「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」

 なあに? どうしたの、こいし。

「今日ね、面白い人間と遊んできたの!」

 へえ、それは良かったわね。

「えへへ、うん!」



 ……目の前には朗らかな笑みを見せるこいし。
 この子のこんな表情を見るのは、いつ以来だろうか?

 私たち姉妹は、長らく笑うという行為を忘れていた。
 当然だ、笑えるはずなどあるまい。
 私たちは心を覗き見る妖怪。
 誰にも喜ばれず、喜ばせず、疎まれるだけの存在。

 受けた悪意は千か万か。
 誰もが誰かを罵り憎み、誰もが我らを苛んだ。
 故にこいしは瞼を閉ざし、故に私は地底に下りた。
 盲いた妹の手を取って。



「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」

 なあに? どうしたの、こいし。

「今日はね、また別の子と遊んできたよ!」

 へえ、それは良かったわね。

「うん!」



 旧地獄で送る生活は、極楽だった。
 苦労が無かったと言えば嘘になる。
 だが、先客たちとの折衝を終え、生活の基盤を築いてからは、本当に気楽だったのだ。

 嫌われ者たちが押し込められた地底世界で、誰が好き好んで繋がりを持つ?
 鬼が周囲を巻き込んで酒盛りをする程度が精々だ。
 後はお互い無関心を装って、静かに静かに生きて行く。
 日陰者たちの楽園だったのだ、此処は。

 だと言うのに。
 地上の神が、それを台無しにした。



 その目も、もうすぐ開きそうね。

「うん。……でも、不安だな」

 何が?

「心が読めるようになったら、また疎ましがられるんじゃないかって」

 安心なさい、こいし。
 もし、何があっても。
 私だけは、変わらずに居てあげるから。

「……うん。ありがとう、お姉ちゃん!」



 不幸中の幸い、というべきだろうか。
 ここを訪れた人間たちの興味は、地上に湧き出した温泉に向けられていた。
 怨霊の噴出と空の野望が防がれた今、わざわざ此処まで足を運ぶ者など居ない。
 だが、地上へ向かう者は居た。
 他でもない、私の妹だ。

 こいしの足を止めることは出来ない。
 無意識にのみ生きる彼女を、捕まえられるはずもない。
 こいしの心を止めることは出来ない。
 理屈に生きぬ彼女を、説き伏せられるはずがない。
 こいしの瞳を閉ざすことは出来ない。
 彼女自身が、他者を求め始めたのだから。



「お姉ちゃん、ただいま!」

 おかえりなさい。今日も遊んできたのね?

「うん! えへへ、今日はね、神様と遊んできたの」

 へえ、地上も随分と様変わりしたのね。

「……ねえ、お姉ちゃん」

 なあに? こいし。

「良かったら、お姉ちゃんも一緒に、遊びに行かない?」

 私は、いいわ。こちらの方が性にあってるもの。

「ん……そっか」



 こいしの目は、日増しに開かれてゆく。
 もはや、手を引く存在は必要あるまい。
 ならば。
 私が楽になれる日も、そう遠くない。



   *   *   *



「おはよう、お燐ちゃん。お姉ちゃん見なかった?」
「……そっか。うん、それならいいんだ。じゃあね」

 お姉ちゃんの足跡を追う。
 それが私の、一日の始まり。
 お話したいことがたくさんあるのに、私はまだ、一つも話せずにいる。

 この目で見てきたもの。
 この心で見てきたもの。
 世界は変わっていたこと。
 いっぱいいっぱい、お話したかったのに。

 お姉ちゃんは、瞳を閉ざしてしまった。



「おはよう、お空ちゃん。お姉ちゃん見なかった?」
「……そっか。うん、いつもどおりだね。それじゃ」

 お姉ちゃんは、今も地霊殿に居る。
 そして無意識のまま、いつも通りの生活を続けてる。
 けれど、誰にも見つけることは出来ずにいる。

 お姉ちゃんが瞳を閉ざした理由。
 それは多分、私の目が開いたから。

 ……ううん。本当は、きっと逆だ。
 私が瞳を閉ざしていたから、お姉ちゃんは心を閉ざせずにいた。
 だから、私の目が開いて、安心して眠りにつけたんだと思う。



 でも、私は、それが悲しい。
 人を恐れ閉ざされた私の瞼は、人恋しさに再び開かれた。
 けれど一番恋しい人は、遠くへ行ってしまった。
 決して手の届かぬ、無意識の世界へ。

「……お姉ちゃん」

 我知らず、恋しい人の名を呟く。
 ――頭を、優しく撫でられたような気がした。

「お姉ちゃん?」

 振り返る。
 誰も居ない。
 けど、

「……えへへ」

 温もりは、まだ残っていた。
 だから、間違いない。
 お姉ちゃんが、私を慰めてくれたんだ。

「うん、分かった」

 もう、恐いものなんてない。
 もう二度と、瞳を閉ざしたりしない。
 だから――

「いつか、一緒に遊ぼうね? お姉ちゃん」

 私は待ち続けよう。
 愛しき人が、目覚める日を。 inserted by FC2 system