日暮れ時。  闇に覆われ始めた縁側を兎たちが忙しなく行き交う。  竹林に囲まれた永遠亭の店仕舞いは、里のそれよりも幾分早い。  さして多くも無い診療録を運ぶもの。  重そうな硝子の瓶を危なげに抱えるもの。  陣頭指揮を執り、効率的に兎を動かすもの。  そんな中、往来に気を配ることもなく悠々と診察室に向かう着物の少女が一人。  蓬莱山輝夜、その人である。  診察室の扉を開き、輝夜は訪ねる。 「永琳はいるかしら?」 「あら珍しい。どうかなさったんですか、姫」  その声に、眼鏡を外しながら永琳は振り返った。  何か書き付けている最中だったようだが、輝夜はお構いなしである。  実のところ、全て頭に入っているのだから書類など作るだけ無駄、とすら思っている程だ。  しかし永琳にも譲れぬ信条があるらしく、輝夜ですら口出しは無用とされていた。 「ちょっと薬を作ってもらいたいんだけど」 「薬?何に効く薬ですか?どこも悪いようには見えませんが」  当然の疑問である。  蓬莱の薬を服用したものは老いることも病を患うこともない。  輝夜はそれを口にした一人であり、故に薬を必要とするならば輝夜以外の誰かということになる。  が、他人のために薬を処方してもらう、などという殊勝な心がけが輝夜にあるはずもなく。  また何か、碌でもないことを考えているのではないだろうか?  永琳がそう考えるのもまた、当然の帰結だった。  が、知ってか知らずか、あるいは永琳の考えなど端から気にかけていないのか。  口元を袖で隠した輝夜は永琳に寄り添い、耳元で囁いた。 「不死に効く薬なんだけど。貴女なら作れるわよね?」  ああ、これは間違いなく碌でもないことに使うな。  横目に見た輝夜の笑みに、永琳は確信した。  今夜は月が綺麗だ。  僅かに覗く夜空を見上げ、妹紅は思う。  竹林が作り出す闇の中、鈴虫の音色に耳を楽しませながら彼女は一人行く。  時刻は既に夜半すぎ。  人が出歩いてはいけない時間に、人が立ち入ってはいけない場所を歩く。  それは彼女にとって気軽な散歩となんら変わるところのない行為だった。  異なるところがあるとすれば、それは目的地が定められていることだろう。  竹林の奥の奥。  誰も踏み込まない場所に少しばかり開けた空間がある。  彼女はそこに呼び出され、向かっている最中なのだ。 「あいつも趣味が悪いなぁ」  呼び出しをかけた人物、即ち輝夜を思い浮かべながら、妹紅はぽつりと零した。  天を覆い尽くさんばかりに密集した竹林、その中に広場が出来上がったのには訳がある。  そこではかつて輝夜と妹紅による一悶着が起き、最終的に火事が発生した場所なのだ。  長くなるので詳細は伏せるが、詰まるところ、妹紅にとっては忌むべき地である。  そんな所へ呼び出して一体何をしようというのか。  言伝を賜った兎は酒盛りの為だと言っていたが、真偽の程はいかばかりのものか。  だが、悩んだところで仕方ないのもまた事実。  輝夜は月の民であり、永琳ほどではないにしても、その思考は理外のものだった。  一時に比べれば死合うことも減ってはいたが、宴席を共にした回数はそれより遥かに少ない。 「虎穴にいらずんば、ってとこかね」  しかしまあ、輝夜が策謀を巡らせたところで死ぬような体でもないか――  妹紅は気楽に構え、竹林の奥へ向けて歩を進めるのだった。 「遅い!」  月明かりに照らされた広場の中央。  妹紅の姿を認めた輝夜が、腹立たしげな声を上げた。  余程待ったのか、それとも彼女が我慢弱いだけか。  五段重ねの重箱は既に崩され、いくつか中身が抜き取られていた。 「仕方ないだろうが。大体準備出来てから呼ぶほうが悪い」  そもそも、時刻の指定自体がなされていなかった。  遣いが言い忘れた可能性もあったが、苦言を呈したところで相手は輝夜。  聞く耳を持つはずもないので、適当に流すのが上策と妹紅は判断した。 「しかし、お前から酒盛りの誘いとはな」 「私と二人きりで呑むお酒は嫌い?」  小首を傾げながら輝夜は尋ねる。  どうやら酒にも手をつけていたらしい。  頬を薄く染めて上目遣いで尋ねる姿は、特に害意を感じるものではなかった。 「そういう質問をするな、答えにくいだろ」  苦笑しながら、妹紅は輝夜の横に座る。 「ただ、どういう風の吹き回しかとな」  口ではそう言ったが、酔いの回った輝夜の姿に警戒心は薄れ始めていた。  下種な勘繰りが過ぎたかと、密かに自省するほどに。 「こりゃまた豪勢な」  重箱の中には味の濃そうなつまみが詰まっていた。  酒のあてとして作られただけであり、他意はないのだろう。  毒入りかもという危惧は、無造作に食い荒らす輝夜に吹き飛ばされた。 「お前なあ……せめて箸を使え、箸を」 「いいじゃない、今夜は無礼講よ。ぶ〜ぅれいこー!あはははは、はむっ」  突如腕を突き上げたかと思うと、次のつまみに手を伸ばす。  どうやら輝夜は、一人で勝手に酒宴を楽しんでいるらしい。  そんな相手と素面のままで付き合うのは馬鹿馬鹿しいというもの。  妹紅は自身も酔いどれとなるべく酒を呷るのだった。 「ところでさぁ、妹紅。あんた好きなヤツとかいるワケ?」 「ぶは!何だよ、藪から棒に」  宴を始めてから半刻ほどすると、輝夜はいつもの調子を取り戻していた。  だが、酔いが醒めたわけではないのだろう。  吹っ掛けてくる話題はおかしなものだったし、依然として目は据わっていた。 「はぁ〜……妹紅はいいわよねえ。里の人間との付き合いとかあるんでしょ?」  その点こっちは出会いさえもなしよ、などと愚痴をこぼす。  立地が悪い、と言ってしまえばそれまでだったが、それを踏まえた上の発言だった。  永琳を頼って訪ねてくるものは多く、輝夜の方はと言えばほぼ皆無。  彼女が主催した博覧会――月都万象展の客足が芳しくなかったこともあるのだろう。  口を尖らせてぼやく姿には、永遠亭の主としての威厳など、欠片も存在しなかった。 「まあ、私も似たようなもんだよ。人付き合いだって慧音を通してのものだし」  それでもお前よりはマシだけどな、とは言わない。  竹林の迷い人を送り迎えするだけで、色恋沙汰に無縁なのは妹紅も変わりなかったからだ。 「ふぅん……じゃあ、誰かを好きになったことは?」 「そりゃあるけどさ、そんなのは忘れちまうくらい昔のことだよ」  妙なことになったなと、妹紅は眉根を寄せる。  向かい合って呑んでいたはずが、気が付けば輝夜と隣り合って座っている。  のみならず輝夜はしな垂れかかり、その右手が妹紅の胸元でのの字を書いていたのである。  不覚だった。 「大体、誰かを好きになったところでどうしようもないだろ……っていうか近いから」  時間が経つと絡み酒になるのかもしれない。  厄介事は御免だと、輝夜の体を押し返すため肩を掴む。  だが、腕に力を込めるより先に、耳元で輝夜が囁いた。 「それは、死ねないから?」  少し顔を引き、柔らかな笑みを浮かべる。  その指は胸の中心でぴたりと止まり、動かない。  寒気を覚えたのは間近に迫った美貌のせいか、それとも妙なことを尋ねられたからか。 「――ああ、まあ、そうだな」  心臓が狂った律動を刻む。  動揺を悟られる前に、妹紅は輝夜の体を引き剥がした。 「……死ねる体なら、誰かを好きになれるのかしら?」 「知るかよ」  月を見上げて、ぼそりと輝夜が呟いた。  その儚げな微笑から目を背け、妹紅は酒を呷る。  この女に惑わされてはいけない。  頭ではわかっていたが、よもや同性たる自分が調子を崩されようとは――  不覚を悟り、頬がさらに熱くなる。  冷静さを取り戻すため、手をうちわ代わりに顔を扇ぎ、息を整えようとする。  だが、輝夜が妹紅に時間を与えるはずもなく。  先ほどまで胸に添えられていた手が、今度は肩を叩く。 「なんだよ」  尋ねるが返事はなく、再び肩を叩かれる。 「だから、なんだって」  答えのないまま跳ね続ける右手。  仕方なくそれを掴み取り、振り返ることにしたのだが、 「なっ……んんっ」  次の瞬間、輝夜の唇が、妹紅のそれに重ね合わせられていた。  まず理解したのは、艶やかな黒髪に視界が覆われていることだった。  次に見えたのは、透き通るように白い肌。  掴んでいた筈の右手は蛇のごとくするりと逃れ、妹紅の耳を弄う。  背筋に甘い痺れが走り、吐息を漏らしかける妹紅。  開いた隙間にちろりと舌が忍び込み、割り開き、妹紅の口内へ甘露を流し込む。  零れ落ちた雫が腿を濡らした。  その冷たさに驚き、妹紅は流し込まれた液体を嚥下する。  生温い液体が喉を滑り落ちる感覚に、体が震えた。  混乱した頭は事ここに至ってようやく、接吻されたという事実に追いつく。  だが、唇を離そうと身悶えしたところで、後頭部に絡みついた輝夜の左手がそれを許さない。 「んん、ふぅぅ……」  脳髄を冒す甘い痺れ。  腹の底にわだかまる疼き。  味わったことのない感覚に、総身から抵抗する意思が力と共に抜け落ちる。  淫猥な行為に耽りかけた妹紅だったが、唇を強く噛まれた瞬間、思わず輝夜を突き飛ばしていた。 「ッ!つぅ……」  舌先で触れると血の味がした。  甘噛みなどではなく、本気で噛まれたのだと理解する。 「っ、いきなり何しやがる、この馬鹿!」  唾液で濡れた口元を袖で拭い、妹紅は毒づく。  自身の憤りが突然の接吻に向けられたものなのか、  そのさなかに噛み付かれたことに対してなのかは彼女自身にもわからなかった。  あるいは、声を荒げることで平常心を取り戻そうとしたのかもしれない。  対して突き飛ばされた輝夜は暢気なもので、怒声も気にせずのろのろと身を起こし、  脇のグラスを引っ掴むと中の液体を飲み干して一言。 「うえぇ、甘すぎ……」  眉を寄せてぼやく顔には、情事の残り香など微塵もない。 「おい、聞いてんのかよ、馬鹿!色情魔!」  唇を奪われたこともあってか、輝夜に詰め寄る妹紅。  襟元を掴んで握り込むと、その腕を捕らえて輝夜は後ろへ倒れこんだ。  必然的に、妹紅が輝夜を押し倒したような格好になる。 「あん、焦らないの」 「な、いや、これはお前が」  わたわたと手を振り、身を起こして離れようとするが、 「お楽しみはこれからなんだから」  輝夜が手にしたものを見た瞬間、浮ついた心は何処かに消えた。 「神宝・蓬莱の玉の枝」  二人の間で光が弾け、七色の弾幕が広場を満たす。 「ちっ、結局こうなるのかよ!」  間一髪、輝夜の弾幕から逃れた妹紅が吐き捨てるように言う。  唇から滲み出した血を舐め取り、スペルカードを構える。 「おい、輝夜!そっちがその気なら、こっちも容赦しないからな!」  血気盛んな妹紅の様子に、輝夜は笑みを浮かべながら立ち上がる。 「おっかないわねえ、何をそんなに怒っているのかしら。何かおかしなことしたかしら?」  ねえ?と可愛らしく首を傾げる。  だがそれは、妹紅の目には悪意に満ちた所作としか映らない。 「そんな気はしてたが、やっぱり酒盛りは油断させるための罠だったか」  いかにも輝夜の考えそうなことだと、妹紅は思った。  が、どうやらその結論は的を射てはいなかったらしい。 「半分正解。それだけじゃ三十点ってところかしらね」 「半分で三十点かよ。……まぁいい、半分当たってんなら、遠慮する道理はねえよな?」  カードを眼前に掲げ、妹紅は高らかに宣言する。 「不死・火の鳥!」 「神宝・蓬莱の玉の枝!」  同時に、輝夜もスペルを発動した。  妹紅と輝夜の弾幕合戦に容赦という概念は存在しない。  相手を死なせてしまうかもしれない、という恐れを抱く必要がないからだ。  さらに言えば、自分が力尽きるより先に相手をしとめるのが二人の戦いである。  そうして互いに殺し合い、先に立ち上がれなくなった方の負け――  どちらから言い出したことでもなかったが、二人の間ではそう決まっていた。  互いに一歩も引かず、繰り返される弾幕の応酬。  致命傷だけは回避していたが、既に二人の体はぼろぼろになっていた。  流した血は衣服の所々を赤黒く染め、地面に斑点を作る。  出血に体の動きの鈍化を感じ、妹紅は玉砕覚悟の一撃を叩き込むことを決意した。  当たって殺せれば儲けもの。  外したところで復活直後に叩きのめせば問題はない。  よし、と口の中で呟き、妹紅は駆け出した。 「おおおおお!」  雄叫びを上げながら妹紅は突進する。  彼女が距離を詰めたのには理由があった。  両者とも、相手のスペルがどのようなパターンを展開するかを知り尽くしている以上、  決定打を与えるには、回避を許さないほどの至近で発動させる必要があった。  それは使い古した手ではあったが、迎え撃つ輝夜にとっても決定打を与えるチャンスといえた。  発動中のスペルを解除し、新たな符を取り出す。  掲げたカードはサラマンダーシールド。  火炎を警戒しての選択なのだろうと、妹紅は理解した。  だが、妹紅の手に握りこまれているのは徐福時空のカード。  まずは一殺。  確信と共に、妹紅は。 「神宝・サラマンダーシールド!」 「不死・徐福時空!」  先んじたのは輝夜だった。  立ち上った火炎が壁となり、妹紅の行く手を遮る。  だが、妹紅は炎を恐れたりはしない。  右腕で強引に打ち抜き、眼前にスペルを発動する――  それが妹紅の思い描いた勝利への道筋だった。  事実、彼女の腕は炎を突き破って輝夜に迫っていたし、弾幕は輝夜の身を穿っていた。  だが。 「うああぁぁ!?」  手ごたえを得るよりも早く、激痛に彼女は飛びずさる。  妹紅は驚愕した。  打ち込んだ右腕が炭と化していたのだ。 「な……っ、これ、どうして……」  この身が焼き爛れることなどないと信じていた。  その右腕が一瞬にして燃え尽き、今、崩れ去った。  絶対とも言える信頼を、他ならぬ我が身に裏切られた衝撃はいかばかりのものか。  正体をなくし、立ちすくむ妹紅の眼には飛来する火球さえ映らず。 「うぐ、あ」  更なる激痛に我を取り戻した時、彼女の腹部には大きな風穴が開いていた。  体幹を破壊され、支えきれなくなった体が前へ傾ぐ。  くそ、何だってんだ、一体――  右腕を失ったことでバランスが崩れたのか、左肩から地面と衝突する。  既に妹紅のスペルは解除されていたが、輝夜の火勢も見る間に衰え、消滅していった。  初戦は痛み分けか……  激痛に喉を引き攣らせながら、妹紅はぼんやりと考えていた。  僅かに残った陽炎の向こうから、摺り足で輝夜が歩み寄る。  赤い袈裟を懸けたように、その単は血に染められていた。  彼女もまた、妹紅と同じく虫の息なのだ。 「――……」  てめェ、何しやがった。  仰向けに寝転がった妹紅は、月を背負って立つ輝夜に毒づこうとした。  が、意思に反して声は出ない。  仕方がないので睨みつけると、 「どうしたのよ、そんな怖い顔して」  傍らに膝をついた輝夜が、血の気を失った顔で笑みを作った。  真上から覗き込むようにして顔を合わせ、妹紅のおとがいを撫でながら言う。 「火傷するのはそんなに嫌だった?」  腹部に手を伸ばし、傷口を指でなぞる。  こんな状況だというのに、それを心地よいとさえ感じる自分に妹紅は嫌気がさした。  だが、そんな煩悶も長くは続かなかった。  続く言葉に思考が停止させられたからだ。 「でも、見逃してくれるわよね?なにせ、死ねる体にしてあげたんだから」  口を開き、呆然とする妹紅を諭すように告げる。 「まだ気付いてなかったのね」  思慮が足りないと、喀血しながら笑う輝夜。 「死んでもおかしくない傷なのに、いつまで経っても直らないでしょう?そういうことよ」 「――……」  パクパクと口を動かすが、言の葉が紡がれることはなかった。  もっとも、混乱した頭は何を言うべきかすら定められなかったのだから、  声が出たところで大差はなかっただろう。 「でも、残念だったわね。死ねる体になった途端に死んじゃうんですもの」  嗚呼、なんて可哀想な妹紅――  白く冷たい指先が妹紅の頬を撫でる。  でも安心なさい。私も一緒に死んであげるから――  夜空を遮るように覆い被さる輝夜。  目に映るのは艶やかな黒髪と白い肌。  唇に触れた柔らかな感触に、瞼を閉じながら妹紅は毒づく。  畜生め。結局最期まで、私はこいつの玩具だったのか――と。  雀のさえずりに目を覚ます。  よく晴れた、清々しい朝だった。 「……へ?」  妹紅は辺りを見回す。  見慣れた作りの室内は、間違いなく妹紅の住処である。  が、布団を敷いて寝た覚えはなかったし、さらに言えば家に帰り着いた記憶すらない。 「ええと確か……輝夜に殺されて、ワケのわからないことを言われて……そうだ、傷!」  思い立ち、寝巻きを捲り上げ腹部を確認するも、そこに穴はない。  また、確認するまでもなく右腕も無事である。 「……輝夜のやつ、法螺吹きやがったか?」  でなければ、全て悪い夢だったのだろうと思った。  首を捻っていると、玄関を開けて慧音が入ってきた。 「おはよう、妹紅。邪魔するぞ」 「あぁ……慧音か。おはよう」  安堵のため息を漏らし、挨拶を交わす。  一瞬、輝夜が追い討ちをかけに来たのかと思ったのだ。 「体の方は大丈夫か?処置はしておいたんだが、何分、あの薬師の毒だからな」 「え?……あぁ、やっぱり」  何をどうすれば自分をあんな目に遭わせられるのかなんて、さっぱりわからなかった。  だが、輝夜が永琳におかしなものを作らせたのであろうことは想像に難くない。  ある意味、予測の範疇ではあった。 「でも、どうして慧音がそのことを?」  むしろ、一番の疑問点はそこだった。 「うむ。それがまた奇妙な話でな」  曰く、丑三つ時に慧音のもとを訪れた永琳が、輝夜の企みを包み隠さず暴露した挙句、 『藤原の娘の面倒を見てやるといい』  と言って去っていったのだという。 「なんだそれ?」 「私に言うな。しかしまあ、そのお陰で夜明け前にここに運び込めた」 「むう……」 「片棒を担いでいたくせに、と思っているんだろう?」 「うん、まあ」  慧音の前では妹紅も素直なものである。 「相手はあの薬師だ、気にしても仕方あるまい。これから朝食を作るが、食べるよな?」 「ああ、ありがとう。いただくよ」  頷き返すと、よろしいと言い残し、慧音は御厨へと姿を消した。  朝餉を作るために慧音が訪れるのは、珍しいことではなかった。  加えて言えば、今日のそれは妹紅の体のみならず、心までも慮ってのことだろう。  そんな風に接してくれる慧音のことを、妹紅は有難いと感じていた。  体は正真正銘の健康体に戻っているらしく、消し飛ばされていた胃袋は空腹を訴えていた。  試しに指先を火で炙ってみるが、やはりなんともない。 「あー、さっぱりだ!」  布団に体を投げ出し、手足を伸ばす。  結局、あの毒は何だったのだろうか?  本当に蓬莱人を死に至らしめる薬だったのだろうか?  それさえあれば、いつか死ぬことが出来るのだろうか?  もし、慧音に歴史を消されていなければ――  そこまで考え、頭を振り払う。 「そんな危ないもん、あの医者が作るはずないか」  からかわれただけだろうと割り切り、妹紅は御厨へと足を伸ばした。 「なあ慧音。今日の朝食は何だ?」 「実はだな、先ほど里のものから差し入れが入っててな――」  妹紅は思った。  今という時間は二度と取り戻せない。  それは永遠の生を得たとしても違えることの出来ない道理であり。  なればこそ、日々を懸命に生きよう、と。  輝夜の姦計に嵌まり、とうの昔に忘れた死の恐怖を味わうことになったが、  期せずしてそれは、妹紅に襟を正させる結果となったのだった。  その頃、永遠亭では。 「いいいだあああいいい」  永遠のお姫様が、癒えない傷の痛みにのた打ち回っていた。 「はぁ……全く。もう少し静かになさってくださいよ、姫」 「無理!言ってないと痛くて狂いそうなのよ!」  激しく首を振り、拒否する輝夜に、 「いいじゃないですか、今更ちょっとくらい狂ったって」  誤差ですよ、などと言って永琳は宥める。 「うぅぅ〜……解毒薬はまだなのぉ〜……?」 「あと三日かかりますね」  嘘である。 「ぐぅぅ」  だが、それを知らない輝夜は無慈悲な言葉に力尽きる。 「だから言ったじゃないですか。そちらが出来上がってからにしてはどうかと」  忠言など聞くはずもないのはわかっていたし、事実そうなった。  これで姫が思慮深くなって下されば幸いですわ――  実のところ、この状況こそが一番の薬だと永琳は思っていた。 「いたい いたい うどんげー きた」 「ひ!?」  通りがかった鈴仙を狂気に染まった瞳で怯えさせる。 「おかしな真似をしないでください、姫」 「ぴきぃいぃぃい」  ぴしゃりと叩くと、輝夜は奇怪な悲鳴を上げて倒れ込む。  これ以上長引かせても面倒が起こるだけか――  壊れたように「ぴきぴき」と繰り返す輝夜に、永琳は悟った。 「……仕方ありません。これだけはやりたくなかったのですが」 「何かあるの!?」  即座に食いつく輝夜。  反省の色は全く見えなかった。 「姫の力を使えば、あるいは」 「使う使う!何でも使うから!」 「承知いたしました……優曇華、私は部屋にいるから病人が来たら教えて頂戴ね」  わかりましたししょー、という返事を聞き届け、永琳は輝夜の手を取る。 「それでは姫、もうしばしのご辛抱を」  恭しく一礼し、永琳は立ち上がった。