心地よいまどろみの中、私は夢を見ていた。
 満開の桜の下、旧い友人と酒を酌み交わした時の夢。
 昼といわず夜といわず、一日といわず二日といわず、私たちは飽きるまで呑み続けた。
 それこそ桜の花の、最後のひとひらが落ちるその時まで。

『ほらほら、さっさと呑まないとこぼれるよ』
『一気、一気! そんで呑まれろ!』
『こんな水みたいな酒でだぁーれが潰れるか! 見てろよー……んぐっ、んぐっ、ぶふぅっ!?』
『あはははは! かかったかかった! じゃじゃーん、今のは鬼毒酒でしたー!』
『萃香てめぇ、謀ったな!?』
『お、やるか?』

 酒と喧嘩、それから呑む口実。
 それさえ揃えば、いつだって私たちは一緒だった。
 楽しかった。
 それがもう、過ぎ去った日々だったとしても。
 本当に楽しかった。
 だから、ずっと夢の中にいたかった。
 けれど。

「……ぃょ。すぃ…………」
 遠くから響いた声が、夢幻に幕を下ろす。
 やめてくれよ、もう少しだけこの夢を見ていたいんだ。
 でも、嗚呼、畜生。
 花も、連中も……、もう、何も見えない。
 桜はまだ、咲いていたはずなのに――


「お・き・ろ!」
「わあっ!」
 現へと意識が切り替わった瞬間、耳元で怒鳴られた。
 驚きのあまり、私は間合いを取ろうとゴロゴロ転がる。
「ひゃっ!?」
 が、場所が悪かったらしい。
 声から逃げた先に床は無く、代わりに少しの空白と、地面があった。
「ぶ!」
「ちょっと萃香、何やってんのよ」
 何も糞も無い。全ては霊夢の所為だ、と言いたいところなんだけど、
「いひゃい……」
「ああもう。そんなとこで座り込んでないでさっさと上がりなさい」
 手を差し伸べてくれたから、水に流しておくことにしよう。
 寝てる場所が悪かったのかもしれないし、ね。

 でもやっぱり、起こされた理由は気になる。
 良い夢を見てる最中だったから尚更だ。
「うー。なんで起こしたんだよう」
 鼻の頭をさすりながら私は尋ねた。
「だって、そんなところで寝てたら邪魔になるじゃない」
「邪魔って……」
 やっぱりそんなところだったのか。
 けど、掃除をしていた気配も、何かを運んでいた気配もない。
 というか、隣でのんびりお茶飲んでるんですけど。
「一応聞くけど、何の邪魔?」
「お茶の邪魔。横でうひゃうひゃ笑われたら落ち着いて飲めないでしょ?」
 まさかのお茶のためだった。
「……そんな変な笑い方、してないもん」
「そりゃまあ、ねえ」
 気のない返事。
 暖簾でももう少し押し応えがあるんだけど……どうもここらが引き際らしい。
 こうなりゃヤケ酒だ。
 私は瓢箪に口をつけ、天を仰ぐ。

「思うんだけどさぁ」
 視線を感じて顎を下ろすと、霊夢が私を見つめていた。
「ん?」
「どうしていつも酔っ払ってるの?」
 ……また突拍子もない。
「そりゃあ、私が酒好きだからに決まってるじゃない」
「嘘は嫌いなんでしょ?」
「む」
 こんな時、無駄に働く霊夢の勘が憎い。
 異変の時だけ働けばいいのに。
「酒好きなのは酒を呑む理由。私が気にしてるのは酔う理由よ」
「……いいじゃん、そういうのはさ。酒を呑んだら酔っ払う、それだけのことだよ」
「ふぅん。まあいいけどね」
 私から目線が外れるのを見て、少し安堵する。
 問答のせいだろう、酔いは醒めかけていた。
 私はもう一度瓢箪を傾けた。

「紫あたりに何か吹き込まれたの?」
 霊夢のお茶が七杯目を数えた頃、私は尋ねることにした。
 いくら暇だからって、意味も無くのんびりし続けるはずもない。
 きっと何かしらの理由や確信があってのんびりしているのだろう。
「ううん、私が気になっただけ。でも、そうね。強いて挙げれば天人かしら?」
「天人と言えばあの、剣を振り回してた?」
「うん。確か――しがない天子、だったかしら?」
「天人なのに謙虚……じゃなくて、比那名居でしょ。比那名居天子」
「ああそう、それだ」
 今の間違いは私怨が篭もってると思う。
「あいつが言ってたでしょ。花は半開を見、酒は微酔に呑めって」
「言ってたねえ」
 喋る合間にも、私たちは瓢箪を、或いは湯呑みを傾け続ける。
「あんたは微酔も何もないじゃない。っていうか、ずっと酔っ払ってるし」
「まあね。あの訓示は人間のためにあるようなものだし」
 花看半開、酒飲微酔と、口の中で諳んじる。
 良くも悪くも人間らしい言葉だ。
「何事も程ほどにしておけ、でなければ台無しになる……ってとこかな」
「呑み過ぎて戻したり?」
「ああ、そりゃ台無しだなあ」
 やはり人間は微酔が丁度いいのかもしれない。
「天人と言えど元は人間だからね。……いや、天人にまでなったからか。自分を戒めるのは」
「じゃああんたは関係ないってこと?」
「私は鬼だからねえ。自分を騙して酒量を抑えるなんて、まっぴらごめんだよ」
「酒を呑むことで自分を誤魔化すのはいいの?」
 一瞬、酒を吹き出すかと思った。
 同時に、「そう来たか」と感心もした。
「んもう。いいじゃないか、ちょっとくらいはさ」
「……変な鬼よねえ」
「良く言われた」
 そういやみんな、今頃どうしてるかな。
 ……いや、考えるまでも無いか。
 きっと今も何変わることなく、酒と喧嘩に明け暮れているのだろう。
 どいつもこいつも、どこまでいっても鬼としてしか生きられない連中だし。


「ね、萃香。今夜は一緒に寝ましょう」
 月を見ながら呑んでいると、霊夢から同衾のお誘いがかかった。
 人間にこんなことを言われたのは初めてだ。
「いきなりだねえ」
 酔っ払いと寝床を共にしようなんて、やっぱり霊夢は変なやつだ。
「ま、いいけどさ。寝相は保障できないよ?」
 後で文句を言われても困るので確認。
 寝返りの心配だけは多分ないけれど。
「大丈夫じゃない? もし暴れたら縛って仕返しするだけだし」
「仕返しって……怖いなあ」
 荒縄で縛ったりするつもりだろうか?
 縄抜けくらいなら朝飯前だけどさ。
「ほら、はやく来なさい」
 子供を寝かしつけるように、自分の傍らをぽんぽんと叩く。
 私の方がずっとずっと年上なんだけどなぁ……

「よいしょ」
 布団に入ると、まず頭を抱えられた。
 どうやら丁度良い角の置き場所を探しているらしく、暫くして「よし」という呟きが聞こえた。
「……なんていうか、霊夢って変な人間だよね」
 身動き出来ない私は、天井を見つめて呟く。
 人間の味方で、妖怪退治の専門家で、そのくせ妖怪とも普通に接していて。
 人が恐れて然るべき鬼さえも同等に扱って、あまつさえその角を枕代わりにする。
 こんな人間を、私は他に知らない。
「どういう意味かしら?」
 ほら。今だって私相手に笑顔で圧力かけてくるし。
「どうもこうも、そのままの意味だよ。霊夢の感覚は普通じゃないもん」
「そりゃまあ、巫女だし」
「いやあ、霊夢に比べてあっちの巫女は……やっぱりちょっと変か」
 一寸納得しかける。
 が、考えてみれば幻想郷が外界と隔絶されてからそれなりに経っているわけだから、
 外の世界での常識がこちらの非常識なだけ、ということも考えられる。
 その点、霊夢は幻想郷で育った天然モノ。
 やっぱり変だ。
「何か思うところでもあった?」
「ちょっとねー」
 頷こうと思ったけど、角を枕にされてるせいで頭が動かせない。
 その状況がどうにも落ち着かなくて、私はそわそわしてしまう。
「あん、あんまり動かないの」
 優しく窘める言葉と共に霊夢の腕が伸びてきて、そのまま抱きつかれた。
 縛られるのかとも思ったが、そこまでのことではなかったらしい。
「んー、やっぱりこうしてる方が温かいわね」
「ちょっと、暑苦しいよ」
 霊夢の体から、ふわりと石鹸の香りが漂ってくる。
 ううむ……これは酒の入った身には、少々毒だ。
 少し距離を取りたいところなんだけど、見逃してはもらえないらしい。
「逃がさないわよ、今夜は懐炉代わりになってもらうんだから」
「うあ、ちょっ、霊夢……!」
 頭を背けようとしたのがまずかったか。
 今度は腕ばかりでなく、足まで絡みついてきた。
「ふあっ」
 脚が内股を擦っていったせいで、思わず声が漏れる。
「こーら、動くなってば」
「んんっ」
 おかまいなしに、霊夢は私に絡みつく。
 襦袢の感触が、不味い。素肌の感触はもっと不味い。
 このままでは鬼なのに狼になってしまう!

「ん、よし」
 ひとりで悶々としている内に霊夢は納得したらしく、そのまま動かなくなった。
「それで、何?」
「へ……?」
 暑い、というか、熱い。
 お腹の中で熱がぐるぐると渦巻いて、上手くモノが考えられない。
 おまけに身動きも取れないなんて、これでは生殺しだ。
「喋る気がないなら、もう寝ちゃうけど」
「え、と……」
 何だったっけ? 何の話題だったっけ?
 石鹸の匂い、は、違う。肌に触れる感触も、違う。
 熱、酒、月、巫女――そうだ、巫女が変、って話で……
「そう。霊夢ってさ、他の人と比べて……霊夢?」
「すぅ……すぅ……」
 ひどい。話す気満々だったのに。
「……はぁ。寝るかぁ」
 眠気は吹っ飛んじゃったけど、掻き萃めれば、眠るくらいは出来るだろう。
 熱は……意識しなけりゃそのうち鎮まるかね?
「おやすみ、霊夢」
 神社から追い出されたくないし、襲うのだけはやめておこう。



 夜毎繰り返される酒宴の夢は、朝の訪れと共に自然と消えていった。
 けれど現との狭間を揺蕩う感触が気持ちよく、なかなか目を開ける気になれない。
「お酒、お酒……」
 瞼を開いてしまえば雲散霧消するであろう、儚い感触。
 それを逃さぬよう、目を閉じたまま瓢箪の在り処を探る。
「……あれ?」
 が、枕元に置いてたはずの瓢箪が、ない。
 動き回ったせいか、潮が引くように浮遊感も消えていく。
 最早、手探りで探す意味はない。
 諦めと共に、私は現実へと降り立った。

「ひどいよ霊夢。使ったら戻してくれないと」
「だって、慌てててそれどころじゃなかったんだもの」
 瓢箪は霊夢が持っていた。
 料理酒の代わりに使おうとしたらしい。
「煮物が炎上するなんて思わなかったし」
 その気になれば火吹き芸も出来るほどの度数なのだから当然だ。
「これに懲りたら、もう料理に使おうなんて思わないことだね」
「んー、でもいつもより美味しいわよ」
「確かに美味しいけどさ、お酒、ちょっと強くない?」
 酒臭い煮物なんて聞いたことがない。
 粕漬けじゃあるまいし。
「いいじゃない。お酒、好きでしょ?」
「むう」
 酒は酒として呑むのがいいんだけどなあ。


「あ、そうだ」
 片付けを手伝っていると、不意に霊夢が手を打った。
「昨日寝る前に何か言いかけてたわよね。あれって、何?」
「うわぁ、今更」
 すっかり忘れてたよ、そんな話。
「話そうとしたら霊夢寝てるんだもんなー。ひどいよ、本当」
「だから今こうして聞いてあげてるんじゃない」
 気にはしてくれてたんだ。
「まあ、大した話じゃないんだけどね」
 自分は何を言おうとしていたのか。
 頭の中の断片をかき集めながら、私は口を開いた。

「霊夢ってさ、人間かどうかって、あんまり気にしないよね」
「そう? 結構気にしてると思ってるんだけど」
「退治するなら、でしょ? 私や紫とは普通に喋ってるし」
「紫の言ってることは時々しか分からないけどね」
 そればっかりは仕方が無い。
「普通はさ、おっかなびっくりだよ? 私らみたいなのの相手する人間はさ」
「あんたの場合、呑み比べとか力比べばっかりしようとするからでしょ?」
「あー、それを言われると……」
「紫は胡散臭いし」
「神出鬼没だしね。まあ、兎に角、好き好んで近寄るヤツってのはあんまりいないわけだ」
「あっちから勝手に来るだけなんだけどねぇ」
「ついでに私は勝手に棲み付いてるだけだしね」
「あんたは良いのよ。色々手伝ってくれるし」
 なんか頭撫でられた。
「詰まる所、それで私が変わり者だって思ったのね?」
「うん。霊夢は変だって思った」
「そっか、変か……考えたこともなかったな」
 ぶつぶつと呟きながら、私たちは片づけを終えた。

「逆に言うとさ、萃香も紫も変ってことよね?」
「ん?」
 境内を掃き清めていた霊夢がこちらを振り返る。
「人に怖がられてこそなのに、私のところにばっかり来るじゃない? 変よ」
 どうやら先ほどの会話の続きらしい。
「そりゃ、みんな同じような反応ばっかりだからだよ。普通に話せる霊夢が珍しいわけさ」
「変なのに普通? ややこしい話ね」
「普通でいられるのが変なんだもん、仕方ないよ」
「ふうん。まあ、どうでもいいけどさ」
 肩を竦め、霊夢は掃除に戻っていった。
 あの様子だと、何が変なのかは良くわかってないかもしれない。
「あ、そうだ」
 なんて思ってたら、もう一度くるりと振り返ってこんなことを言った。
「聞いてみたいことがあるから、後で聞かせてね」
 手を振りながら私は酒を呷る。
 どうせ暇なんだし、予約なんて取り付けなくていいのになあ。


「さ。どんな質問だい?」
 今日もまたまた縁側で日向ぼっこ。
 いつもこんなだから、霊夢は昼行灯って言われるんだろうな。
「昨日と同じ質問なんだけどね。結局うやむやになっちゃったから」
「あぁ……」
 少しだけ気持ちが沈む。
 酔いが醒めぬよう、酒を呑み続ける理由――
 霊夢が聞いているのはそのことなんだろう。
「一応言っとくけど、酔っ払いやめるつもりはないよ?」
「分かってるって。ただ私が気になるだけよ」
「ま、そういうことなら。長い話になるからね、覚悟しといでよ?」
 急須と煎餅を傍らに置き、霊夢は頷いた。

「もう何百年になるのかな。鬼が幻想郷を去ってから」
 瓢箪を掲げ、あの頃のことを思い出す。
「霊夢はさ。どうしてここから鬼が居なくなったか、知ってる?」
「平和な幻想郷に飽きたからじゃない?」
「今は平和だけどね、そうじゃないよ。あの頃の人間は、生き延びるのに必死だったからね」
 今でこそ規律が制定されているものの、昔は弱肉強食の世界だった。
「詰まらない、ってことだけはなかったと思うよ。面白いかは別として、ね」

 幻想郷の頂点に君臨していたのは、鬼。
 底辺で搾取されていたのは、人間。
 だから人間は、卑怯な手段だって躊躇わず使えたのだろう。
 一人の英雄によって成し遂げられる偉業ではなく、多数の凡夫によって成される虐殺。
 油断がなかったとは言わない。
 だが、人に打ち倒されるのが宿命と言っても、あれはあまりに一方的過ぎた。
 今となっては、互いの所業を知る人間など居るはずもないのだが。

「霊夢、さっき言ってたよね? 鬼も妖怪も、恐れられてこそのものだって」
「怖がられてこそ、ね」
「同じことさ。私たち鬼は、人にも妖怪にも恐れられていた。だから頂点でいられた」
 鬼に使役されていた頃のことを天狗も河童も覚えているからだろうな。
 山に戻る気などないと言ってるのに、未だに態度が余所余所しいのは。
「けれど、人は鬼を恐れなくなった」
 世代交代が遅いというのも、ある意味考え物かもしれない。
「大きな力を持った種は、大きな弱点を背負わされる。鬼ともなれば、尚更だ」
「鬼にもねぇ……。紫にも弱点ってあるのかしら」
 霊夢がぽつりと漏らす。
「きっとあるよ。でもあいつは固有種だからね。見つける前にみんなやられちまう」
「それもそうか……。ごめんなさい、話、続けて頂戴」
「ん」
 ……そういえば、霊夢が謝るなんて随分と珍しいことだ。
 それだけ真面目に聞いてくれてるってことだろうか?
 お煎餅、バリバリ食べてるけど。

「で、まあ、結論から言えば人間に弱点を知られちゃった鬼は乱獲されちまったわけさ」
「敵わない相手から、対等を通り越して、常勝の相手になっちゃったわけね?」
「そう。存在意義を真っ向から否定された鬼は、幻想郷に留まっていられなくなった」
 そして地底へ逃げた。
 少なくとも、私はそうだと思っている。
「いよいよ蛮行甚だしく、我ら一族、人を見限ること此処に定めたり」
「? 何、それ」
「鬼が人間に宛てた言葉さ。もっとも、そいつは帰ってこなかったから、実際は知らないけどね」
 聞く耳すら持たれなかったのかもしれない。
 疑心暗鬼というやつだ。
「折り良く人の来ない場所が空いててね。幸い、新しい棲み処には不自由しなかった」
「ああ、あの地底の」
「けどあそこは、地上と違って月も花も四季もないからね。酒と喧嘩くらいしか楽しみがなかった」
「侘しいわねえ」
「全くさ。……ま、色々思うところがあってさ。その時から私は、ずっと酔っ払いをしてるわけだ」
「いよいよ本題、か」
「あ、疲れた? 一旦ここで休憩挟んでもいいんだけど」
「いいわよ、続けて頂戴。休憩したら、いつ続きが始まるかわかんないし」
「あはは。うん、わかった。それじゃこのまま続けるよ」

「酔生夢死、って言葉があるでしょ」
「ええと……無為な一生を送る、って意味だっけ?」
「そう、良い意味じゃ使われない言葉だね。だけど、私はそんな風に生きたかった」
「あら。なんでまた」
「夢見るように覚束無い生なら、無為に過ごすことも苦ではない……って思わない?」
 後ろ向きすぎるって言われるかもなあ。
「素面で生きるには、地底は余りにも退屈すぎたからね」
 少し不安になったけど、溢れ出す言葉は止まらなかった。
「だから地上にやってきた、と」
「そういうこと。けど、愕然としたよ? 誰も彼も鬼のことを知らないってんだからさ」
 鬼という言葉は色々なところに残っていた。
 けれど、鬼という存在自体は忘れ去られていた。
 まるで荒野に一人取り残されたかのような心持ちになったことを今も覚えている。
「今更地底には帰れないし、かと言って行く当てもない。お酒は幾らでもあった。そういうことさ」
 酒を呑み、当てもなく彷徨い、夢を見るだけの日々。
 今のこの状況に比べれば、遥かに空疎な生活だった。
「地上に出てきたら、花と月は変わらずに在った。でも、一人だと何にも面白くなかったんだ」
「紫は? あいつとは知り合いだったんでしょう?」
「ダメダメ! 紫に縋るなんて真似、みっともなくて出来ないよ!」
 あいつを下手に頼ったら、それこそ八雲萃香に改名させられかねない。
「紫は酒以下なのね……」
 そういうわけではないんだけども。

「ともかく、酒浸りになってたのはそんな理由からさ。みっともなくて人には話せないけどね」
「私、一応人なんだけど」
「いいんだよ、霊夢は。世話になってるし、特別……変だから」
「鬼心は複雑ねえ」
 笑った霊夢に、また頭を撫でられた。
「ああでも、博麗神社の養子になる気はないよ?」
「しないわよ! 役に立つ巫女なら募集中だけど」
「伊吹萃香・シュラインメイデン?」
「どこぞの閻魔様みたいね」
 二人してけたけたと笑いあった。


「ほら、萃香。おいでなさいな」
 その夜、またお誘いがかかった。
「暑くなるまでは、添い寝よろしくね」
「……霊夢。ひょっとして、気を使ってくれてる?」
 孤独に苛まれて酒に溺れたと思われたのかもしれない。
「そういうことは言わせない」
 暗くて良くわからないけど、ひょっとして照れてる?
「まあ、一緒に住んでるんだしさ。出す布団がひとつで済めば楽でしょ?」
 私も安心するし、と、小さく呟いたのを聞き逃す私ではない。
「んもー、霊夢はかわいいなあ!」
「わっ! いきなり近付くな! あとお酒臭い!」
 嫌よ嫌よも好きのうち。
 抵抗する素振りは見せてるけれど、本気じゃないことはすぐにわかった。
 本気だったら、今頃私は針山だ。



「ねえ、萃香……。いつか、あんたが、素面でいられる日が来るといいわね」
 ひとしきりじゃれあった後、霊夢がぽそりと呟いた。
「へ?」
「だってあんた、詰まらなくって寂しくって、それで酒浸りになってたんでしょ?」
「えー、あー、うん」
「だから、そうじゃなくなるといいわねって……ああ、私、何言ってんだろ」
 やっぱり表情は見えなかったけど、今度は照れてるんだってわかった。
「……ね、霊夢」
「なによう?」
「ありがと」
「ふん、どういたしまして」
 言葉とは裏腹に、霊夢は強く抱きしめてくれた。
 胸の奥がほんわりと暖かくなって、私も霊夢の腕をぎゅっと抱きしめた。

 いつか、素面でいられる日が来たら。
 その世界は私の目に、どんな風に映るだろうか?
 きっとそれは何百年も前に失った、そして私が恋焦がれた原風景。
 みんなで飲む酒は、きっと、とても美味しいに違いない。
「それじゃおやすみ、霊夢」
「ええ。おやすみ、萃香」
 いつかの未来に思いを馳せて。
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