(早苗……、早苗…………)
ざあ、という風鳴りの中に、誰かの呼び声が聞こえた。
それはとても懐かしくて、だからこそ悲しい声。
体の内へと染み込んで、胸を締め付ける穏やかな声。
その声が優しくあるからこそ、私の心は苛まれる。
(……ごめんなさい)
だから私は、赦しを請う。
自分勝手で、ごめんなさい。
素直になれなくて、ごめんなさい。
ひどいことを言って、ごめんなさい。
謝りたいことは、いくつもあった。
話したいことも、たくさんあった。
だけど、もう。
この罪が、贖われることは――
「早苗、どうしたの? どこか痛いの?」
「あ……」
頬に触れた温かさに、先ほどまで見ていたものが夢であることを知った。
瞼を開けば、そこには覗き込むふたつの顔と、青い空。
(そっか……)
頬に触れていたのは諏訪子様の手だった。
我知らず流していた涙を、その指で拭ってくださっていたらしい。
(夢、だったんだ)
お二人が消えて、私だけが残されて。
残された私には何もなくて、結局ひとりじゃ生きられなくて。
何も無い部屋で、ただ、生かされるだけの――そんな夢。
でもそれは、ただの夢に過ぎなかった。
「もー! 神奈子が無茶するからだよ!?」
「悪かったってば、許してくれよ……。ほら、早苗だってちゃんと無事だったんだしさ?」
「あーうー! 無事じゃなかったら、ぎったんぎったんにしてるとこだよ!」
「ギッタンギッタンのケロンケロン……なんちって」
「か〜な〜こ〜!」
現世とは比べ物にならないほどに、お二人は生き生きとしていらした。
だというのに、どうして私は、あんな夢を。
「諏訪子様……」
「? どうかした? 早苗」
温かな手を取り、その名を呼ぶ。
ぬくもりが本物であることを確かめるように。
「諏訪子様。私は大丈夫ですから、その」
「……そっか。うん、良かった」
もみじのような手は、やはり温かく。
冷えてしまうことも、消えてしまうこともなく、そこにあった。
……あの夢は、きっと、私が私に下した罰なんだろう。
ひとつ間違えればあんな未来が待っていたのだと、強く戒めるために。
「だからケンカは、めっ、ですよ」
「あう……」
「あははははは! 怒られてやんのー!」
「神奈子様も! 反省してくださいよ?」
「うっ……」
だからこそ、こんなやり取りでさえ嬉しくて。
何度取り繕ってみても顔が緩んでしまうのを、私は抑えられなかった。
「……諏訪子、あんた早苗になんかした?」
「いやいや。神奈子のせいで、頭打ったとかじゃ……」
「聞こえてますよ? お二人とも」
「ひいいっ」
するとどうしたことか、お二人は目の前でゴニョゴニョと話し始める。
頬を膨らませ割り込む私、慌てて飛び退く御両名。
当然、膨れっ面が長く持つはずもなく、私は吹き出してしまう。
神奈子様も諏訪子様も、つられて一緒に笑い出す。
いつからだろう、こんな風に笑わなくなったのは。
それは長かったようでもあったし、短かったようにも思えた。
ただひとつ確かなことは、その原因を作ったのが私だということだけ。
だから、悪い子だった私が、こんなにも幸せでいられることが信じられなくて。
本当は、今この時こそが夢なんじゃないか――
ずしりと、胃の腑が重たくなる。
見知らぬ白い部屋が、不安と共に脳裏をよぎった。
「うん。本当に大丈夫そうだね」
「これだけ笑えりゃ、何も心配は要らないさね」
「あんたが言うなー!」
忘れろ。
あれはただの夢なんだから。
ネガティブな思考を振り切りたくて、頭を振る。
「……? 早苗?」
「あ、いえ。何でも、ありません」
じっとしているから、こんなことを考えてしまうんだ。
きっとそうに違いない。
よし、とひとつ気合を入れて、私はお二人に向き直る。
「それじゃ、幻想郷に着いたことですし、何から始めましょうか」
「あーっと……、それがだね……」
勢いに任せようとした途端、歯切れの悪い言葉で出迎えられた。
神奈子様らしからぬ物言いに、少し戸惑う。
「早苗。うしろうしろ」
「へ?」
言われるまま振り返った私は、自然と首を曲げていた。
その角度、実に九十度。
「……えええええ!?」
「着地失敗〜……、みたいな?」
「だから私は普通にやろうって、言ったのに」
神社は見事な横倒しになっていた。
道理で、起き抜けに空が見えたわけだ。
「なによう! 諏訪子もノリノリだったくせに!」
「あっ、あれは、そのっ」
「くっ、くふっ」
「!?」「!?」
「あははははは、あはははははははは」
「早苗が、早苗がーっ」
「あわわわわ」
慌てふためく神様たち。
けれど、笑いはどうにも収まらなくて。
「あー、うん。笑った笑った!」
お腹が痛くなるほどいっぱい笑って、ようやく収まった。
「さ、早苗……?」
「なんかその、大丈夫? やっぱり頭を……」
「違いますよぅ、もう!」
神奈子様も諏訪子様も、心配そうな顔をして私を見つめ返してくる。
だけど私は、それすらも嬉しかった。
神様を祀るための建物。
その神社がこんなことになっているのに、私を看ていてくれた。
こんなに日が高くなるまで、ずっと見守ってくれていた。
そのことが、堪らず嬉しくて。
これからもずっと一緒にいられるんだ。
だから、何も心配することなんてないんだ。
心の底から、それを実感できた。
「それにしても、ふふっ、見事にコケちゃいましたね」
「……そんなに笑わなくてもいいじゃないか」
「そうだよねー。神奈子が大事なとこでヘマするのはいつものことだもんねー」
「くっ……。その神奈子サマにやっつけられたのはどこの土着神だろうねぇ」
「むぐぐ」
「ほらほら、ケンカはやめてください。これから忙しくなるんですから」
「ぬぅぅ」
「むぅぅ」
こうして仲裁することでさえ、なんだか懐かしい。
だけどきっと、これからはもっとたくさんの懐かしいことと再会することになるんだろう。
「他でもない、早苗の頼みだ。命拾いしたね、神奈子」
「はン、どっちが。首でも顔でも、何でも洗って待ってるんだな、諏訪子」
「それじゃあ、話がまとまったところで、神社を起こしましょうか」
「はーい」「あーい」
あまりにも当たり前にあった日常。
そのひとつひとつが、私にとってはかけがえの無いものだった。
だから私は、もう、見失わない。
泣いたって喚いたって、絶対に手放したりなんかしない。
「とことんまで付き合ってもらいますからね」
「もっちろん!」「任せときな!」
さよならなんて、言ってあげないんだから。