある。  それ故、どのように応対すべきかを霖之助は決めかねているのだった。 「あ、そうそう。うちの娘がさぁ、もうそろそろいい年頃なんだけどね」 「ひょっとして縁結びの相談?」 「そうなんだよ。やっぱりいい男とくっついてもらいたいじゃないか」 「裏手に分社があるから、お参りはそこでも出来るわよ」 「じゃ、ちょいとお賽銭入れてこようかね。よろしく頼むよ、うふふふふ」  含み笑いを残し、女性は店を出て行った。  博麗神社の分社であり、里の寄合所でもある。  それが今の香霖堂に対する人々の認識だった。 「はぁ……信仰、随分増えたようだね」 「そりゃもう。霖之助さんたちのお陰よ」 「それはそれは。お役に立てて光栄だよ、全く」  店が恙無く移築出来たのは、霊夢と小鬼の力によるところが大きかった。 「お代は取らないから安心してもらっていいわよ」  いつになく熱心な様子に不安すら覚えていたのだが、理由が判明したのは事が済んでからだった。 「あ、そうそう。お台所、うちの分社にしちゃったけど別に構わないわよね?」 「どうやって炊事をしろと」 「近いんだし、食べさせてもらえばいいじゃない」  後の祭りと言うほかない。 「場所変えたんなら、店ごと改名したらどうだ? 畠之助とか」  旧店舗を乗っ取った魔理沙に、更なる追い討ちをかけられたりもした。 「なあ霊夢。君はひょっとして、最初からこれが狙いだったんじゃないだろうね?」 「あら。霖之助さんはそれで何か損した?」 「……いや、そういうわけじゃないが」  香霖堂の売り上げは、良くも悪くも相変わらずの低空飛行。  一人の時間はめっきり減ったが、日当たりは良くなったし、慧音と過ごす時間も増えた。  霖之助の感性でも、総合的に見れば以前よりも良くなったのは事実だった。 「じゃあ問題ないわね」 「むむむ」  利用された感は否めないが、前進できたのはその企みのお陰でもある。  むしろ代償が分社化程度で済んだと思えば、安いものだった。 「……これからもよろしく」 「ええ。末永く、ね」  この盟約により様々な面倒が降りかかることになるのだが、それはまだ先の話である。 「おかえり、霖之助。今日もお疲れのようだな」 「ああ、ただいま。やっぱりお喋りには慣れないね、どうも」 「ははは。大丈夫、そのうち慣れるさ」  店を閉めた後は慧音の家で世話になる。  それが霖之助の今の生活サイクルである。  旧宅と同じ作りのくせに御厨が存在しないのは、この口実を作るためなのだろう。  霊夢にしては気の利きすぎる、或いは狡猾すぎる計算に、霖之助は黒幕の存在を感じていた。  が、触らぬ神に祟りなし。  もし黒幕らしき人物が顔を見せたとしても、話は振らないようにしようと心に誓うのだった。 「さて、と。それじゃあ食事にしようか。風呂もすぐに準備できるが」 「おや。それだともう一つ、定番の選択肢があると思うんだが」 「……阿呆が。寝言は寝てから言え」 「ふむ、残念。それではまた後ほど、ということにしよう」 「う、うむ」  照れながらも否定しない慧音に頬を緩ませながら、霖之助は思うのだ。  今は些事に煩わされるよりも、ずっと大切なことがある。  いや、今だけではない。  延々と遠回りを続けてきた自分たちが手にした、ささやかな幸福。  叶うなら、この身命が尽き果てる時まで大切にしていこう――と。