「はぁっ、はぁっ」
息が切れる。
足が重い。
「うあっ!」
ひび割れた石畳に足を取られ、手をつく。
総身から力が抜けてゆく。
同時に、私はこんなにも貧弱だったのかと、愕然とする。
「くっ……」
残された力を振り絞り、私は立ち上がる。
まだ、まだだ。
きっと間に合うはず。
だって、神奈子様が私に嘘をつくはずがないんだから。
あと少し。
あと少しで、お二人に手が届く。
「神奈子様、諏訪子様!」
本堂の中は真っ暗で、何も見えない。
「……神奈子様? 諏訪子様!?」
けれど音だけはよく響いた。
まるで遮るものが何も無いかのように。
そこには誰も、居ないかのように。
「出てきてくださいよ! 意地悪しないでくださいよ!」
認めたくない。
そこに誰も居ないなんて。
「いい子にしてますから、見捨てないでくださいよう……!」
ああ、でも。
きっと私は気付いていたんだ。
だって、
既にこの身には、
何の力も残されてないんだから。
「ひとりに、しないで……置いて、いかないで……」
「――」
もう、奇跡だって起こせない。
*
「光が落ちたのは……このあたりか?」
一人の男が無縁塚を行く。
私はその男を知っている。
森近霖之助――漂着物を拾い集めては店に並べる趣味人だ。
「む、あれか」
今日もまた、何か拾い物は無いものかとやってきたのだろう。
此処は色々なものが流れ着くし……
「鏡のようだが……おかしな形をしているな」
ああ、いけない。
そんなことを考えてる間に拾われてしまうところだった。
彼の背後から腕を伸ばし、肩を叩いて動きを制する。
「ん?」
誰も居ないと思っていたのだろう、彼は急いで振り返る。
まあ、振り返ったところで誰も居ないのだけれど。
「……なるほど、君の仕業か」
向き直り、鏡を持った私を見て、彼は溜息をついた。
「ごきげんよう。霖之助さん――で、よかったかしら?」
「ああ。ごきげんよう、八雲紫さん」
「あら他人行儀」
「仕方ないだろう。打ち解けた覚えもないのだし」
鏡を横取りされたのが悔しいのかもしれない。
「で、どうしてまた君はこんなところに?」
「それは霖之助さんもじゃない」
「僕は無縁塚から足を伸ばしただけだよ。何かが落ちてくるのが見えたからね」
「では私もそういうことで」
「……まあ、答えて貰えるとも思わなかったけどね」
再び溜息。
ただでさえ幸が薄そうなのに、幸せがどんどん逃げていることに彼は気付かない。
「ところで、その鏡は? 見たところ何の変哲もないようだが」
「何の変哲もない、ただの鏡ですわ」
「君が出てきたんだ、何かあるんだろう?」
「貴方の目なら分かるのではなくて?」
「む……」
鏡を差し出すと、訝しげにしながらも受け取った。
裏面をひっくり返したところで何もない。
ただ、周囲の装飾が普通ではないだけの、曇った鏡。
しかしその事が、彼の眉間に皺を刻ませているようだった。
「……真澄の鏡? にしては、曇っているが……あ」
「もうよろしいかしら?」
「……取り上げてから聞くことじゃないだろう」
「あら、それは失礼」
クスクスと笑いながら謝ると、彼の幸せが再び逃げていった。
「それで、この鏡は一体どういうものなんだい?」
「お分かりにならなかったの?」
「分かるも何も、鏡は鏡だろう。姿を映す以外に何の用途があるというんだい?」
「そう……なら、そういうことでいいのではないかしら」
「そうじゃないから君が出てきたんだろうに」
「いいえ。これは正真正銘、ただの鏡」
その表面を指先で撫でる。
曇りは晴れず、薄ぼんやりと私の姿を映していた。
「けれど……そうね。この鏡の持ち主は、少し変わっていたみたいね」
「昔々あるところに、二柱の神様がいました」
「?」
「神様たちは人間を見守り、時には力を貸し、長くその地を治めていました」
「しかし人間とは忘れる生き物。いつしか神を忘れ、妖を忘れ、その存在を否定するようにさえまりました」
「忘れられた者たちは現世に留まること叶わず、
幻想の集う場所を、人は幻想郷と呼ぶようになりました」
「それがこの鏡と、何の?」
「しかし、忘れられて尚、一人の娘の為に現世に留まった者がいた。愚かな、二柱の神が」
「……まさか、その鏡の持ち主は」
「ここに在るは、現世には留まれず、幻想にもなれなかった神の遺物。
私の目と彼女らの目。曇っていたのは、果たしてどちらなのでしょうね」
「新しい風が吹くと思ったのだけれど、残念だわ」
「話はこれで御仕舞いよ。この鏡は私が貰っていくわね」
「……ああ。曇った鏡を買うような客もいないだろう。好きにしてくれ」
手を振り、私はその場を去る。
風祝の少女、東風谷早苗。
彼女に向けられた愛こそが、私の唯一の誤算。
彼女の存在が無ければ、神々は既に現世を見限っていただろう。
彼女に支えられたからこそ、彼女を愛した神々はその選択を誤った。
「その少女も、一人では生きていけないでしょうに」
あちら側の世界を見遣る。
そこにあるのは、白い空間に繋ぎとめられた少女の姿。
東風谷早苗はもはや現人神などではなく、人の形をしただけの、ただの抜け殻に等しかった。
「恋しさに神の眼も曇りたり――ああ、残念だわ、本当に」
「……これは返しておくわよ。精々大切になさいな」
手を伸ばし、形見はあるべき場所へと返し、
「さよなら。神々が愛した人間」
叫びを背に聞き、隙間を閉じた。