『何故か部数は伸びたらしい』

     ●

 今は昔、妖怪が人を文字通り食らっていた頃の話。とある里に妖怪退治を生業とする一人の男が居た。
 平生より皆に変わり者だと言われ、自身もそれを認めていた彼であったが、ある日、そんな彼をして自らの正気を疑わざるを得ない事態と直面することとなった。

 それと出逢ったのは獣を追って踏み込んだ森の奥、少し開けた沼の傍でのことである。何者かの気配を察し、逃した獲物かも知れぬと弓を構えて飛び出せば、其処に居たのは一人の女。
 木漏れ日を受けてきらめく姿はあまりにも神々しく、それを瞳に映した瞬間、彼は息をすることも忘れていた。一目惚れというものが起こり得るのならば、それは紛れも無く、そう呼ぶべきものだったのだろう。

 当時、妖怪はその多くが人ならざる姿をしていた。人を捕らえて食らうため、人に恐れを与えるため。それぞれがそれぞれの意味を持ち、妖怪然として顕現していた時代だったのだ。無論、妖怪の中には人に近付き取り入るために人の姿を真似る者も居た。その正体はほとんどが妖獣であり、特に狐であることが多かったという。
 化ける狡猾さは力が弱い証左でもある。だが、その時彼が直面した妖怪は紛れもなく大きな力を持っていた。退魔の技持つ彼をして、その身動きを封じる程度には。

「私に何か御用かしら?」
 息さえ忘れ立ち尽くす彼に、絹の如き艶を持つ金の髪を揺らめかせ、妖怪は問う。
「用が無いならお逃げなさいな。でないとあなたも食べるわよ?」
 外見に違わぬ、鈴を転がすような声で。
 とび色の双眸に見つめられ、危うくその魔性に魅入られかけた彼であったが、すんでのところ踏み止まり、同時に己が置かれた状況も正しく把握した。
 眼前には一匹の妖怪。周囲に他の気配は無く、一切の横槍は入らぬだろう。そして、矢をつがえた弦は既に引き絞られており、力の解放を今か今かと待ち望んでいる。
 ――この指を離せば、或いは。
 放てば、矢は過たず妖怪に突き立つだろう。中てるのではなく、中る。それは確信であり、幾多の妖怪を退けてきた者が持つ自負でもあった。
 しかし同時に、彼の勘はこうも告げていた。矢を放てば、己の命は無いであろう、と。
「それともあなたは、食べられたい?」
 そんな葛藤を知ってか知らずか、女は童女のように小首を傾げ、問う。
 ――否、勝てる相手では無い。
 妖怪を前にして退くのは退魔師の沽券に関わるが、命あっての物種である。死を覚悟し、それでも立ち向かわねばならぬのは、譲れぬものを守る時だけ。今はその時ではないと、彼は判じたのだ。
「……帰るのね? 帰り道には気をつけなさいな」
 踵を返し、森を出る。今の彼がすべきは、ただそれだけだった。

 それから暫くの間、彼は森へ踏み入るどころか近付くことさえしなかった。敵わぬ相手が居るかもしれぬという懸念は、確かに、足を遠のかせるには十分である。だが、彼が真に恐れたのは妖怪の力ではなく、
 ――その血肉に成れるのならば、食われるのも悪くはないか。
 一瞬であれそう考えていた、己が心の在り様だった。

 しかし、いつまでも蛇の道を避けては通れぬのが蛇の者のさだめ。妖怪退治を生業とする以上、妖怪が潜む森へいつかは行かざるを得ない。
 ――死んだ女房に化けて出た狐を手負いにしたが、森に逃げ込まれてしまった。どうかあの性悪を仕留めてきて欲しい。
 そのような頼みが舞い込んできたのだ。
 傷が深ければ放っておいても息絶えるだろうが、生き延びたなら、人に恨みを抱く狡猾で残忍な妖狐となるかもしれない。危険の芽を、むざむざ看過するわけには行かなかった。幸い、狐が逃げた道筋には血の痕が残されている。
 ――これを辿り、狐に止めを刺せば良いだけだ。道にでも迷わぬ限り、あれと出逢うこともあるまい。
 そう判じ、彼は夜明け前の森に踏み込んだ。

「あら珍しい。こんな時間に人間なんて」
 だが、果たして、妖怪は其処に居た。
 屈む女が指先を這わすのは、既に息絶えた狐の体。
 ――もしや狐は女の手先だったのか? だとすれば、少々厄介なことになるぞ。
 刺激せぬよう言葉を選ぼうと男は思案したが、しかしそれは杞憂に終わった。
「これを追って来たのかしら? でも、これはあげないわよ。私が先に拾ったんだから」
「拾った……? そんなものを、どうしようというのだ」
 彼は問う。人に仇為すつもりであるなら、みすみす見逃すわけにもいかぬと。
「死んだ狐は幾らでも使い道がある。死して屍、拾う者有り」
 意にも介していないのか。女は狐をひょいと持ち上げ、首に巻つけ「似合うかしら?」と尋ね、首を傾げる。
「こうして使えば襟巻きに、肉削ぎ取れば食材に、式を打てば使い魔に。これほど便利なものは無い」
 面白い玩具を手に入れたとばかりに女は言い、そして、問う。
「故に、欲するならば代償を。例えば、そうね。あなたの血肉なんてどうかしら?」
「冗談ではない。それが死んでいるのなら、己はそれでいいのだ」
「あら残念。それじゃ真っ直ぐ帰りなさいな。化生に食われるその前に」
「ああ、そうするさ。そうするとも」
 男は弓を構えることもせず、くるりと妖怪に背を向け、来た道を引き返す。
 ……妖怪との二度に渡る邂逅を経て、しかし諍いが起こらずにいる。そのことが彼の内に大きな謎を残し、また、妖怪に対する更なる興味を抱かせもした。

 二度ある事は三度ある。
 斯様な諺に望みを掛けたのだろうか。彼は件の妖怪と語らうことを望み、幾度か森へ足を運んだ。
 ――あの妖怪は、何故己を見逃したのだろうか。あの妖怪は、如何様な理念を持って生きているのだろうか。
 思いは募れど願いは叶わず。話すどころか目にすることさえ叶わぬまま、月日が過ぎる。
 ――嗚呼、どうすれば彼女に出逢えるのだ。どうすれば彼女の声を聞けるのだ。どうすれば、どうすれば、どうすれば。
 日に日に増し行く思慕の情に、とうとう己は狂ったかと自嘲してみるが、満たされぬ渇望は胸を焦がすばかり。
 ――真実狂ったというのなら、最早この身この体この魂、呉れてやっても惜しくは無い!
 そうして彼は、遂に己の命を惜しむことさえ、やめてしまった。

「私に何か御用かしら?」
 故に、出逢った。故に、出逢えた。血を、肉を、魂さえをも食らう妖怪と、まみえることが
叶ってしまった。
「用が無いなら食べるわよ? ……有ったところで食べるけど」
「用は、有る。だが、少しだけ時間を呉れないか」
 答えると同時、彼は少なからぬ落胆を得る。
 ――どれほど美しくとも、どれほど変わり者であろうと、やはり妖怪は、妖怪でしかないのか。やはり己は、食い物でしかないのか。 彼女だけは、或いは。斯様な期待が無かったと言えば、嘘になる。
 ――だが、勝手に期待したのは己だ。勝手に失望するような真似まではすまい。
 そして彼は、こうも思う。妖怪に恋をしてしまった以上、己は人の内に身を置いてはならぬだろう、と。それは彼なりのけじめでもあった。
「逃げずに時間を呉れなんて。可笑しな人間、可笑しな人間」
 そんな思いを知ってか知らずか、彼女は楽しげにそう歌う。が、不意に沈んだ調子になったかと思えば、こうも言うのだった。
「だから興味を持ったのかしら? 可笑しな私、可笑しな私」
 その言葉に彼は、彼女もまた、戸惑っていたのだと気付く。戸惑いの正体が分からぬから、己を生かしたのではないか、と。
「食われて良いと言うなんて、あなたは真実人間なの?」
「食うても良いかと問うなんて、御前は真実妖怪か?」
 そうして紡がれた問いは歌に似て、故に男も似せて問う。
「やはり私は妖怪よ。人の畏れる妖怪よ」
「やはり己は人間だ。畏れ、食われる人間だ」
 返す答えもやはり歌。己の在り処を其処に乗せ、迷いを断ち切る刃と成す。
「だから私は食らいましょう。私の血肉とするために」
「だから己は食らわれよう。御前の血肉となるために」
 深い深い森の奥、二人は互いに歩み寄り、手を取り何処かへ消えたという。

 それきり男を見た者は無く。
 その後二人がどうなったのか?
 それを知る者は、一人として居ない。(了)

     ○

「……なあ、香霖」
 木の匂い、湿気、埃、黴臭さ。
 それらがない交ぜになった空気を深く吸い、大きな溜息と共に、霧雨魔理沙は言葉を吐いた。
「ん。もう読み終わったのかい? 魔理沙」
「ああ、終わったことは終わったんだが、……これ、何だ?」
「書けと言った君が尋ねるか? ご注文通りの恋愛小説だよ」
「あー、いや、うん。まぁ確かに、そう言ったけどさ」
 紙面に躍る文字列に視線を落とし、魔理沙は目頭を押さえ、どう言えば良いものかと頭を悩ませる。どう表現すれば、この小説の著者――森近霖之助に対し、自分が抱いた所感を過たず伝えられるだろうか、と。
「なんて言うか……まずさ、なんでこんな後味の悪い話なんだ?」
「確かに悲恋ではあるがね……。恋愛ものでは、それはそんなにおかしなことかい?」
「いや、人間と妖怪なら、そりゃ悲恋にもなるだろうけどさ」
「だろう? この物語には、この結末こそが相応しいわけだ」
 頷きながら言う霖之助に対し、しかし魔理沙は「いや、でもさ」と前置きをして意見する。
「そんな変な組み合わせにするから、悲劇めいた結末になるんじゃないのか?」
「む。変とはまた随分な物言いじゃないか。君がこんなものを書けと言うから、僕なりに考えて書いたというのに」
「でもさ、考えてみろよ香霖。今時の幻想郷を見回してみても、この組み合わせは、ちょっと見つからないぞ?」
「見つからないからこそ、物語が成立するんじゃないか」
「その所為で後味悪くなってたら意味が無いだろー?」
「現実とは得てして残酷なものだよ、魔理沙」
「言ってることが矛盾してるぜ、香霖。……まあ、ともかく」
 ニヒルな笑みを浮かべる作者に原稿の束を返却すると同時、不敵な笑みを浮かべた魔理沙はビシリと指先を突きつけ声高に言う。
「明るくハッピーな話でなきゃ、私は認めないぜ?」
「……仮にも魔女なら、人を指で差すんじゃあないよ、魔理沙」
「大丈夫だ、ただの呪いだからな。これを解いて欲しければ――」
「明るい原稿を書き下ろせ、と」
 くく、と笑う魔女を見て、霖之助は「やれやれ」と溜息を吐いた。

     ●

「頼む! 俺と結婚してくれ!」
 ――人間には、何故こうも奇妙な輩が存在するのだろうか?
 土下座をしながら婚姻を迫る男に対し、妖怪は思う。
 何故このような命知らずが、この歳まで生き長らえることが出来たのだろうか、と。
「絶対あんたの役に立ってみせる! だからどうか、どうか首を縦に振ってくれ!」
「役に立つ、と言われてもねえ……」
 ――人間なんて、私にとっては食料でしかないのだけれど。
 はあ、と溜息を吐き、妖怪は頭を掻く。真実、人とは彼女にとって木に生る柘榴も同義であり、腹が減れば掴んでもぎ取り、食らうための存在である。偶に愛おしく感じることもあるが、それは人で言うところの家畜に対する感情に等しい。恋愛感情など抱こう筈も無く、ましてや夫婦になるなど言語道断、理外の理。
「一応聞いてみるけど、あなたは何が出来るの?」
 しかし今の彼女は満腹であり、当分の間は食事を必要としない。故に、食料としてすら見て貰えなかったのが幸いしたか。たまにはこのような戯れも良いだろうと、彼女は問い掛けた。
「炊事、掃除、洗濯、芝刈り、夜伽だってこなしてみせる! 流れてくるなら桃だって!」
「桃は要らない。っていうか、流れてこないから」
「分かった! 桃は要らないんだな!」
 ――……嗚呼、こいつはあれか、阿呆だな。
 二言三言交わしただけであったが、それでも確信を得るには十分であったが、袖触れ合うも他生の縁。馬鹿と鋏は使いようとも言うのだから、この阿呆にも使い道はあるかも知れぬと、少し試してみたくもなった。
「炊事が出来る、と言ったわね?」
「言ったとも!」
「私が何を食べているか、分かった上で言ってるのかしら?」
「おうともさ! あんたがよく食うのは人間だ。だけども四つ足、野菜、果物、なんでもちゃんと食うんだろ? 好き嫌いが無くていいことだ!」
「……はぁ」
 若干の頭痛を覚え、思わず溜息が漏れた。阿呆ではあるが明るいのが救いと考えるか、それとも明るいだけの阿呆と考えるか。どちらであろうかと寸刻悩み、しかし次の瞬間、彼女は時間を無駄にしたことに気付き、愚行を恥じる。
「まあ、いいでしょう。食われても文句が無いというのなら、勝手について来なさいな」
 ――このような輩を追い払うためだけに時間や頭を使うなど願い下げだ。どうせそのうち勝手に逃げ出すだろう。使えぬようなら酒のつまみに、使えるようなら飼ってやろうではないか。
 そう見切り、住処へと帰り着き食後の惰眠を貪ることだけを考え歩き出した彼女の足を、しかし男の声が止めさせた。
「あ、そのことなんだが、俺の家に住むってのは……」
「絶対、嫌」
「そうかぁ。いやあ、残念残念」
 ――もう夫婦になったつもりでいるのか? まさかここまで阿呆とは。話も聴かず物言わぬ肉塊にしておくべきだったか? いやいや、今からでも遅くは……。
 一寸誘惑に駆られそうになったが、妖怪の矜持がそれを許さなかった。
 ――いや……、殺したら食わなきゃいけなくなるわね。
 別に小食というわけでもないが、流石に満腹のところに成人ひとりは胃に堪える。
 ――食われても良いならなどとは言わず、命が惜しく無ければと言うべきだったか。これからは不用意な発言を控えねば。
 妖怪は密かにそう誓った。

     ○

「なあおい、香霖」
「なんだね、魔理沙」
 今日も今日とて、香霖堂は黴臭い。
 ――それを厭だと思わない自分は、鼻がおかしくなってしまっているのではなかろうか?
 文字の世界から帰って来たした魔理沙はそんなことを考えつつ、途中まで読み進めた草稿をひらひらとはためかせ、問う。
「これ、明るいっていうか、頭が軽いだけじゃないのか?」
「うん? 似たようなものじゃないのか、その二つは。どちらも英語ではライトだろう?」
「いや、うん、……うん?」
 煙に巻かれたような感覚を覚え、魔理沙は首を傾げるが、
「なんだ、まだここまでしか読み進めてないじゃないか」
「いや、でも、前の話があれだったからさ」
「まあそう言わず、読み進めてみたまえ。今回も人と妖怪の恋物語だが、一応ハッピーエンド仕立てにしてあるからね」
「んー……、分かった。最後まで読んでみる」
 強引に押し切られ、大人しく文字を追うことにした。

     ●

 家事を男に任せるようになって、確かに生活は格段に良くなった。元が悪すぎた、とも言う。
 不精者が住まいを得れば、その後の様相は概ね二通りに分けられる。一つは不精が改められ、人並みの生活が維持される場合。もう一つは不精を貫き通し、人並み以下の生活へ突入するものである。そして彼女は、後者だった。
 しかし男はその様相に驚嘆こそすれ、逃げ帰るような真似はせず、むしろ「こんだけ汚れてりゃ、どうやったってマシになりますさ」などと何憚ることなく宣言し、しかも見違えるほどスッキリさせた。
 無論、妖怪が出したごみである。積もり積もったその中には、当たり前のように人間だったものも転がっていたのだが、それに対する動揺を見せることなく、彼女に対する追求すらせず、男は全てを終わらせた。
 ――阿呆にしては、存外やるわね。
 流石に一日二日で終わるような仕事ではなかったが、それでも日に日に片付いて行く己が住まいを見て、そのような思いが湧き出てきた。それは男に興味を持たせるには十分であり、
 ――それとも、阿呆の皮を被った大物か?
 同時に、彼のことを警戒させるには十分な出来事であった。
「家が綺麗になったところで、どうですここでちょいと一発」
「屠るわよ」
 ――ともあれ、この下品ささえなければ、もう少し付き合いやすいのだが。
 クイッと腰を押し出す姿に、やはり阿呆なのではないかと頭を痛めたりもしたが、用心に越したことはないと寝室は別々にしていたし、当然、男女の営みなどは頑なに拒否してもいた。

 奇妙な同棲生活も、日が経てばそれなりに上手く回るようになる。が、そんなある日、二人の間で一つの諍いが生じた。
「どうあっても断ると言うの?」
「ええ。それだけは、いくら頼まれたって聞けませんや」
 時折おかしなことを口走りこそすれ、彼女の命令に対して、男は従順であった。そんな男が、この日初めて、彼女の命令を拒んだのだ。
「食べるために殺す、それだけのことでしょう? 生きとし生けるもの、全てが当然のように行っていることではなくて?」
「ええ、確かにそうです。ですけど、相手が人間となりゃあ話は別なんです」
「私が人間を食べることは、重々承知していた筈でしょう?」
「ええ、ええ、知ってました。知ってましたとも」
「あなたが調理した中に、人間が混ざっていたことも」
「それも勿論。妖怪は、人間を食うもんですから」
「そう……じゃあ、何故?」
 ――何故この人間は、今になって私に楯突く?
 彼女の内に生まれたのは、抗いに対する怒りと、その理由に対する不明。期待を裏切られた落胆も、恐らくそこにはあったのだろう。
 ――私のためならなんだってする、壊れた人間だと思っていたのに!
 自分のものが、自分の思い通りにならない苛立ち。その原因が、目の前の一介の人間であるという事実が、更に彼女を苛立たせる。
「人を調理に出来て、しかし手には掛けられない。そんな道理が、何処にある!?」
 ここまで怒りを露わにするのも彼女にとっては久しくもあり、それ故歯止めも利かなかった。その昂ぶりの程は、ともすればその場で男を殺し、食い散らかしてもおかしくないほどであったのだが、それでも彼女を踏み止まらせたのは、男が自分にとって便利な存在であり、彼女の所有物として認識されていたからに他ならない。
 ――さあ、言えるものなら言ってみろ。下らぬ言い訳さえずるのなら、まずはその舌から引き抜いて食ろうてやる!
 今にも飛び掛らんとする女を前にして、しかし男は困ったような表情で頬を掻いて口を開く。
「あんたが食うのは人間だ。それ以外も食いはするが、でも、やっぱり人間なんだ」
 何を当然のことを、と彼女は思う。それでも男は語り続く。
「俺だって死に方くらいは選びたい。あんたに看取られて死ねりゃあ本望だが、そいつぁ流石に高望みだ。阿呆でも、そのくらいは分かる。体にガタが来て使い物にならなくなりゃあ、その時は食い殺されておしまいだろう、ってさ」
「望むなら、今すぐにでもそうしてあげるわよ?」
「それでも別に構やしねえさ。要するに俺は、最悪でも、あんたに食われる人間でいたいんだ。だから人は殺さねえし、食いもしねえ」
「それは、つまり」
「よく言うだろう? 人を殺めりゃ殺人鬼、人を食らえば食人鬼。だけど鬼にはなりたかねえ。だから俺は――」
「人を食わず、殺めない?」
「そう決めたんです、すいやせん」
 気付けば彼女の中の苛立ちは、随分なりを潜めていた。普段は頓狂なことばかり言う阿呆が、珍しくまともに喋ったことで、彼女の怒りが冷めたのか。
「……ふん、まあいいわ」
 或いは、抗いが男の信条に因るものであったことが、矜持に生きる妖怪の共感を呼んだのか。彼が一度として人の肉を口にしたことがなかったという事実も、先の言葉の裏付けとなり彼女を納得させたのだろう。
「それじゃあ、なんでもいいから食べられるものを用意して頂戴。不味かったらあんたを食うから、そのつもりでいるのよ?」
「へい、わかりやした! 肝に銘じておきやす!」
 ……いずれにせよ、この日を境に男を見る目が変わったことだけは確かであった。

「じゃ、今日の夕飯はこれでお願い」
「はいほい、っと。おぅ、こりゃまた、立派な猪を」
「さっさと血抜きしておいてよ? 味が落ちてたら承知しないから」
「分かってますって。まあ、期待しといて下さいや」
 雨降って地固まる。一方的な献身でしかなかった二人の関係は、しかし諍いを経たことで少し変化していた。彼女が、幾分かは男を慮るようになったのである。
 妖怪が力を保つためには人々を脅かし、畏れを抱かせ続けねばならない。妖怪に対する恐怖とは神に対する信仰に等しく、それ故、妖怪は人を食らう。妖怪こそが人間にとっての上位捕食者であると知らしめるためだ。
 だが、妖怪は人を食らわずとも生きてゆけるのもまた事実。これもまた神と同様に、忘れ去られさえしなければ、幾度打ち倒されようと千歳を岩に封じられようと、物質性に頼らぬその身は滅することが無いからだ。人の移り変わりは早く、しかし畏れは語り継がれる。人ひとりの生が終わるまでの間、一切人を食わずに過ごしたところで、何かが変わる筈も無い。
 ……少なくとも彼女はそう考え、それを実行していた。それが彼女のなりの、献身に対する報いであったのだろう。
「そういや最近、人を攫ってねえみたいですけど……」
「何よ? 人死にが出た方がいいの?」
「いや、そういうわけでもねえんですがね?」
 彼女が何ゆえ人を食わぬようになったのかが、男には今ひとつ理解できない。しかし、死すれば肉と言い聞かせたところで、人の形をしたものを捌くことに慙愧の念を抱いていたのもまた事実。せめてその死を無駄にはせぬと美味い料理に仕上げることが、彼に出来る唯一だった。
 もっとも、味見さえ出来ぬままに供していたのだから、頓珍漢な料理を作っていたのでは、という懸念もあった。そう捉えれば、最近の食性は「お前の作る人肉料理は不味くて食えたもんじゃない」という意味にも思えた。
「問題ねえんなら、忘れてくだせえ」
「無いわよ、何もね」
 ――問題なんて、無い筈なのに。
 彼女は胸の内でそう繰り返すと、不貞腐れたように視線を切った。それは己の胸中に居座る謎の苛立ちに対する不機嫌であったのだが、彼にしてみれば「口にするのも腹立たしい」という態度に見えたのだから、彼が戦々恐々となるのもまた、仕方のないことであった。

「今日からは、あなたも此処で寝なさい」
 それから幾日かが過ぎたある日の夜。さあ寝よう、と彼が思っていたら、説明無しに手を引かれ、彼女に突然命じられた。
「こりゃまた一体、どうしたことで?」
「何よ? 文句があるっていうの?」
「いや、そういうわけでもねえんですがね?」
「だったら黙ってそこに寝なさい。……変なことしたら承知しないから」
「はあ」
 あまりにも唐突が過ぎたか、流石の彼も軽口を飛ばすことなく唯々諾々と従うだけである。
 一つの部屋に二組の布団。幾許かの距離を隔ててはいるものの、埋めることの容易い距離で、二つは並べられていた。それは詰まるところ、今ひとつ素直になりきれぬ彼女が示した許しの形であったのだが、そこは従順な阿呆である。彼女の言葉を頑なに守り、寝所を想い人と共にしているにも関わらず、真実全く何もせず、そのまま幾つかの夜が過ぎ去った。
「……ねえ」
「はい?」
「どうして何も、しないのよ?」
「そりゃあ、するなと言われましたからで」
「……っ!」
「い、いてぇ! いてぇです! なんですか、いきなり!」
 ――ああもう、なんでこんな阿呆のことを!
 機微を察せぬ阿呆と、察することを期待した己。そして結果がこのざまか――そのような怒りを爆発させたとして、誰が彼女を責められようか。
「もういい、寝る!」
「えー、あー、うん。おやすみなせえ」
 そして彼女は、照れから出た言葉だったとはいえ、またしても不用意な発言をしてしまったことに、ギリギリと歯噛みをするのであった。

「……変なこと、してもいいわよ」
「へ?」
 ようやく彼女がそれを口に出来たのは、閨を共にし始めて一ヶ月ほどが過ぎた頃だった。
「だから! そのっ、男女、の……」
「あぁ、夜伽ですね!」
「……ええ、そうよ」
 反射的に振り下ろしかけた手を制し、一拍を置き、動揺が悟られないことを願いながら彼女は肯定する。部屋が暗くて良かったと、心中密かに安堵しながら。
「んじゃあ、そっちに行った方がいいですかね? それとも、こっちの布団で?」
「……こっち」
「そいじゃ、ちょいとお邪魔して」
 言うと同時、彼は行動を開始していた。身動ぎと衣擦れの音が聞こえたかと思えば、それが何の音であるかを彼女が想像するよりも早く、布団の中へと夜気が忍び込み、それを埋めるように人肌の温もりが

     ○

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待てこーりんー!」
 黙々と読み進めていた魔理沙が、唐突に椅子を蹴立てて立ち上がった。当然、声と音は間近で書き物をしていた霖之助の耳にも届き、その手を止めさせる。
「ん? どうした、魔理沙?」
「香霖、お前、ちょっと、これ、これ……!」
「んー……ああ、濡れ場に差し掛かったのか。――どうだい?」
「どうだい、じゃ、ねえー!」
 洋燈の光の下で得意げな表情を見せる霖之助の顔面目掛け、魔理沙はあらん限りの力を込めて紙束を叩き付けた。ハリセンの如き快音が、店内に反響する。
「いたいけな少女になんてもんを読ませやがる……! 変態だ! お前はドの付く変態だ!」
「失敬な、言いがかりは止してくれ。大体、小説に濡れ場は付き物じゃないか」
「読む相手のことも考えろ!」
 騒ぐほどのものかねと、床に散った原稿を拾い集め、読み返ながら霖之助は首を傾げる。
「ふぅむ、そこまで刺激の強いものを書いたつもりはなかったんだが」
「……お前、むっつりだったんだな」
「そういう魔理沙は随分と」
「だ、ま、――」
 口を封じようと伸ばしかけた手を、しかし魔理沙は中空でさまよわせた。変態の肌に触れることが、なんとなく躊躇われたのだ。
 ――まさか、あの香霖に限って、そんなこと、しないよな……?
 思いはするが、先ほどまで読んでいたもののせいだろうか? その唇に触れた瞬間エロ時空に引き込まれてしまうのではないか、などという懸念が浮かび、魔理沙の動きを封じたのだ。
 考えてみればここは、人気の無い場所に建てられた、男が一人で暮らす一軒家である。絶対に間違いが起こらないなどと、何故言い切れよう。考えを改めてみれば、店内に充満する古く黴臭い空気でさえ、何か淫猥なものに思えて来る。
「と、ともかく!」
 そんな空想を振り払うかのように伸ばしかけた腕を横に薙いで、魔理沙は素早く帽子を取り上げ、顔を隠すように目深に被ると、
「長いしエロいから、それは没! 次来る時までに新しいの、書いといてくれよ!」
 締め切りが近いんだからな、などと勝手なことを一方的に告げて、壁に立てかけてあった箒に跨り、逃げ出すように飛び立った。
「……なんともまあ、御無体な」
 残された霖之助に出来たのは、魔理沙が残した締め切りという単語に若干の疑問と幾つかの予想を巡らせつつ、その背を見送ることぐらいなものであった。

     ○

「よーっす。原稿取りに来たぜー」
 それから二日が経ち、ようやく魔理沙が香霖堂に顔を出したかと思えば、そのようなことを高らかに言い放った。差し込んでくる日の光が、寝不足の目に、少し痛い。
「また唐突な」
「ああ、言ってなかったっけ? 今日が締め切りなんだが」
「聞いてない。が、予想の範疇ではあった」
 一通り言いたいことを言い切った霖之助は、新たに書き起こしておいた原稿を差し出した。霖之助が締め切りを知ったのは実にこの時が初めてであったが、そこは長年の付き合いである。どうせそんなことだろうと、抜かり無く仕上げてあった。
「お。今回は厚みがないな」
「ご要望にお応えして短くしてみた。が、今度は少しばかり展開が……って、魔理沙?」
 魔理沙は原稿を受け取るなり、ろくに検めもせぬまま折りたたみ、それを懐へと仕舞い込んでしまう。そればかりか、ひらりと箒に跨って、飛び立つ体勢にすら入っていた。
 ――それほどまでに時間がないのか?
 茶飲み話をする暇くらいはあるだろうと高を括っていただけに、まるで原稿だけが目的であるかのような今回の来訪は、霖之助にとって少々寂しくもあった。そもそも何のための原稿であるかもはっきりしない現状では、締め切りの重要性もやはり量り得ない。対話を欲したのは、その辺りの話を魔理沙の口から聞きたかったからなのだが、
「悪いな、香霖。積もる話はまた今度!」
「あ」
 文字通り、魔理沙はあっという間に空へと飛び立ち、芥子粒ほどにしか見えなくなったその姿でさえ、やがて青に溶けて消えてしまった。方角から察するに、目的地は妖怪の山だろう。幾つか思い浮かべていた予測の一つが、俄かに現実味を帯びる。
 原稿、締め切り、妖怪の山。それらを一つに繋げた先に見えて来たものとは――
「いやいや、まさかな」
 口にし、頭を振ってみたところで、限りなく確信に近くなった『文々。新聞の紙面を飾る』という予想は振り払えなかった。

     ●

 ――アタシの名前はユカリ。心に傷を負った妖怪賢者。ロリカワババアでスキマ体質の愛されガール♪ アタシがつるんでる友達は神サマをやってるカナコ、従者にナイショでつまみ食いをしているユユコ、訳あって永遠亭の大黒柱になってるエイリン。
 友達がいてもやっぱり幻想郷はタイクツ。今日もカナコとちょっとしたことで口喧嘩になった。女のコ同士だとこんなこともあるからストレスが溜まるよね☆ そんな時アタシは一人であぜ道を歩くことにしている。がんばった自分へのご褒美ってやつ? 自分らしさの演出とも言うかな!
「あームカツク」・・。そんなことをつぶやきながらしつこい巫女を軽くあしらう。「ユカリさん、ちょっとスペカ食らってくれません?」どいつもこいつも同じようなセリフしか言わない。サーペントの誘導は便利だけどなんか薄っぺらくてキライだ。もっと等身大のアタシを見て欲しい。
「すいません・・。」・・・またか、とセレブなアタシは思った。シカトするつもりだったけど、チラっと巫女の顔を見た。
「・・!!」
 ・・・チガウ・・・今までの巫女とはなにかが決定的に違う。スピリチュアルな感覚がアタシの体を駆け巡った。「・・(カワイイ・・!・・これって運命・・?)」
 女は針巫女だった。連れていかれて串刺しにされた。「キャーやめて!」夢想天生がきまった。
「ガッシ!ボカッ!」アタシは死んだ。テーレッテー(了)

     ○

「ほぎゃあああ!」
 早朝の香霖堂に、悲鳴と倒れ込む音が響き渡った。
 自宅前に放り出されていた文々。新聞を見た霖之助は、やはり予感は的中したかという思いと共にそれを拾い上げ、恥ずかしいような、誇らしいような、得も言われぬむず痒さを感じながら椅子に座し、紙面に目を通した。だがそこに掲載されていたのは、天に唾する作品だった。
「まさか、そんな、馬鹿な!」
 確かにそれは己が書いたものであり、記事の頭にも作・森近霖之助と記されている。だがそれは面白半分に書いた原稿であり、ただの手慰みとして引き出しの奥深くへ仕舞い込まれたはずの、決して世に出してはならぬ作品だった。これまで妖怪のモチーフとして用いてきた八雲紫の名をはっきりと書いてしまっているのが何よりの証拠であり、同時にそれこそが、この原稿を封じなければならない理由でもあった。
「……そうか、分かったぞ! 魔理沙に渡した原稿の中に紛れ込んでいたに違いない!」
 猿でも分かる原因究明、完了。が、しかし時既に遅し。賽は投げられたのである。
「こっ、殺される……、間違いなく殺される……!」
 疑問が解決された瞬間、平生の落ち着いた物腰は何処へやら。霖之助は狭い店内を右へ左へと往復し、どうにかして状況を打破出来る方法はないものかと思案を始めた。
 回収は現実的ではない。このような新聞を取っている者が、事情を説明したところで素直に応じてくれる筈がないからだ。何より、誰が取っているかが不明である。
 登場させた人物に知られなければ問題は無いかとも思ったが、やはりこれも現実的ではない。少しでも話題に上るようなことがあれば、抜け目の無い連中のことである、どこかから新聞を取り寄せるに違いない。それどころか、射命丸文本人が責任逃れのために自ら献上している可能性すらある。文末をよくよく見れば「当該小説ノ文責ハ全テ著者・森近霖之助ニ在リ」という但し書きが付いていた。
「こんなもん書くくらいなら掲載すなーっ!」
 雷鳴にも似た音を轟かせ、霖之助は新聞を真っ二つに引き裂いた。それも致し方あるまい。今や彼の人生はまさに八方ふさがり、所謂袋小路であったのだから。
 だが、そんな暗澹たる霖之助の脳裏に、突如として一筋の光明が射し込んだ。
「……そうだ、慧音! 慧音に全部無かったことにしてもらおう!」
 後光を従えて暗闇を照らしたのは、霖之助が霧雨屋に籍を置いていた頃からの知人・上白沢慧音であった。
「彼女の力なら新聞を、いやさ原稿自体の存在を隠せる筈だ……!」
 普通に泣きついたのでは「反省しろ」と一蹴されて終いであるが、そこは旧知の間柄である。慧音の泣き所はしっかり押さえていた。慧音は、マニアックな衣装に弱い。藤原妹紅の身丈に合わせてあれば、殊更である。
「今日ばかりは霊夢、君に感謝するよ……!」
 芸は身を助く。霊夢の無茶な注文により常日頃から鍛えられてきた裁縫技能が、友人への切り札に、ひいては己の危機を救うことに繋がろうとは夢にも思わず、
「そうと決まれば善は急げだ!」
 ――霊夢は気味悪がるかもしれないが、少しはツケを大目に見てやろう。
 そんな現金思考を巡らせつつ霖之助がドアノブに手を掛けた、その瞬間、
「霖之助さん、居るー?」
 ドアは外から開かれた。朝靄に乱反射した眩い朝の光の中には、これでツケはチャラになる、とでも言わんばかりの邪悪な笑みを浮かべた博麗霊夢と、
「ふふふ、ちょっとお時間よろしいかしら?」
「よろしくなくても、頂戴するけどな……!」
「は、ははっ、はははははは……」
 青筋浮かべた笑顔の二人――日傘の柄から破滅的な音を立てる八雲紫と、手のひらに拳を打ちつけ破裂音を奏でる八坂神奈子の姿があった。
「はぁーん!」
 ――前言撤回! ツケは倍にしてやる……!
 生きていられたらな、と心中で付け足すよりも早く、彼の意識は断絶する。

 その後彼がどんな目にあったのか?
 それを知る者は、三名ほど居る。(了) inserted by FC2 system